f 車の天井を叩く音がする

 淡々と否定と排除を繰り返す師匠の後ろを必死に追いかけて、三人どうにか下山した頃には日が暮れていた。

 ふらふらの巽を引っ張って後部座席に乗り込む。師匠は運転席に収まるや否やエンジンをかけた。助手席には白い大きなあざらしのぬいぐるみが、シートベルトまでばっちり締めて鎮座している――このあざらしについても色々とあるのだが、この話もまたいずれ。


 バン、と車の天井を叩く音がする。

 凶悪な舌打ちを零した師匠はオーディオの音量を一気に上げた。

 場違いにご機嫌な洋楽が流れるが、車内の沈黙は重苦しいままだ。蛇行する小道をそれなりのスピードで駆け抜けるマークXの天井で、ついてきてしまったらしい何者かが、飛んだり跳ねたり好き放題暴れている。

 バン。天井がへこみやしないかと見上げると、次はフロントガラス。バン、バン。大丈夫か割れないかと心配していると、ウィンドウを揺らすほどの大音声が叩きつけられる。かえして。

 かえしてかえしてかえして。声は天井にまた移動した。――かえして!!


「ししししし師匠、上でなんか言って――」

「邪魔なんだよこのクソ猿ッ!!」


 耐えかねて呼んだ綾人のか細い声をかき消すように、師匠の怒号が車内に響き渡る。

 ……猿!?


「前が見えねぇだろうが!! 退け!!」


 師匠怖い。

 こうして怒鳴り散らす師匠を見るのは二度目なのだが、初回と同じく、怪現象より師匠のほうが怖いせいで一周回って冷静になってしまった。

 相変わらず綾人には視えないものの、どうも猿が車に覆いかぶさっていて師匠の運転の邪魔をしているらしい。だが運転免許を持っているのは師匠だけ、弟子二人が代わるわけにもいかない。


「師匠とりあえずそこ右折で県道に下りて! 車来てないから曲がってください、このまま突っ走りましょう」

「ああああこの猿むかつくあとで一発殴る!! 車に乗る前にブン殴っておけばよかった!!」


 し、師匠、怖い。

 すっかり剣呑な目つきの師匠は「藤に電話かけて」と懐から取り出したスマホを放り投げてくる。顔色のよくない兄弟子がロックを解除しようとしたところで、先んじて姉御から電話がかかってきた。

 手つきの危ない巽からスマホを奪い取る。


「姉御おおおおお」

『ねえ、もしかしていま坂道下ってない?』

「下ってます、なんかヤバそうです、師匠がブチ切れてます」

『ああ、やっぱり。なんだか凄いのが山から下りてくるなぁって思って……。支払い済ませて駐車場に出たから、そのまま戻ってきて。事故しないようにね』

「ハイ!! 師匠そこ右! 歩行者も対向もいません!」


 山を抜けて街中に戻ってきたところで、姉御と別れた喫茶店に滑りこんだ。

 ヘッドライトに照らされた先に待っていた彼女の姿に思わず安堵の息が洩れる。姉御は車の上のほうに視線をやったまま、いつも通りの落ち着いた様子で車内に向かって手招きをした。

 はぁ、と大きな溜め息をついた師匠が一度ハンドルに項垂れてから、「行くよ」と車を降りていく。


「おかえりなさい、しぃちゃん」

「……御免。持ってきたね」

「ううん。ついて来といてよかったねぇ」


 姉御の顔を見て落ち着いたのは師匠も同じらしい。

 やや疲れたような表情になっているが、口調はもとに戻っていた。綾人と巽が駆け寄ると、「ご苦労」と世にも珍しい労わりの言葉がかけられる。


「師匠、姉御、俺たち何がなんだか。一切視えていないんですけど」

「そう……巽は服を掴まれたくらいかい?」

「いや、下山を始めてからずっと子どもを負ぶっていた感じが……。ずっと『かえして』って言ってくるんで、頭が変になりそうで」


 うわ、と思ったのが顔に出たらしい。巽も変な顔になって深呼吸をすると、下山の間ずっと綾人が掴んでいた腕を差し出してくる。

 人差し指から小指まで、可哀想なくらい爪の痕が残っていた。

 子どもの爪痕にしては……と首を傾げると「お前だよ」と脛を蹴られる。痛い。


「秋津がビビッて爪を立ててくれやがったおかげでどうにか。車に乗った瞬間に消えました」

「だろうねぇ。そのあとは車の上で好き勝手遊んでフロントガラスに乗っかってたから」


 腕組みをした師匠が「あー疲れた」とぼやきつつ、姉御の頭のてっぺんに顎を載せた。


「あいつが音を立てなきゃ気づかなかったよ。最初は本当に何もないと思ったんだ」

「相性でしょうね。妖怪系は、こちらから向こうは干渉しづらいけれど、向こうからこちらはわりと好きに入ってこられるみたいだから。……あんまり詳しくないけど猿神の類いかしら?」

「だろうね。あそこまではっきりしてるのは初めてだ」


 サルガミ――


 師匠の曰くによると、世界には層があるという。

 綾人ら人間が住む層のほか、彼岸のもの――つまり幽霊や妖怪やなんやかんやよりあと神霊に至るまで、全てのものの棲家が幾重にも折り重なって世界ができている。

 これまで綾人は妖怪らしきものを視たことはなかったが、先程まで師匠の運転を脅かしていたのはその類いだという。


「多分、お師匠さんの血縁だからよく視えるのよ。お師匠さんの流した噂があの子に力を与えることになったせいで、しぃちゃんにも影響が強い」

「血縁、ね。忌々しいことだ」

「もともと山でひっそりと暮らしていたあの子が、お師匠さんの噂によって信仰に似た力を得ることになった。次々と人間が肝試しに訪れるせいで、自分は彼らに向かって『かえして』と言うべき存在なのだと、誤解してしまったのでしょうね」


 師匠から聞いたことがある。

 人間、動物、その他植物昆虫類、そしてヒトではないもの。まずは存在ありきで、名前があと。

 人間に人間と名前をつけたのは人間だ。動物、植物、昆虫と分類したのも。

 そして、もともと互いにそこに在るだけだったものに名前をつけて、存在を定義して、善悪の性質を振り分けて勝手に信奉したり畏れたりしたのもまた人間。

 そんな人間の信じる力は強すぎて、時たまヒトではないものの層にまで影響を及ぼすことがある――


「うん。だから否定しながら下りたっつーのに、ついてきて運転の邪魔しやがって……」


 師匠が怒っているのはあくまで運転の邪魔をされたことなのか。


「巽くんの金髪が気に入ったみたいねぇ。キラキラしてるからかな。さっきからずぅっと見てるよ」

「帰ったら黒染めする……」

「そこかよ」


 巽の発言に脱力しつつ改めてマークXの天井を見ても、やはり何もいないのだが。

 年上二人には、巽の金髪を見つめる猿神の姿が、はっきりと映っているのだろうか。

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