b 鹿嶋市郊外の空き家の話
「鹿嶋市郊外の空き家の話、聞いたことあるかい」
はじめて玉緒と出会ったこの日、帰宅した師匠はこんな話をしてくれた。
大学一年、七月中旬。まだニシノの足元に毛玉がころころしていた時期、お化け屋敷の庭中にけたたましい蝉の鳴き声が響き渡る、黄昏時のことだ。
「いえ、全然……。巽は?」
大学進学を機に隣県からやってきたばかりのため、この辺りの地理にはまだ疎い。綾人は首を振りつつ隣に目を向ける。
隣県どころか地方も海も越えてきた四国出身・兄弟子の巽も、本を読みながら無言で首を振った。その手にあるのは樋口一葉の『たけくらべ』。
「……巽お前、それ六月からずっと読んでないか。まだ読み終わらないのか」
「日本語が難しい……三行読んだらすぐ眠くなるんだよ」
「読書に向いてなさすぎだろ」
思わず正直にそんなことを洩らすとパンチが飛んできた。
すると正面のソファに悠々と腰掛ける師匠が遠い目になる。
「……巽の文章能力がカスすぎて、フルカが読書するように勧めたんだよ」
「師匠カスはひどいっす」
「本当のことだろうが偏差値39野郎」
「お前よくうちの大学合格できたな!? 超頑張ったんだな!!」
綾人たちの通う幸丸大学は、もともとの偏差値はそう高くなかったのだが、二年ほど前に広報活動で成功して人気が出てきたため、出願者数がうなぎ上りになり倍率も跳ね上がっていた。どの時点で巽の偏差値が39だったのかは定かではないが短期間に20引き上げたことになる。
それにしても読書好きでもないのに『たけくらべ』は難易度が高かろうと思ったが、師匠の口にした「フルカ」の名を聴いて納得してしまった。
姉御は文学部の文学科、近現代文学の専攻である。
「巽のバカさ加減はともかく――」師匠は膝の上に置いていた伝統芸能の雑誌を捲り、こちらを見もせずに続けた。
「矢上市との境にあたる山中に、県道から分け入ってしばらくのところにある、打ち棄てられて長い小さな家だそうだ。なんでもこの辺りの心霊スポットとしてネットでは有名で、暇を持て余した地元のやんちゃ坊主や大学生が度々、肝試しに訪れるんだとか」
雑誌の表紙には「薪能」「羽衣」と明朝体で打たれていて、能面を被った役者がポーズをつけている。能の教養は全くないが、反り返った紙面に歪んで浮かぶ能面は、どこか嘲笑を浮かべているように見えて不気味だ。
師匠は不思議な人だった。
中性的で謎めいた顔立ちをしていて、絹のような黒髪は、いつも顔の右半分を覆い隠していた。着流し姿で日常を過ごし、近所からは「お化け屋敷」と呼ばれる古い洋館に住んでいる。
だが年齢的には綾人らとそう変わらず、同じ大学に通う三回生であるということは判明していた。ちなみに理工学部、大学に行くときばかりは和装を解いて洋服を着ており、実験の際はそれに白衣をひっかけている。一度見かけた白衣姿はむかつくくらい似合っていた。
ともかく師匠は、中途半端にヒトではないものを視る綾人が、大学時代のいっとき師事した人である。
綾人は基本的に怖いのが苦手なビビリのチキンだ。だというのに、なにをどう間違ったのか大学一年の五月、積極的に心霊スポット巡礼ツアーを行う師匠に弟子入りしてしまったのだ。
それからはうだうだ文句を言いつつ、この人の不思議な魅力とお化け屋敷の居心地のよさに絆され、ついつい入り浸ってしまっている状態にある。
「心霊スポットってことは、何かあるんですよね?」
「さあ。調べてみても正確な情報はいまいち出てこないんだよね」
歯切れの悪い返事に、珍しいな、と首を傾げた。
この人がこういう話を振ってくるときは大体下調べが済んでいて、これこれこういう謂れがあってこういう心霊現象があってこんな証言が――と怒涛の勢いで情報が出てくる。そして「そういうわけで行くぞ」と促され、ひーひー言いながらついていくのがいつもの流れであった。
「村八分にされていたとか一家無理心中したとか惨殺事件があったとか、根拠のない噂ばかりでねぇ。そういう記録も新聞記事も特に出てこない――とりあえず、その空き家を訪れると子どもの声が聞こえるという証言だけが一致している」
「子どもの声……」
つらつらと並べられた物騒なワードに口の端を引き攣らせると、師匠の左目がちらり、綾人の背後へ向けられた。
色素の薄い眼球がゆっくりと、右から左へ移動する。
まるで何かが綾人の背後を通り過ぎていったかのように――
蝉の鳴き声が、つ……と消える。
「かえして」
鈴の転がるような声が放つその言葉に背筋が粟立った。
師匠の薄い唇が動くのを見ていたはずなのに、彼の視線が辿った背後から聴こえてきたような気がする……。
「……ってね」
ぱっと勢いよく振り返って部屋の中を見回すものの、特におかしなものはいない。
綾人たちがいつも集まるこの一室は師匠が書斎として使っている部屋で、窓際の読書スペースであるこの一帯以外は、天井まで聳える書架が壁に沿って並んでいる。
本棚のラインナップは日本の古典文学から近現代の名作を網羅したうえ、さらに海外文学、及び心理学や超自然学、その他綾人にはちんぷんかんぷんの理系の専門書や研究書など。
いつも通りの立派な書斎だ。
二人掛けのソファの隣には『たけくらべ』が進まない巽。ローテーブルを挟んだ向かい側には雑誌を捲る師匠。
子どもの霊なんていない。
声もしない。
師匠の視線が流れていった窓の外を見るも、そこにはほどよく放置された庭があるだけだ。消えたように思えていた蝉の鳴き声もいつの間にか元通り、幾重にもなり空気を揺らしている。
「とまァそういう噂を数年前、ぼくの師匠が近所の子どもたちに吹き込んだそうだ」
思わず「は?」と声が漏れた。
『師匠の師匠』の話はたまに聞くことがある。この風変わりな人の実姉だったそうで、話の内容から想像する限りでは彼以上の変人であったらしい。詳細は知らないし会ったこともないが、師匠はいつも姉君の話をするとき、過去形で語った。
「本人としては、長い時間をかけての実験のつもりだったそうだよ。なんの謂れもないただの空き家に『子どもの声が聞こえた』という噂を流したらどうなるか。事実無根として普通に廃れるか、それとも……。結果は先程、話した通り」
綾人は眉間に皺を寄せて渋い顔になる。
なんか、嫌な予感してきた。
「そこにあるのはただ家主が数年前に亡くなったという山の中の民家だ。独居老人だったそうで発見に時間がかかった以外は特に不審な点はないし、もちろん村八分も一家心中も惨殺事件もなかったらしいよ。天涯孤独だったのか、それともあの家を相続した親族がいたのかも謎だ。師匠自身、あの空き家がどういう理由で打ち棄てられたのかも知らない。だというのに数年経ったいま、不思議なことに肝試しから帰ってきた人々は『子どもの声を聞いた』と証言し、全く根拠のない噂がいくつも飛び交っているというわけだ」
ふと師匠が綾人を見つめる。
かたちのいい眦に生え揃った睫毛が、その白い頬に暗い翳を落とした。
気づけば陽が暮れて、書斎のところどころに深い闇が降り始めている。僅かな光が陰に飲み込まれて、正面にいるはずの師匠の表情も判然としない。
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