命の天秤

佐武ろく

命の価値

ある大学のある講義。


スクリーンに映し出されていたのは、哲学者フィリッパ・ルース・フットが提唱した【トロッコ問題】の図だった。



「それではこの問題について5分程討論をしてください」




大学教授の指示が講義室に響くと学生たちは互いに意見を交換しながら話し合いを始める。


ある4人グループの1人である平田ひらだひとみは一番最初に口を開いていた。



「これって答えを出すには難しいよね。だって、1人を助けたらその人の命は他の5人より価値があるって言ってるようなものだし、だからと言って数が多いって理由だけで5人を助けるわけにもいかないし」

「でもこういうのってー、誰かにもよるよね」




瞳の隣に座る亜美はそう意見した。



「まぁ分からなくもないけど、命の価値っていうのは平等であるべきだと思うんだよね」

「ん~。そういう言い方されたらあれだけど。やっぱり、友達や彼氏とか知ってる人がいたらそっちの方を助けるかなー」

「じゃあ、亜美がレバーを握る人なら俺は縛られても平気だな」



亜美の前に座る晴樹がそう言った。



「もし晴樹が1人のところに縛られてたら迷わず5人を助けるかな」

「たしかに晴樹が1人のとこにいたらこの問題も簡単だ」



晴樹に対し亜美は冗談を飛ばす。そして晴樹の隣で瞳の前に座る徹はそれに乗っかった。



「おいおい、聞いたか瞳?こいつらにとって俺の価値は低いらしいぜ」

「でもまぁ、晴樹なら..ね?」




振られた瞳もそのノリに乗っかった。



「お前らひでーな!もう絶交だ」




そして4人は一斉に笑い出し、案の定、教授に怒られた。



###



大学生の平田瞳は地元を離れ1人暮らしをしていた。そんな瞳にはずっと病と闘っている母親がおり、彼女自身そんな母が心配で一人暮らししていてもなるべく電話をするようにしていた。


だが、大学2年生になる頃には生活にもすっかり慣れ、彼氏ができ友達とも夜遅くまで遊ぶことが多くなり電話をする頻度が少なくなっていく。そして1ヶ月ほど電話をしていなかったある日の夜、父親からの留守電を聞き瞳の手からスマホが零れ落ちた。



その内容は、母親が余命宣告を受けたというものだった。


それを聞いた瞳は時間をつくり一度地元に帰ることにした。空港で父親と再会した瞳は一度実家に行き荷物を置いてから病院に向かった。個室の病室に入るとベッドに眠る母親と隣で絶えず冷たい音を発する心電計。瞳はベッド際の椅子に座ると母親の手を握り話しかけた。



「お母さん、ただいま。最近、電話しなくてごめんね...。――――そうだ。私、実は、彼氏できちゃったんだ。誠っていう優しくて面白い人。顔もカッコいいの」




最後は内緒話のように小声で言った瞳はそれからも最近あったことを話し続けた。


話過ぎたせいか喉が渇いたため飲み物を買いにいこうと立ち上がる。そしてベッドの足側を通り過ぎようとした時、病室のドアが開きハット帽に黒いスーツ姿の男が入ってきた。



「どなたですか?」




見知らぬ男に当然の反応をする瞳だったが男は聞こえていないのか無視をしているだけなのか返事も立ち止まることもせずに先ほどまで彼女の座っていたベッド際の椅子に向かった。



「ちょっと!」




瞳はそんな男を止めようと横を通りすぎる時、腕を掴もうとするがどういうわけか手はすり抜けた。そんな空気しか感じることのできなかった手に視線を落としている間に男は椅子に座る。



「一体誰なんですか!?」




瞳は視線を上げると振り向き様に少し怒りを見せながらそう言った。だが、男は何も言わない。



「人を呼びますよ!」




その様子に怒りだけでなく不気味さも感じていた。



わたくしは、生命同行社選別部の―――と申します」




やっと開いた口からは聞いたこともない社名が出てきたうえに、名前部分はミュートにしたように何も聞こえなかった。



「保険会社か何かの方ですか?」

「生命同行社は死を選別し正しき場所まで導くことを主な仕事としている会社です」

「死を?導く?」




瞳は理解不能といった様子で眉間に皺を寄せる。



「私自身このような表現はあまり好きではないのですが、あなた方に分かり易く説明して差し上げるのであればこう名乗りましょう【死神】と」




瞳は男が妄想を信じてしまったおかしい人なのではないかと疑った。



「やはり論より証拠ですか」




そんな瞳の思考を見透かすようにそう言った男は軽く開いた手を心電計に向けた。そして、男がその手を握ると心電図はピーという不快な音と共に一本の線と化す。



「お母さん!!」




瞳は慌てて母親の元に駆け寄った。



「お母さん!?お母さん!?誰か!誰か来てください!」




息をしていない母親を助けてもらおうと大声で叫ぶ。だが、誰も来ることはなくその様子もなかった。そして必死に母親に呼びかけ続ける瞳を見ながら男は閉じた手を再び開く。


すると、心電図は再び命のリズムを刻み始めた。瞳はその音を聞きながら目の前の母親が息を吹き返したのを確認しホッと安心の表情を浮かべる。



「これで少しは理解してもらえましたか?」




この男が人ではないということは分かったが、次はもしかしたら自分は寝ていてこれは夢なのではないかと疑った。



「仮にその胡散臭い仕事をしている方として、そんな方がここに何の用ですか?」

「私達は基本的に、死に直面した者の元を訪れ、その者にだけ姿を見せます」




もし男が言う通りの存在だとするならば、瞳は今は死に直面していることになる。だが、彼女は病気にかかっているわけでもなくケガをしているわけでもない。自覚している限りでは死が近づく要素はなく、それゆえ男への疑いの念がより一層強まった。


そして男はまたもや瞳の心の内を読んでいるかのように話を続ける。



「もちろん、あなたが死に直面しているわけではないのでそこはご心配なく。では、なぜ私はここに現れたのか?今、あなたが持つべき疑問は、私が『ここに何しに来たのか?』ではなく『なぜあなたの前に現れたのか?』です」

「それはどう違うんでしょうか?」

「今はどうでもよいですね。では、本題に入りましょう」




男は1度手を軽く叩いた。



「あなたは最近、大学という場所で5人を殺すか1人を殺すかという問題を投げかけられましたね」

「はい」




瞳は大学で取り組んだ『トロッコ問題』をすぐに思い出した。



「だがあなたは結局、答えをださなかった。5人側も1人側も知らない人、5人側に知り合いがいて1人側は知らない人、5人側は知らない人で1人側は知り合い。この3つのパターンのどれにも答えをださなかった」

「誰かを犠牲にして誰かを助けるような問題にそう簡単に答えを出せるわけないじゃないですか」

「命の価値は平等。本当にそうでしょうかね?」




男は片手を上に向けながら開いた。



「片やその日暮らしも精一杯なほど貧しい人」




そしてもう片手も同じように開く。



「片や世界有数の大企業の経営者」




男は視線を瞳に向ける。その視線は『この2つの命は平等か?』と問いかけていた。



「もちろん。いくら社会的地位や総資産に差があってもその命に差はありません」

「では...」




そう言うと一度両手を戻し、再び片手を開いた。



「片や何十人も殺した快楽殺人者」




もう片手も開く。



「片や国内外から支持される大国のリーダー」




男は視線を瞳に向ける。



「犯罪者だからって簡単に見捨てていいわけじゃありません」

「ではこれはどうでしょう?」




そう言うと男は指を鳴らした。すると、瞳の目の前に女神テミスが姿を現す。銅像と同じように目隠しをし片手に剣を持ったテミスはもう片方の手で差し出すように大き目な天秤を持っていた。



「片やあなたが名前も素性も知らない、この世界に存在しているかさえも分からい誰かの命5人分」




そう言うと天秤の片側に丸い光の玉が5つ乗せられた。



「片やあなたに無償の愛を与え続けた唯一無二の存在である母親の命」




そう言うと天秤のもう片側に丸く大きな光の玉が乗せられる。



「さて、あなたにとって命の価値とは社会的地位や数などの外的部分で差は開かないようですが、感情などの内的部分ではどうでしょうか?愛する人と全く知らない人。さぁ、あなたにとって重いのはどちらの命ですか?」




すると、テミスは片手に持っていた剣の剣先を下に向け瞳に差し出した。だが瞳はすぐにはそれを受け取らなかった。



「その剣であなたが見捨てる方の鎖を切ってください」

「なんでそんなことしなきゃいけないんですか?」

「個人的な興味ですよ。命の平等を語る1人の人間にとって愛する者の命もまた、他の者の命と価値は変わりないのか?とね」

「あなたの興味を満たすためにこのようなことをする義理はありません」




男は頷きながら理解を示した。



「ではもし、あなたが見知らぬ5人の命より母親の命を選ぶのならば彼女の病を治して差し上げましょう。そうしたら本来の寿命一杯人生を謳歌出来るでしょう」

「その場合、選ばれなった5人はどうなるんですか?」




瞳は恐る恐る訊く。



「死にます」




男はそれが当たり前であるようにあっさりと答えた。



「もし信念を貫き5人を選んだのなら、5人は何事もなく生活しあなたの母親は医師の宣告通り死を迎えるでしょう」

「じゃあ、どちらも選ばなかったら?」




男は不気味な笑みを浮かべた。



「あなたの愛する人々が皆死を迎えるかもしれません。より多くの見知らぬ人の命が消えるかもしれません。あなた自身が死んでしまうかもしれません。――選択をしなかった場合、何が起こるかはお教えしませんしその気もありません。何の選択もしないなどという卑怯な選択をした場合にどうなるか知りたければどうぞお試しください。オススメはしませんが」




そして男は手の上に目覚まし時計ほどの大きさがある懐中時計を出現させた。懐中時計と手とには隙間があり浮いている。



「それでは、始めましょうか。時間はこの前と同じ5分。――いえ、10分差し上げましょう。ご自身の信念と話し合って悔いのないご選択を」




そう言い残した男は空気に溶けるように消えた。それと同時に懐中時計の針も進みだす。



10分という限られた時間の中、瞳は考え、考え、考えた。初めは夢を見ているのでは?という疑問もあり選択する必要があるのか迷っていたが、もし本当なら?と考えてしまい、選ぶことを選択した。



彼女が物心ついた頃には既に病におかされていた母親。だが母親はどんな時も毎日笑顔を絶やさず瞳と接していた。そんな大好きな大好きな母親を助けることが出来るかもしれない。


だが、見知らぬ人とはいえその命を犠牲にしていいのだろうか?もしそうしたとして自分はそのことを背負い続けられるのだろうか?母親は喜んでくれるのだろうか?



それからは母親を想う感情と命の平等を語る自分とがまるで天使と悪魔のようにせめぎ合っていた。そのまま答えも出せずまま残り時間だけが消えていく。



そしてついに残り1分を迎えたころ、あの男が姿を現した。



「まだ決断はできていないようですね。ですが、あと1分も無いですよ?」




男は意地悪を言うように言った。だが、瞳はそんなことに構っている暇はない。必死に考える瞳を見ていた男は彼女がどの選択をするのか楽しみなのか口角を微かに上げていた。



残り30秒...。



瞳は一度テミスの差し出す剣に手を伸ばすが触れる寸前で手を引いた。



残り10秒...。



「そろそろ決断しなければいけませんよ」



残り5秒...。



瞳はまだ決断ができていなかった。



残り3秒...。


残り2秒...。


残り1秒...。



瞳は乱暴に剣を取り構えると、その剣を半ば投げやりに振る。



そして命を乗せた天秤は傾いた。

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命の天秤 佐武ろく @satake_roku

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