i 黒い影に向かって見事な跳び蹴り
「なんで電車がくるんだよ! さっき終電は行ったろ!?」
「ここはあいつの『場』なんだからあいつの好きにできるに決まってんだろ!!」
巽と絶叫しながら弾かれたように走りだす。気づけば師匠に体当たりをかましていた。
恐怖よりも先に体が動いたのは久々だった。
「痛いよ秋津くん」
「ししししし師匠なに考えてんですか! 早く逃げますよ電車きてますよ!!」
「いやぁ体が動かないというか、足を掴まれちゃっててね」
「あんた足掴まれたくらいで動けなくなるようなタマじゃないだろおおお!!」
見下ろせば確かに、師匠のブーツを掴むように、ちいさな白い手がいくつも折り重なっている。普段なら間違いなく悲鳴を上げて一目散に逃げているか動けなくなっているような光景だが、いまはそんな場合ではない。
怖いとか、どうしたらいいとか、そんなことを考えている余裕はなかった。とにかく師匠にしがみついて、眼下のちいさな手に向かって怒鳴りつけた。
「だめだからな! この人はやらないからな! 俺も巽も絶対絶対連れて行かせないからな!! 安田さんももちろんだめだ!!」
着物の衿を掴み上げてがくがく揺さぶりながら、踏切の警報にも負けない声量で叫ぶ綾人の横で、巽は黒い影に向かって見事な跳び蹴りを披露している。
すり抜けるどころかクリーンヒットだ。黒い影は霧散しながらも地面に転んだ。師匠の目にはきっと小さい男の子をいじめる金髪元ヤンという、どう考えてもアウトな画面として映っているに違いない。
が、そんなことは関係ない。
「もう死んでるやつがいつまでも未練たらしく他人巻き込もうとしてんじゃねえよ!!」
「そーだそーだ!」
巽のドスの効いた怒声に合わせて、黒い影がびくりと揺れる。
電車のライトが近づいてきている。空っぽの山吹色の車体の先頭車両には、細かく飛び散った血の跡があった。
あの子はこの電車に轢かれたのだ。母親と一緒に。
あんなちいさな子が可哀想に、と悼む社会的な罪悪感。
そのせいで自分ひとりこんな場所に縛られて、一緒に死んだはずのお母さんもいないのに、いつまでも、誰かを道連れにしようとしている。
ほんとうは、そのことこそが可哀想なんじゃないのか?
「大体夢で呼び出しとか回りくどいんだよ!! 話があるなら直接来いや!!」
「そーだそーだ!」
「不憫だったとは思うがな!! 男ならスッパリ成仏してもっぺん生まれ直していい人生送れッ!!」
肩で息をしながら巽が影を睨む。
同情も憐憫も、一片さえ滲ませない、強い拒絶を示す視線だった。
尻餅をついたままこちらを見上げていた黒い影は、ちいさく震えた。
うつむいて何か言いたげに肩を揺らしたが綾人には伝わらない。聞いてやることはできない。可哀想だとは思う、同じような事件が二度と起こらなければいいと思う、だがそれと、師匠や他の誰かを連れて行かれていいかという話は全く別だ。
果てがないのではとすら感じる沈黙の末、影はやがて音もなく、内部から瓦解していくように霧散した。
同時に、踏切一帯を覆っていた目に見えない壁も消えていく。
深夜の静寂が戻ってきて、さわさわと人の気配が感じられるようになった。下りていた遮断機は素知らぬ顔で夜空に向かって伸びているし、電車が近づいているなんてことも当然ない。黒い影と一緒に、師匠の足を掴んでいた白い手もいなくなったようだった。
「……もどっ、た?」
半信半疑で口にしてみると、ぽん、と背中を叩かれる。
たいして背丈の変わらない師匠が至近距離で呆れたような顔をしていた。
「秋津くんきみ、相変わらず挙動があれだよね」
「はぁ……」
「お化け屋敷に無理やり連れて来られた彼女みたいだよね」
「……ハアアアア!? そもそも師匠がうっかり足なんか掴まれるから悪いんでしょーが!!」
「やかましい。深夜だよ静かにしな」
びしっ、と額にチョップが振り下ろされる。意外と痛いその攻撃にぐぬぬと口をつぐむと、線路の上にしゃがみこんだ巽の頭のてっぺんが目に入った。
師匠も気づいて、指の背でこつん、とその金髪を叩く。
「どうした巽。見事な跳び蹴りだったよ」
「いや俺……ガキに手ぇ上げたの初めてで……今更ながら罪悪感が」
「安田たちには『殴り飛ばせ』とか言っていたくせに。全く、ほんとうに莫迦だねぇ、きみたちは……」
薄く微笑み、師匠の左の目尻が柔らかく緩んだ。
巽の金髪をもう一度指先で遊ばせて、両腕を着物の袖口に突っ込むと、気配を辿るように遠くを見やる。生温い風が吹いて師匠の黒髪を揺らし、前髪に隠れた右目も露わにした。
いつも意味深長に隠されている、なんの変哲もない、形のよい右目。
「きれいになったね。二人とも、初除霊おめでとう」
言われてみると、ここに来た当初には感じていた心霊スポット特有の、ぐるぐると澱の渦巻いていた空気は消えている。
姉御の浄化を受けたときほどの清々しさはないが、格段に澱みは昇華されたようだった。
「じょ……除霊っていうか……すごい物理技だったんですけど俺ら」
「ガキに向かって飛び蹴りしたうえマジでキレるとか……」
「俺なんてぎゃーぎゃー喚いただけだったような」
「まーそんなもんだよ」
一連の危機が去ったことを改めて師匠に言葉にしてもらって、はじめて肩の力が抜けた気がした。
なにやらどっと疲れを感じる。いまだにへこんでいる巽の横にしゃがみこんで、「そんなとこ座ってないでとっとと帰るよ」ときびすを返してしまった師匠の、こちらを振り返る横顔を見つめた。
師匠がいちばん、死に近い。
その事実を脳裡に叩き込むように。
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