e 小さな男の子の声が聞こえた気がした
がさがさと草木を掻き分けながら獣道を辿っていくと、ようやくくだんの廃屋が姿を現した。
長年の風雨や木々に浸食されて、いまにも崩れそうな小屋だった。
屋根も壁も抜け落ちているところがあって、不気味といえば不気味だが、少なくとも子どもの霊がいるようには見えない。
山登りの最中さすがに暗くなってきていたので、立ち止まった師匠が袂から懐中電灯を取り出す。ちなみにこの人は先日の某ホテルのあと、また百均でボロいのを買ってきた。
「特に何があるってわけじゃなさそうですけど……」
山全体、彼岸の時間へと移行しつつあることでぐるぐると暗い気配が渦巻いてはいるが、特別この廃屋に瘴気が溜まっているとか、よくないものが憑いているとかいう様子はない。
巽を見やれば小さくうなずいている。
師匠も、解っていたかのように微笑んだ。
「……ま、こんなもんか」
どうしてだかほんの少し、寂しそうな表情に見える。
師匠、と声をかけようとしたものの、彼の寂寞に触れるような言葉を持ち合わせていないことに気づく。
「じゃあ、肝試しの連中が子どもの声を聞いたっていうのも嘘ですかね」
「十中八九そうだろうね。肝試しをやるような類いの人種は特に、話を誇張して自分を大きく見せたがるものだよ」
「……すごくブーメランな気がしますが突っ込んでもいいっすか?」
「ぼくらは誇張しているわけじゃないから痛くも痒くもないね。……あるいは、極度の恐怖は五感を歪ませる。本当に聞いた人もなかにはいるかもしれないけれど、『子どもの声が聞こえる』という先入観が刷り込まれた結果の幻聴だろう――」
バササ、と背後で音がした。
綾人ひとりが大仰な悲鳴を上げてそちらを振り返るが、ただ鳥が木から羽ばたいただけだった。なんだ鳥かびっくりさせるなよ――と胸を撫で下ろしたところでふと、静寂に気づく。
「なんか……静かですね?」
巽と師匠も黙りこんだ。
出発したときは、蝉の声が庭に響いていた。夕飯をファミレスで済ませたときも、姉御と別れたときも、どこかからじーじーと鳴き声が響いていたはずだ。
車から降りたときは、どうだったっけ。
草木を掻き分ける音が大きすぎて判らなかっただけか。
もちろん夜になればさすがに鳴き声も止もうが、完全に日が沈んでいるならまだしも、まだ西日が差しているのが木々の隙間から見えている。
静かだ。
蝉の鳴き声も、少し下ったところを通っている県道を走る車の音も、近くの飛行場から発つ飛行機も、普段気にも留めない雑多な音が一切ない。まるで雪の中にいるみたいだ。
――静かすぎる。
「……ししょ……」
急に不安になって師匠の着物の袂を掴んだ瞬間、ぱき、と廃屋のなかで音がした。
ぱき、みし。
ぱきん。
腐敗した木材や足元に散らばる破片を踏みながら、音がこちらに近づいてくる。なにか、いる。息を止めて必死に師匠の袂を引っ張って、いつでも逃げだせるように足に力をこめた。
「師匠、なんか音、音がしません?」
「……動物でもいるんだろ。帰るよ」
おかしい。
いつもの師匠なら「そうだねぇ。じゃあ何がいるのか確かめておいで」とか言って弟子二人まとめて建物のなかに閉じ込めて外から高笑いするはずなのに、「帰るよ」という言葉が飛び出した。
異変を察知した綾人と巽を左目で見やり、師匠は踵を返す。
「わざわざ山登りまでしてこんなところまで来たのに、何もないなんて期待外れだったねェ。とっとと山を下りよう、三人で」
やっぱり、おかしい。
あの廃屋の足音が本当に動物のものなら、わざとらしくそんなことを言わなくても山を下りればすむことだ。
「三人で下りよう」なんて、もともと三人しかいないのに。
縋るように巽を見るが、こっちも何が起きているのか解らないらしく、いつものふてぶてしい顔つきのまま真っ蒼になっていた。わけがわからないが、師匠がこれほど帰路を急ぐということは、それだけのなにかがあるということなのだ。
とにかく歩きだした師匠について、何もないはずの廃屋から距離をとった。
足元の草を踏む音に混じって師匠の苦い呟きが聴こえる。
「……藤のいる店まで十分か……」
――ついてくる、ということか?
こちらが向こうに気づいていないと認識させて、殊更「三人」を強調したのは、彼岸の存在を意識的に排除するためだ。
そうまでしてついて来てほしくない存在が、あそこにいたということ。
綾人と巽には気配も感じないが、師匠にはそれが視えているということだ。
これは、まずいのではないか。師匠が撤退に徹するなんて初めてのことだ。せめて何かの拍子に悲鳴を上げないよう両手で口を押さえていると、隣に並んでいた巽が蒼い顔で「師匠」と吐息を洩らす。
「……師匠。なんか俺、服……」
「気のせいじゃないかな」
このうえなく白々しい!
最後まで言わせてもらえなかった巽はもうそろそろ泣きそうだ。
服が、なんだ。掴まれているのか。訊きたかったが我慢した。師匠は気のせいだと断じた、その存在を綾人たちは認識してはいけないのだ。
「なんだか暗いねェ。ちゃんと足元を見てついてくるんだよ、巽、秋津くん」
――“振り返るな”。
――“ぼくらは三人で山を登り、三人で下りる”。
「藤のこともずいぶん待たせてしまったねぇ。四人で帰ったらコーヒーでも淹れようか」
――“四人めも待っている”。
――“おまえの席はない”。
師匠がそうやって言い聞かせているのが解った。先導する師匠の背中に手を伸ばして、はぐれないように袂の部分を握りしめる。もう片方の手で先程から顔面蒼白で震えている巽の腕を掴み、唇を噛みしめた。
「師匠……、子ども、が」
「いない」
図体のわりに心細げな声を上げた巽が項垂れる。もはや綾人に腕を引かれてどうにか歩いているような巽の、背中のほうには目をやれなかった。
「いないよ。巽。そんなものはいない」
何も感じない。
山全体はよくある雰囲気で、あの廃屋も空っぽだったのに、師匠が危ぶむほどのものがいて、それは綾人たちの後ろについてきていて、いまも巽の服を掴んでいる。
それなりの現象が起きる心霊スポットなんてものは大抵、手のつけようもないほどおどろおどろしかったり、禍々しかったり、恐ろしかったり、そうでなくても何かしらの異変は感じたりするものだ。
ここはそれが一切ない。師匠だって最初はなにもないと判断していた。
それなのに、師匠の否定が、存在の排除が、どんどん強くなっていく。
「ここには何もない。あるはずがない。噂を流したあの人はもういない。噂の残滓など、あっていいはずがない――」
怖いなら怖いでいい。怖いものがそこにいるのだと判るから。
怖くないし何も感じないのに、よく解らないものがそこにいるというのが、彼岸と関わりの深い見鬼にはたちが悪い。
「気のせいだ。あの廃屋には何もなかった。子どももいなかった。この山には何もなかった。何もいなかった……」
呪文のようにぶつぶつ呟く師匠を離さないように、袂を握る手に力を入れて必死で追いかける。
何者かに服を掴まれている巽のことも離さないように、掴んだ腕に爪を立てる。
「かえして」
小さな男の子の声が聞こえた気がした。
全力で聞こえないふりをして、綾人たちは山を下りた。
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