黒猫に誘われて

りいた

第1話(完結)

 椅子に座ったままお尻を突き出すように窓枠に組んだ腕を乗せて寄り掛かっていた海老名拓真えびなたくまが突然がばりと起き上がり、あまりの勢いに隣の席でスマートフォンを操作していた僕は思わず小さく「わっ」と声を出してしまった。

 ――急になんだ?

「あれー? あんな所に猫が居るよお」

 訝し気な表情を拓真に向けるが、拓真は気付いていないのか僕の視線を無視して窓の外にまで右腕を伸ばし人差し指を立てて下方を指した。

 その指先を追うように、近くに居た品野潤一郎しなのじゅんいちろう斉賀雄大さいがゆうだいも僕と一緒に窓から身を乗り出す。高校二年生の僕達の教室は二階にあるため、拓真の指す先はこうして乗り出さないと見られないのだ。

「ああ、本当だ。猫……居るな」

 目を細めた潤一郎が細いフレームの眼鏡の縁を上げながら言った。

「でも何であんなところにいるんでしょうか? 学校で猫なんて見た事ありませんけど……野良、でしょうか? ううん、それにしては綺麗な気が……飼い猫でしょうか? 迷い猫? 何れにせよ、どうやって校内に入ったのでしょう。高いフェンスで囲まれていますし、難しいように思いますけど」

「そういえば僕も見た事無い……かも」

 雄大の疑問に僕も同調して頷く。

 校庭は眩しい程の太陽光に照らされ白くなっており、その中に黒い塊が見える。黒猫だった。遠目からでも判る程にさらさらとした毛並みでとても野良には見えなかった。

 ――あ、首輪してる。

 黒猫が首を傾げた際にちらりと赤い首輪が見えた。矢張り野良ではなかったようだ。

 しかし何故あんな所に猫――しかも飼い猫が居るのはどうも腑に落ちず、僕は目を開いてじいっとその黒猫を眺めた。

  防犯の観点と野球部の練習の防球の目的から、学校を囲うフェンスは十数メートルあるためフェンスを超えての侵入は不可能だと思う。次に侵入経路と成り得る校門などの出入口には――詳しい事は判らないが――忌避剤が置かれていると言うしネットも掛けられている。そのためなのか、僕は雄大の言う通り本当に学校の敷地内で猫を見掛けた事が無いのだ。当然猫だけではなく、他の動物だっていない。精精空から侵入出来る雀がいいところだろう。

 にゃあ――。

 黒猫の口が動き、とても可愛らしい鳴き声が聞こえたような気がした。しかし黒猫と僕の間には距離があるため本当に鳴き声が聞こえたとは思えない。だから本当に、気がした、だけなのだろう。

 僕はちらちと僅かに視線を横にずらしてみた。

 潤一郎と雄大も黒猫を凝望している。

 あの黒猫は一体なんなのだろう。ただの猫の筈なのに、何故だかとても気になってしまう。平素在り得ない場所に居る事が不思議で不可解だから気になるだとか、そんな単純な事ではないように思う。

 ――なんだこの胸騒ぎは。

 理由が判らないという気持ち悪さに、益益黒猫から目が離せなくなる。

「ねえ! 見に行こうよ! 雄大君と和彦かずひこ君と同じように僕も学校で猫なんて見た事無いよ! これは事件だよ! 事件!」

 拓真ががたりと大きな音を立てて腰を浮かせ、僕達を促すように両手を大きく振る。その声にはっとしたように全員が拓真に視線を移したため、一瞬ではあるが黒猫から全員が視線を外してしまった事になると気付いた僕は、慌ててもう一度黒猫に視線を戻す。

「え……」

 ――黒猫は……。

「居なくなってる……」

 僕は何故かほっとしたように、窓から乗り出した体を戻し椅子に座り直した。妙に昂った気持ちが少しずつ落ち着きを取り戻す。僕達四人は、黒猫自身ではなく何か別の得体の知れないものに魅入られ、催眠術にでも掛かってしまったかの如く興奮状態に陥っていたのだ。だからあんなに真剣に注視してしまったのだ。正常では無かった。

「ええ! そんな! 皆が愚図愚図してるから居なくなっちゃったんだよお! 探しに行こう! きっとまだ近くに居る筈だよ! ねえっ早く!」

 行こう行こうと地団太を踏む拓真の熱はまだ引かないようだ。しかし僕はすっかり気が抜けてしまった。

「もうすぐ授業も始まってしまいますし、もう宜しいのではありませんか?」

 窓から離れた雄大が肩を竦めて拓真を宥めるように言った。

 その時――。

「あ、居た」

 声を出したのは潤一郎だった。

 どくん。

 僕の心臓は再び大きく脈打ち血をどくどくと全身に巡らせる。引いた筈の高揚感が再び湧き上がる感覚に僕は武者震いをした。蠱惑さを放つ黒猫の存在が確実に僕の心臓を捉えている事に気付き、込み上げる想いに制止を掛けようと必死になる。

「えっ嘘っ! あ! 本当だ! やったあ! 早く行こう! また居なくなっちゃうよ! ほら! 早く! ねえ早く! ああもうっ僕は行くよ!」

 居ても立っても居られないと言わんばかりに体を跳ねらせ目を輝かせた拓真が勢いよく教室を飛び出し、残された僕達は顔を見合わせ同時に立ち上がった。


 拓真は昇降口の先に立ち竦んでいた。

「おい」

 潤一郎が呼んでも、返事をしない。

「おい、拓真。黒猫は居たのか……あ」

 潤一郎も立ち竦んでいる。僕は漸く靴を履き終え慌てて二人を追い掛ける。外に出て、同じように「あ」と声を漏らしてしまった。

 黒猫がじいっと此方を見ていたのだ。黄色い瞳が僕達を真っ直ぐに射貫いている。全身の筋肉が硬直してしまったかのように動けなかった。僕達もその視線を受けるように黒猫を見続けた。

「にゃあ」

 黒猫が鳴いた。今度は気のせいなどではなく、本当に黒猫の声が聞こえた。空想の中で聞いた可愛らしい鳴き声そのものだった。

「にゃあ」

 黒猫はもう一鳴きして、たんっと飛ぶように駆けた。そして数メートル進んだところで振り返り、また「にゃあ」と鳴いた。

「ねえ、あれ……僕達を呼んでるんじゃない?」

「うんうん! 矢ッ張り和彦君もそう思う? だってずっとこっちを見てたし、何度も鳴くし、一緒に来てって言ってるよね絶対!」

「にゃあ」

 黒猫がまた呼ぶ。

 僕はその鳴き声に釣られるように駆けていた。

 黒猫の走る速度は僕達より少し早い。少し走っては止まり、此方を確認するように振り向くの繰り返し。キーンコーンカーンコーンと授業開始を告げる鐘の音が聞こえた。早く戻って授業に参加しなければだとか、先生に叱られるなだとか、少しだけ頭の片隅に浮かんだが、黒猫への好奇心が勝り直ぐにそんな考えは消えた。恐らく他の三人も同じだったのだろう。誰一人、教室に戻らなければと注意する者は居なかった。

 裏庭を横切る。どんどん敷地の端の方へと向かって行った。

「あ」

 体育館裏まで来たところで、フェンスの下部が破れている箇所がある事に気が付いた。黒猫は此処を擦り抜けて校内に侵入したのだろう。黒猫はその穴を抜けて外に出て、お前達も早く此方に来いと誘うように黄色い瞳をギラ付かせている。矢張りその真っ直ぐに向けられる鋭い視線は魅惑的で、すっかり惑わされた僕達は躱す事なんか出来はしなかった。

 僕達はフェンスの前で立ち止まり、その穴を見下ろした。

「どうしますか? ……まあ、訊くまでも無いと思いますが、念のため。何だか僕は、この先にあるものを確認しなければいけないと言う使命感と、このまま本当に進んでも良いのか、悪魔の取引に立ち合ってしまうのではないかという恐怖心がせめぎ合っていて、とても変な気分です。」

 雄大がフェンスに震える手を掛けて言う。

 ――使命感と恐怖心。

 何とも言えない高揚感の正体に圧し潰されそうなっているであろう雄大の気持ちがよく判った。好奇心と警戒心との拮抗した空気はきっと全員が感じているんだ。だからこそ、此処まで必死に黒猫を追い、そして空間の裂け目――境界線とも言えるフェンスの向こうから此方を見据える黒猫に畏怖し、立ち止まってしまったのだ。

 むずむずとした気持ちが唇を噛ませる。

「この穴結構大きいですよ。通れない事もないと思いますけど……」

「ああ、そうだな。多分……行けるな。あの黒猫……俺等を試しているのか? ……ハンッ! 上等だ。行ってやろうじゃないか」

「……行こう! うんっ行こう! もう行くしかないよねっ! 僕が一番乗りー!」

 拓真は腰を屈めて両手でフェンスの裂け目を広げるようにしならが進んだ。そのお陰で穴は益益広がり、人一人程度ならば難なく通れるくらいの大きさになった。拓真に続き、潤一郎、雄大も穴を通る。そして僕も、一歩踏み出した。

 フェンスの先は竹林になっている。初めて通った。

 学校の裏手にある訳だし勿論此処が竹林だと言うのは知っていたが、用もないのに踏み込んだりはしない。だから知っているという程度で意識を向けた事は無かった。随分長い歴史があるのか、かなり立派な竹林だが興味が無いと認識も曖昧になるのだなと自分の意識の低さに落胆した。

 足元には笹の葉が散乱し、歩くたびにかさかさと音を立てている。黒猫が歩くたびに小さく鳴る笹の葉と、僕達の大きな足音が矢鱈と頭に響いた。

 竹の茂りが視界を遮る。前を歩く雄大の頭が緑に交じり見失いそうになる。このまま永遠にこの不明瞭な世界を歩き続けなければいけないような感覚に不安を覚え、妄想だけが膨らんでいったその時、急に激しい光が目を刺激した。

「う……わあ」

 竹林を彷徨い続ける妄想が終止符を打つ代わりに、僕の視界に飛び込んできたのは一本の大きな桜の木だった。幹がとても太く、わさわさと花弁が茂りより一層大きく見える。遠目から見てもその大きさと威圧感に圧倒される程だ。

「ヤバイよ! 何あの桜! めっちゃ綺麗ー! こんな所にこんなに大きな桜の木があったなんて僕知らなかったよお! しかも一本だけって異空間みたい! 凄い凄い凄い!」

「おい、引っ張るなよ」

 目を煌煌と輝かせた拓真が、潤一郎の袖口を掴みながらぴょんぴょんと跳ねている。

「黒猫は?」

 僕は頸を左右に振って黒猫を探す。

「あ! あそこに居ます!」

 雄大が指した先は桜の木だった。目を凝らすと桜の木の下に黒い塊があり、黄色い粒が二つくっ付いていた。

 ――あの黒猫……矢ッ張り此方を見ている。

「にゃあああん」

 大きな口を開いて大きく鳴いた黒猫の声が地を這って鼓膜をバチンと刺激した。またも引っ張られるように僕達四人は一斉に駆けた。傍に行くと、黒猫は上を向き、頸を左右に傾げるように揺れた。何かを見ているような気がして、僕は黒猫の視線の先へと顔を向ける。

「にゃあ」

「え? 子猫? あれ? あそこに子猫いない? 降りられなくなっちゃったのかなあ?」

「にゃあん」

「にゃああん」

 上に居る子猫と、下に居る黒猫が会話でもするように交互に鳴いた。もしかして、これを知らせるために僕達を此処に呼んだのだろうか。

 ――でも。

「これは……登れるかな」

 幹は太いため登れない事も無いように思うが、複雑に枝分かれし、その一つ一つは細く心許無い。枝先にいる子猫の場所まで行けるのか些か怪しい。

「僕が登るー! 待ってて子猫ちゃん! 大丈夫っ今助けに行くよ!」

 右手を真上にピンと上げて拓真が鼻の穴を膨らませる。早く登りたいと言わんばかりに期待にうずうずとしているのがよく判った。確かに身軽な拓真ならば枝も耐えられるように思うが、危ない事には変わりが無い。しかし結局は誰かが行かねば子猫は助けられないし、こうして悩んでいる間に子猫が落ちたりでもすれば、それこそ目も当てられない悲惨な結果となってしまう。

「よし、行け拓真。この高さなら落ちても死ぬ事はないから安心しろ」

 僕がぐるぐると独りで葛藤していると、潤一郎がゴーサインを出した。

「えっ受け止めてくれないの? 僕結構潤一郎君達に期待してたんだけど」

「おいおい俺にそんな力があると思うか? ヒョロガリ眼鏡だぞ俺は」

「ヒョロ……潤一郎君、自分で言ってて悲しくなりませんか?」

「ならん。こいつを受け止めて怪我をする方が悲しいからな。兎に角俺は受け止めんぞ」

「うわあ辛辣う」

「まあまあ。僕がちゃんと受け止めるから張り切って行っておいで」

「和彦くーん。君だけが頼りだよお」

 そう口では言うが、正直なところ自信は皆無である。潤一郎程痩せてはいないが、青年一人を受け止められるだけの筋力は無いのだ。しかし万が一があれば僕も体を張ろうという気持ちがあるのは本当だ。

「僕もちゃんと受け止めてあげますよ。薄情なのは潤一郎君だけですよ」

 雄大の嫌味に潤一郎は舌打ちをした。僕にも聞こえるような大きな舌打ちだったから当然雄大の耳にも入っただろう。しかし雄大は何処吹く風とでも言うように涼し気な顔をしている。お互い様なのかもしれない。

「うん! 判った! じゃあ僕行ってくるね!」

 びしっと敬礼を決めてから拓真は足を木に引っ掛ける。ぐっと力を込めて飛び上がるようにして枝を掴んだ。

「おおっすごい」 

 僕は思わず感嘆の声を漏らす。

 拓真は枝に掴まったまま足を器用に上に運んで、今度は腕の力を使いあっと言う間に子猫の居る枝まで到達した。

 枝の根本に跨る拓真を見てほっとした。ここまで来ればもう大丈夫だろう。

「ふう……もう大丈夫だよ! おいで子猫ちゃん!」

 拓真がよしよしとあやすように言いながら怯える子猫に手を伸ばす。しかし子猫はその場から動く事が出来ずにただただ震えていた。

 拓真がゆっくりとにじり寄る。子猫はまだ動かない。

「あと……少し」

 拓真は枝に右手を付き、左手を目一杯伸ばした。どちらの手も僅かに震えている。その光景を下に居る僕達は固唾を飲み懸命に見る。僕は心の中で何度も頑張れ、頑張れ、と祈った。祈り声援を送る事しか出来無ない自分がもどかしくもあった。

 その時、

「あっ!」

 子猫が足を滑らせて落ちそうになった。力のない手で必死に枝にしがみ付いている。一瞬の出来事なのに子猫の動きがスローモーションのようにゆっくりと見え、血の気が引いていくのが判った。それなのに心臓はどくどくと脈打ち鼓動が頭の中を響く。僕は胸元を強く掴んで握った拳に力を込めた。

 どうしよう。どうしよう。どうしよう。祈る事すらも出来無い。ただただ狼狽し不安に目元が熱くなる。震える唇は言葉を紡ぐ事が出来ずに小さく息を漏らすばかりであった。

「ああ、危ない! 拓真! もっと前に出ろ!」

 潤一郎が叫ぶ。

 潤一郎も悲痛の表情を浮かべている。雄大は今にも泣き出しそうだ。

「あと……少し……あと……」

 枝を掴んでいた右手を放り、拓真は体ごと前に投げ出して子猫に向かう。

「届けええええ」

 全員が咆哮する。

 次の瞬間、拓真の手が子猫を捉えた。

「やった……やったー! 捕まえた! 捕まえたよ!」

 拓真の大きな声が聞こえ、全員が同じように「やったー」と喜びの叫びを上げた。

 拓真は子猫を左腕に大事そうに抱えて、するすると軽やかに降りてきた。足を地面に着けたところで、子猫は拓真の腕の中からするりと抜け出し黒猫の元へと跳ねた。二匹は身を磨り寄せる。

「お疲れ様。凄いよ拓真。お手柄だ」

 拓真の肩に手を置き労いの言葉を掛けると、続けて潤一郎と雄大も賞賛の意を唱えた。

「へへ、ありがとう。大変だったよーそれにちょっと怖かったしね。でもちゃんと子猫ちゃんをお母さんの元に届けられて良かったー!」

 拓真は照れ臭そうに鼻頭を人差し指で掻き、目を細めて二匹の猫を見ている。全員が安堵に胸を撫で下ろしたところで、拓真が「えっ!」と驚愕の色を上げる。

「あ、あれ……」

 わなわなと震える口元に左手を当てた拓真が右手で指差した先を見ると、此方に頭を下げた二匹が下からすうっと透明になり消えそうになっていた。

「おっおい! なんだ! おい! 猫! ああ?」

 潤一郎の焦燥の声は届かず、黒猫達は完全に姿を消した。

 走り去ったとか、木の影に隠れただとかそういう事ではない。霧が晴れて行くようにすうっと消えてしまったのだ。

「なあ……消えた、よな。さっきまで猫達はちゃんと居たよな……? 俺だけが見た幻覚じゃ……ない、よな?」

 潤一郎の切羽詰まったような嘆きの問いは僕の耳にもちゃんと聞こえていたのだが、僕にも何が何だか判らず、ただただ呆気に取られて返事をする余裕が無かった。結局誰も、潤一郎の不安を取り除く発言は出来なかった。

 潤一郎が発した「幻覚」という言葉に僕の妄想は膨らむ。そもそもあの黒猫を拓真が見付けたのは現実の出来事だったのだろうか。桜の木の前に立つ僕は本物の僕なのだろうか。朝起きてトーストを食べてから登校し、拓真におはようと言われて――全てが幻想なのではないだろうか。

「あ、あれ、あそこ……さっきまで猫が居たところ濡れていませんか?」

 雄大の発言に、はっとし意識が現実に引き戻される。果たして現実と呼んでもいいのだろうか。僕は僅かばかりまだ妄想の中に居るようだ。

 全員で黒猫達が居たであろう場所に駆け寄る。

「濡れてる……」

「ま、まさか此処に死体が埋まってるとか、ない、かな? ほら、桜の木の下には死体があるって言うじゃん!」

「いやいや、いくらなんでもそれは……無い……よね?」

 もしこれが僕の妄想の中の出来事ならば死体が出てきてもおかしくはない。しかし妄想に支配された侭ではいけないと言う気持ちも湧いてくる。だから否定した。それでも妄想と現実の区別が曖昧な今の僕はだんだんと自信をなくし、最後は拓真と同じように死体遺棄説を疑ってしまうような発言になってしまった。

 ――いやでもまさかそんな事がこの令和の世に在り得るのか?

 いつまでも妄想の虜になっていては仕方がないと、再び意識を濡れた地面へと向ける。

「掘って、みよう」

 僕にも聞こえる程に大きく唾液を飲み込んだ拓真が意を決したように拳を握り、すっと屈んで素手で地面を掘り始めた。

「えっ拓真君、本気なんですか? やめておいた方が……」

「うん。でも、気になるよ。黒猫達が本当に消えちゃったのかも判らないし、幽霊だったのかもしれないし、判らない事だらけだよ。でもきっと何かを僕達に伝えたかったんだろうなって事は判るよ。だからわざわざこんなところまで連れてきたんだよ! 黒猫達の想いが詰まってる気がする! だから僕は掘るよ!」

 拓真の手がどんどん土で汚れていく。

 潤一郎も膝を付いて無言で地面を掘り始めた。

「……潤一郎君。……判りました。僕も掘ります」

 続いて雄大も。

 拓真の言う事も判らないではない。黒猫の想いを汲んでやらねばという気概も湧く。しかし本当に良からぬものが出てきてしまったらどうするんだという不安を僕は払拭出来ずにいた。

 三人は黙黙と穴を掘っている。

 僕は立ち尽くし、三人を見下ろしているだけだった。

 ――それでも。

「ぼ、僕も」

 黙って見ているだけなのはいけないような気がした。皆がしているから僕もしなければと思ったのもあるけれど、矢張り黒猫が僕達を此処に導いた理由をきちんと知っておかねばならないという使命感が勝ったのだ。

 四人で輪になって穴を掘る。五十センチ程掘ったところで、指先がカツンと何かにぶつかった。

「ん? 何かある」

「掘り出してみよう」

 出てきた物は、贈答用の煎餅でも入っていそうな正方形のスチール缶だった。角が少しだけ錆びている。

「開けるぞ」

 潤一郎が缶を抱えるようにして持ち、蓋を持つ手に力を込める。

「ま、待ってください!」

 それを制したのは雄大だった。

「何だよ」

「正直言って僕は中を見るのが怖いです」

「そりゃあ、皆怖いさ。でも此処まで来て今更中止はないだろう。見たくないなら見なけりゃいい。黒猫に誘われた先で見付けた宝箱だぞ。俺は中身が知りたい。ただそれだけだ」

「でも……」

「でもも待ったも無しだ! 開けるぞ!」

 雄大は目を瞑った。

 僕は雄大の肩に手を置いて「大丈夫だよ」と声を掛けた。雄大はゆっくりと開眼し、驚いた表情を僕に向ける。

 そうだ。アレは大丈夫だ。

 僕はこの缶に見覚えがある。そうアレは――。

「うわっ何だこれ。あ? これは」

「わあ! 懐かしいね!」

 缶を覗き込むように顔を寄せた潤一郎と拓真の声は恐怖に歪んだものでも、嫌悪感を表すようなものでもなく、驚きの中に歓喜の色を含んでいた。その空気に釣られるように雄大も缶を覗き込む。

「ああ、これは……そうでしたか。そういえば……此処、でしたね」

 中からは四つ折りにされた紙が五点、菓子に付いていたと思われる救急車の小さな玩具、短くなった鉛筆に戦隊もののベルトに装着するメダルなど、我楽多がごろごろと出てきた。

「僕すっかり忘れてたよお。あ、この蛙の玩具、僕のだ! 懐かしいなあ」

「俺もだ」

「僕もです。あ、この折り鶴は僕が折ったやつです」

「あ、この紙……そうだそうだ。皆でそれぞれ十年後の自分へって手紙書いたんだよなあ。どれどれ俺は……真面目に生きろ? はあ? これだけ? 嘘だろ十年前の俺……」

「あ、これ時哉ときや君のだ! 皆で仲良くずっと親友でいられますようにって書いてある……時哉君……僕達の事、こんな風に思ってくれてたんだね。くすん。僕、悲しくなってきちゃった」

 ――時哉。

 有村ありむら時哉は僕達の元同級生である。三年前に交通事故で不運にも命を落としてしまった僕の親友の一人。僕達五人は幼稚園からの幼馴染でいつも一緒に居た。そう。これはあの時のものだ。

 僕達が小学校に入学した時、拓真が「タイムカプセルを作りたい」と言い出したのが発端だった。

「兄ちゃんが今日学校で作ったんだって! 十年後に皆で集まって開けるんだって

言ってた! 面白そうじゃない? ねえ僕達もやろうよ!」

 拓真の兄は小学校六年生で、卒業までの一年間で作成した絵や作文を入れるため、進級した頃から準備を始めるそうだ。実際に埋めるのは卒業間近の時期になると拓真は嬉しそうに言った。

「はあ? どうせ俺等も小6でやるんだろう? なら別に今やらなくても良いじゃないか」

「それはそうだけど、僕は今この五人でやりたいの! お願い! 潤一郎君も一緒にやろうよ!」

「僕は賛成です。確かに面白そうですもんね」

「やったー! じゃあさ、和彦君と時哉君は? 一緒にやろう!」

「うん、まあ、いいよ」

 僕はあまりにも興奮した顔を向ける拓真に、拒否の意を示すのが何だか申し訳ないような気がして承諾した。

「俺もいいよ。やろう。あ、埋めるのはさー。ほら俺の家の近くに大きな桜の木があるじゃない? そこにしようよ! 目印にもなるしさ。どうかな?」

 そうだ。この桜の木を指定したのは時哉だった。時哉の家は僕の家と少し離れていたため、僕はこの桜の木の存在を知らなかった。タイムカプセルを埋める時に初めて見たこの木の大きさに圧倒されたんだった。

 ――すっかり忘れていた。

「あ! ちょっと! 皆! 見て見て! この写真見て!」

 過去の思い出に耽っているところ、拓真の大声で現実に引き戻されて、僕はびくりと肩を跳ねらせた。慌てて拓真が手にしている写真を覗き込む。

「あっ!」

 僕は驚愕して尻もちをついてしまった。写真に写っていたのはさっきの黒猫だったのだ。

「そうだ……あの黒猫……時哉が飼っていた猫だ」

 潤一郎も余程驚いた様子で、喘ぐように呟いた。

「き、今日は何日ですか! 今日は!」

 慌てたように声を張り上げる雄大に対し僕は、四月五日だ――と言った。

 そうだ。十年前、この桜の木の下に五人でタイムカプセルを埋めたのも――四月五日だった。

 あれから丁度十年――タイムカプセルを掘り起こす日。また皆で集まろうと約束した日。

 ――あの黒猫は。

 時哉の代わりに僕達を此処に導いてくれたのか、それとも時哉本人だったのか、はたまたその両方か、それは判らないけれど、僕達の記憶を呼び起こそうとしたのはきっと時哉の意思だ。

「時哉……」

「ねえ! また、タイムカプセル埋めようよ! 此処にさ! 時哉はもういないけど……あっ僕は今度は時哉への想いを手紙にする! ね! いいでしょ? 埋めよう!」

「ああ、そうだな。俺も提案しようと思ってたところだ」

「僕も賛成です」

「うん。僕もそれが良いと思う。じゃあ準備するために一旦戻ろうか」

 僕は十年前の思い出達を一旦缶の中に戻し蓋をした。それを拓真が抱えて立ち上がる。

 僕は唯一缶の中に仕舞わなかった黒猫の写真を握り締め、この写真はまた埋めようと、そう強く思った。


 ――了――

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