僕には好きなひとがいる
早朝の空気は、凛と澄んで心地よい。深く吸いこんで大きく吐けば、体の中まで研ぎ澄まされていくような、そんな錯覚をおぼえる。
早起きするのはそんなに苦じゃない。特別に寝起きがいい方だとは思わないけれど、目覚めてさえしまえば、朝という時間は心地よく、パリッと僕の精神を立たせてくれる。
そう言えば、サイトウには信じられないものを見る目で見られてしまった。あれはなんの話題だっただろう。
夜更かしがどうしてもやめられない、という誰かの相談だっただろうか。現代の学生にあるまじき精神性だとかなんとか、口を揃えて言われてしまったのは記憶に新しい。いいだろ、別に。
だから、テスト前にノートを借りるとか、財布に札しか入ってない時にジュースを奢ってもらうとか、そうやって必要な時に返ってくるのであれば、部室の朝掃除を代わってやるくらいのことは、僕にとってはそんなに苦ではない。
カタカタと、スクールバッグの中で揺れるペンの音を聞きながら。足取りも音に合わせて軽やかに。
(さらさらと輝きながらすべる黒髪)
校門から続くのはなだらかな坂だ。どうして学校というものは坂の上にあるのだろう。霞がかった記憶の中の幼稚園も、家からすぐ近所だった小学校の校舎も、何故か緩やかな坂の上に位置していた。
不審者が気軽に学校に入って来れないようにしているのだろうか? 一桁の年の子が毎日通うような坂で、不審者が躊躇すると? そんな馬鹿な。
細い雑草の葉が、石畳の隙間から顔を覗かせている。ちろちろと朝の風がまだやわらかな彼らをくすぐって去っていく。もう少し経てば、緑は勢いを増して空を目指していくのだろう。
去年の春には、桜の花びらが一面道いっぱいを覆い隠していた。校門から校舎へ人々を導くように、幸いに雨にも見舞われなかった桜たちは、まさに満開といった風情で咲き誇っていたのだ。
風に揺れる、桜のはなびら。
薄桃色の幻視を記憶の中にみる。瞬けば、それは現実の景色へ、青空に伸びる黒い枝々の影へと姿を変える。
(まるで月光だけを浴びて育ったような、透き通る真っ白な指が窓に触れる)
白状すると、僕はあまり桜が好きではない。美しい花だとは思う。通りすがりに見かければ、綺麗だな、と思うくらいはする。
けれど、それだけだ。そんなものは日本人には当然の反応で、それを越えてどうこう思うほど、桜に思い入れはなかった。
花見の話題で賑わう教室でそうこぼせば、アイダは、男子高校生にとっての桜なんてそんなもんだろう、と呆れていたけれど。
みんなが好きなものを好きになれないのは、なんだか居心地が悪かった。なんだか損をしているような。端的に言ってしまえば格好が悪い。
外れ者を演じているような、カッコつけているような、斜に構えているようなダサさ。まるっきり子どもだ。
みんなが好きなモノを、嫌いなオレはカッコイイ? もう厨二病なんて年齢でもあるまいし、と、冷笑する声が聞こえる気がするのも、きっと自意識過剰なのだけれど。
僕は大人でいたいのだ。
認められているのが、嫌なのだろうか。
万人から好かれている桜。まるで日本を代表するかのような顔をして。
坂道に散って、滲んで、ドロドロになった姿は、ちっとも美しくない癖に。
(醜いことを何一つ知らないような顔で)
(濁ったものを一度もふくんだことのないような顔で)
(どうしたの、と、尋ねる澄んだ声だけが、何度も何度もリフレインする)
スクールバッグの肩紐を、肩にずり上げた。すっかり慣れた鞄の重みは、それでも気を抜けばずっしりと体に圧し掛かってくる。勉学には、あまりにも付属物が多すぎる。資料集、問題集A、ワークB、参考書、単語集、例文集。
毎日担いでいるはずの鞄が、なんだかやけに重かった。つられて踵まで重くなる。
握った肩紐のほつれた糸くずが、手のひらにはりついていた。肌に何かが貼り付く感覚はあまり好きじゃない。
糸くずを爪でつまみあげる。ふ、と息で吹けばたちまち姿は見えなくなった。
この鞄もそろそろ限界かもしれない。新しいスクールバッグを買わなくては。授業と部活動の合間をぬって、いつだったら買いに行けるだろうか?
(また会えるかな、と尋ねそうになる口を、何度慌てて閉じただろう。けれど、僕は大人でいたかった。カッコ悪い姿なんて死んでも見せたくはなかった)
(濁っているものは嫌いだった。なのに腹の中でぐるぐる渦巻く感情は、どう頑張っても澄んでなんかいなくて、朝の空気をいくら吸ったって、美しくするのは不可能だった)
(ふ、と息を吐いて、消し飛ばせてしまえるならばよかった)
(幕が下りて、数舜して、スタンディングオベーションが起こるような。誰からも花丸満点がもらえるような、そんなうつくしくて幸福な、祝福されるような感情ならばよかった)
僕には好きなひとがいる。
何故だか急に苦しくて、たまらず僕は駆け出した。緩い坂道はあと半分ほど残している。
全力疾走なんてすれば、到着する頃には息が切れてしまっているだろうと、分かっているのに足は止まらなかった。
朝の空気は澄んでいて、僕の肌をさらさら撫でる。
弾むバッグの中で、音をたてて荷物が揺れる。
鋭く吸って吐く息が、キリキリと喉を締め上げる。
納得して生きてきた。理解できないことだって、たくさんあったけれど、自分が子どもだってことも分かっていて、その中で僕なりに折り合いをつけて生きてきたんだ。
自分のことを綺麗だなんて思ったことはなかった、でも醜いとも思っていなかった。
正解があることを疑いもせずに、いつでも正解を探して、それなりに正解らしきものを見つけてきたんだ。
たかが十数年だって、それでも十数年だった。僕らが生まれてきた全てだった。
僕には好きなひとがいる。
とうとう息が切れて立ち止った。膝に手をついて唾を飲み込む。スクールバッグが肩から落ちて、重たげな音をたてて転がった。
早朝の校舎はしんと静まり返って、ぜいぜいと鳴る息の音だけが、やたらと響きわたるようだった。手の甲で顔を拭って体を起こす。
たまらなくなって駆け出したって、たった数百メートルで息が切れてしまう。なんだかおかしくなって、小さく笑いが漏れたところで、どうせ誰も聞いてはいないのだ。
カラカラ、と軽い音がした。
ふと目を上げた先で、誰かが窓を開く。ほっそりとした白い腕が、ゆっくり引き戸を押してサッシの上を滑らせてゆく。
カラン、と小さな窓が開き終わると、腕はすうっと暗闇へ溶けた。腕の先に繋がっているはずの誰かなど、思わせもしない仕草だった。
あの場所は一体どこだっただろうか。脳内に広げた校内地図をたぐって、数秒後、図書準備室だと気が付く。
こんな時間に、一体誰が何の用事であんな場所に?
けれど、窓の中はもうすっかり凪いでしまい、校舎は先程までの静寂を取り戻して静まり返っているのだ。
なんだか疲れてしまって、意識して溜息を吐く。靄のような怠さが手足の先をふわふわと漂っている。それを吹き飛ばしたくて、わざと乱暴な仕草で、スクールバッグを担ぎ直した。
朝っぱらからこの調子で、今日いちにち大丈夫なのだろうか。いやまあ、別に今日を元気に過ごさなければいけない特別な理由など、どこにもないのだけれど。
いつも通り。
今から部室棟の掃除を終えれば、部員連中が眠い目をこすりながら次々とやってきて、途端に空気は騒がしいものに変わるのだろう。くだらない会話、部活の基礎練、それが終われば授業がだらだらと続いて、夕暮れはすぐだ。
そうやって、美しいものも醜いものも飲み込んで、日々は続いていくのだろう。
部活棟へと歩き出す。刹那、ちらりと小窓を見上げる。明日の朝のことを思う。
もしも明日も出会えたなら、声をかけてみるのもいいかもしれない。白く美しい腕の先、一体どんな表情があるのだろう。未発達な腕の輪郭は教師ではなく生徒のものに見えたけれど、こんな時間にあんな場所で、一体なにをしていたのだろう?
今日のこと、どうしてあんなに走っていたのか、なんて聞かれたら、どう答えたらいいだろうか。
少しだけ愉快な気持ちになって、今度こそ僕は足を踏み出す。
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