b 気合いの入った呪詛のもの
八月に入った。
日本列島各地では殺人的な気温が続々と叩き出されて、やれ何日連続で猛暑日だの、どこそこが酷暑だの、ニュースやワイドショーで連日取り上げられている。
地球温暖化や電気代への配慮よりも人命を優先させるべき事態であると判断し、綾人は師匠のお化け屋敷に入り浸っては、程よい空調のなかぐぅたらしていた。
日々、目もあやな師匠の麗しい薄物姿を拝み、姉御の料理をご馳走になり、ついでに料理を教わり、下手な心霊番組や怪談よりもよっぽど恐ろしい百物語を聴かされ、暑いので頻度は下がったがやはり心霊スポットにも連行され、といった贅沢な夏休みだ。
あとはアルバイトと、千鳥と動画撮影をするばかり。
宿題のない夏休み、最高。
実家にはお盆あたりに二、三日帰る予定である。
この日は巽とソファの上で向き合って座り、携帯ゲーム機で通信対戦をしていた。
互いに中学生の頃はまっていたソフトを持ち出しているのだが、これがなかなか白熱するもので、ここ数日のブームとなっている。
そんななか、最初に異変を感じたのは師匠だった。
「……?」
息を呑み、読んでいた本を閉じる。
すらりと組んでいた脚をといて立ち上がると、庭に面している掃き出し窓に近寄ってカーテンを引いた。夕刻になれば鬱蒼と生い茂る木々がなんともいえない雰囲気を提供する、いつも通りの庭である。
「師匠?」
「……おまえたちはまだ感じないか」
先日、踏切で足を掴まれても飄々としていた人がこの反応だ。弟子ふたりも眉を顰めて、対戦していた画面をいったん止める。
窓の外に何かあるのかと、近寄ろうとしたときだった。
空が翳った。そう思った。
冷や汗が額に浮かぶ。
わけもわからず指先が震える。夏の日差しが差し込んでじゅうぶんに明るかった書斎が薄暗くなる。冷房のついていた書斎の気温が二度も三度も下がったように思えて、両手で腕をさすった。
寒いわけでは、ない。
何かに反応して体が勝手に怯えているのだと気づいたとき、パン、と師匠が両手で柏手を打った。
「はい、落ち着く」
綾人はその音で我に返ったが、巽はひどかった。
物心ついた頃から見鬼があった綾人は、怖いものはもちろん怖いが、怖いことが起きるのに慣れている。しかし巽はつい二年前に視えるようになったばかりで、そういう現象や恐怖に対する耐性はかなり低い。
糸が切れたようにソファにくずおれて、肩で大きく息をした巽に慌てて駆け寄る。蒼いを通り越して顔面真っ白になっていた。
「巽」
「吐きそ……なんすか師匠、これ」
「吐くならトイレ」
「ういっす……」
びしっと扉を指さす師匠に逆らわず、巽はよろよろと立ち上がり、見ているこっちが心配になる足取りで書斎を出て行った。
その間にも、何かは近づいてきている。
大気を捻じ曲げ、澱をつくり、瘴気を集めて蜷局を巻く何かが、この屋敷に向かって近づいてきている。
これは一体なんだろう。これまでに出会ったどんな彼岸のものとも違う、とにかく良くない気配がする。問答無用で悪意を撒き散らして害を加える類いのものだ。世界中の怨嗟を、ちいさな箱のなかにぎゅうぎゅうに突っ込んだらきっと、こんな感じになる。
怨嗟を、ちいさな箱のなかに――
「まさか――呪い……」
「勘がいいじゃないか。ずいぶんと気合いの入った呪詛のものだね、これは」
呪詛に「気合いの入った」とか形容するのはこの人だけだと思う。
けろっとしている師匠にすこし拍子抜けしたものの、まだ指先は震えたままだ。強く掌を擦りあわせる。真夏なのに、氷のように冷たくなっていた。
「うちを目指しているみたいだけど、一体誰かな、こんなものを持ってきたのは」
「えええ……」
言われて集中してみると、確かにそれが近づいてくるスピードは人が歩く速さとよく似ている。方角的には幸丸大学のキャンパスのほうから歩いてきたようだから、確かに、大学関係者が師匠を訪ねてきたという可能性もあるだろう。
また先日のようにオカルト関係の相談事だろうか。
こんなこの世のすべての怨み言を詰めこんだような塊を持ってこられても、こっちには物理的な撃退法しかないというのに。飛び蹴りとか、怒鳴るとか。思い返すとちょっと呆れるくらい情けない除霊法だが。
そんなことを考えているうちに、それは正門前に辿りついた。
呼び鈴を押す気配もなく、門を押し開けて敷地に入ってくる。
「…………」
「……入ってきた。ということは」
家とは、ただそこにあるだけで結界の役割を果たしているものだ。
正確には家というよりも、門や塀などの仕切りが心理的な結界となり、家人以外のものは招かれなければ入ることができない。心理的な結界は、此岸に生きる人びとの『信じる心』に弱い彼岸のものにもしっかりと作用する。
だからよほど悪いものは、こちらが無自覚に招いてしまわない限りは、大抵は家のなかに入ることができないようになっているのだ。
この屋敷に、師匠の結界に、拒まれないもの。
……まあ普段からお化け屋敷としてご近所に開放されている家なので、結界なんてあったものじゃないだろうけれども。
師匠とともに玄関ホールに向かってみると、ちょうどドアが開けられた。
「……やっぱりおまえかい」
「ただいま。しぃちゃん」
春の陽射しのような笑みとともに、こてりと首を傾げる、姉御。
その仕草はとっても可愛らしいし、綾人は姉御のことが大好きだが、今日はその隣にいるものがよくなかった。
小柄なひとだった。
派手じゃなくきちんとセットされた茶髪に、どこかあどけない目鼻立ちの男性だ。身長が姉御と同じくらいなので一見すると年下に見えるが、その立ち居振る舞いや落ち着いた雰囲気からはどこか老獪な印象も受ける。
彼はむすっとした顔で師匠に向かって口を開いた。
「相変わらずヤな感じのする家だな」
「……それが呪いを人の家に持ってきておいて言うことか、
ミナイ。この間、姉御の口から零れた名だ。
心底嫌そうな顔で薬袋という人を見下ろした師匠は、袖口に両腕を突っ込むいつものポーズになり、書斎を顎で指してみせる。
「おまえのせいでうちの弟子はグロッキーなんだよ。とっととその物騒なモンの話を聴かせてもらおうか」
この世の怨嗟のすべてをちいさな箱に突っ込んだような、遠く離れていても感じるほどの悪意と恨みの塊。
それは確かに、この薬袋という男が背負うリュックサックから放たれていた。
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