d 死に顔まで笑顔だったそうだ

 それは確かに、恐ろしく気合いの入った呪詛を抱えていたが、ただの手鏡だった。


 姉御の掌ほどの小さな鏡面は薄く曇っており、持ち手や縁の朱塗りは所どころ剥げている。年季を感じさせるその小さな呪いのアイテムは、じっと見ているとまた気が遠くなりそうなほどの情念を、絶えず発し続けていた。

 巽は途中で脱落。ソファにぐったりと沈んで唸りだす。

 そんな様子に苦笑いしながら、薬袋は師匠と姉御を指さした。


「こっちの同回生二人は知っていることだが、俺には霊感のある……お前たちは見鬼と言うんだったか、ともかく2レベくらいの従妹がいるんだ」

「本人は零感のくせにね」

「やかましいド変態」


 率直だが的確な悪口である。


「師匠、レイカンって?」

「ゼロの零で零感。鈍感すぎてのほうが避けて通るタイプの能天気人間のこと」

「おう、喧嘩なら買うぞ」

「もう、二人ともいい加減になさい」


 姉御がぴしゃりと口を挟むと、師匠と薬袋はしおらしく口を閉ざした。二人して彼女には逆らえないようだ。

 綾人は肘掛けに腰かけたまま、顔色ひとつ変えない薬袋の語りを聞いた。




 ――まず、この手鏡の持ち主は、俺のばあさんだ。

 正確には、ばあさんの姉の持ち物だったが、死後ばあさんのもとに送られてきた。


 父方のじいさんばあさんの家は長野にあって、そこの長男一家……つまり俺の親父の兄貴の家族も、その近くに住んでいる。

 2レベなのはそこの長女で俺と同い年だ。霊感なんて立派なものでもない、たまに人と違う音が聴こえたり、嫌だなと思う場所やものがあったり、その程度だそうだ。俺はそういうのはさっぱりだけどな。


 ばあさんが亡くなったのは去年の七月のことだった。

 大きな病気をしていたわけじゃなく、ちょっと体調を崩してそのままずるずると……って感じだった。従妹から連絡がきて、調子が悪そうだから夏休みのうちに会いに帰ってきてくれって言われていたんだが、会いにいく間もなかった。

 ……あのときは、ばたばたしてみーちゃんにも迷惑かけたな。


 それで、このあいだ一周忌ってことで法事のために長野に戻ったんだが、そのとき従妹がばあさんの部屋に入ってこれを見つけてきたんだ。


 従妹はばあさんっ子でな。

 特になんにも考えずに、ただ一人でゆっくり偲びたいと考えて部屋に入ったらしい。

 部屋の整理は少しずつ進んでいたが、大方の家具はじいさんの希望でそのまま残してあった。洋服もまだ捨てられなくて、クローゼットの中身も手つかずだ。だから多分、これも一年間、誰にも見つからなかったんだと思う。


 どうも鏡台のあたりから嫌な感じがしたらしい。

 ばあさんの嫁入り道具の鏡台だ。大きな三面鏡がついているが、それはさすがに閉じて布がかけられていた。あんまりよくない鏡っていうのもあるそうだから、最初はそのせいだと思ったんだと。


 だがよくよく集中してみるとそうじゃなかった。

 鏡よりも下だ。

 向かって右側の抽斗から、なんとなく嫌な感じがする、と。


 自分程度の霊感でわかるんだから余程のものに違いないと考えたらしい。下手に触れるのもどうかと躊躇したが、そんなものがばあさんの大事な鏡台に収まっているのは許せない。


 それで――抽斗を開けてこれを見た瞬間、やばい、と思ったそうだ。


 そもそもばあさんはどこも患っていなかったんだ。元気だった。

 ただ、遠方に住んでいたばあさんの姉――俺らからすると大伯母が亡くなった直後から体調を崩して、あっという間に寝込んでしまったんだよな。文通も長年していたような仲のいい姉妹だったから、姉さんが亡くなったのがショックだったんだろうって、親父らは言っていたんだが……。


 従妹が言うには、この手鏡、形見分けとして大伯母の家から送られてきたものらしかった。


 その大伯母というのがまたちょっと問題なんだ。すこし、変な亡くなり方をしたとかでな。

 俺も本人を直接知っているわけじゃないから聞いた話になるが、大伯母が嫁入りした先の旦那がろくでもないやつで、愛人を囲っていたそうなんだ。そこの夫婦には子どもが五人いるが、うち二人は愛人の子らしい。

 それでも大伯母は表立って旦那を非難したりせず、ただにこにこ笑って家庭を守り続けた。

 おかげで五人の子どもらは、実子も養子も関係なく、仲良く大人になって……いまはそれぞれ独立して家庭がある。


 旦那は晩年まで愛人のもとに通い続けたそうだ。

 臨終の際になってなお、最後に旦那は愛人の名をつぶやいた。


 女関係がだらしない以外じゃ立派にやっていたもんで、葬儀はそれなりに大規模になったらしい。色々な手続きも済んでひと段落した頃、大伯母の異変に周りが気づいた。


 彼女の表情は笑顔のまま固まっていたんだ。

 何をしていても、どんな話をしていても、笑顔が崩れてくれなかった。


 その数年後に病気で息を引き取る間際まで、いや亡くなっても、だったか。

 死に顔まで笑顔だったそうだ。

 湯灌してくれた納棺師さんは穏やかなお顔ですって褒めてくれたが、事情を知る家族は笑えなかった。

 まるであのろくでもない旦那を見送るために長年作り続けた笑顔が、呪いのように貼りついてしまったみたいだったと、葬儀に出た親父は言っていた――。

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