第11話

それからたっぷり、グロウはネイラがパンの下準備するのを見つめてから空に月が昇り始めたのを皮切りに「じゃあ何かあったら地下の部屋を訪ねて来てね。場所は変わっていないから」と言うと席を立った。ネイラは一言「わかったわ」と返事をすると、椅子に腰を掛けて一つ息を吐いたのだ。


「あれ…?」

そこでふと思い出す。自分はグロウに地下など案内してもらってなどいない。なのに返事をした時はさも『部屋の場所などとうに知っている』かのように思えたのだ。ネイラはもう一度、城のキッチンを見回す。確かに見覚えなどない。あるわけがない。何百年も吸血鬼が住んでいる城に、ネイラが来たことなど。


けれど、さっきはごく自然に返事をしてしまった。「その部屋はどこ?」という疑問さえ瞬時に湧かなかった。が、きっと思わず突いて出た返事なのだろうと思い直し、ネイラはゆっくりとキッチンから出て、再び玄関ホールへと出てくる。大きな螺旋階段の踊り場にあるステンドグラスと、この城に初めて来た時のように目が合う。あの時はステンドグラス越しに見えた黒い月が怪しく笑っているように見えてただただ怖かったというのに、今日の月は昨日とは打って変わった女神のような真っ白な月だ。


あの黒い月が一体どのような仕組みで黒く見えているのかネイラには見当すらつかないけれど、グロウがもう生贄はいらないと言うのなら黒い月も現れないのだろうか。なんて事をぼんやりと考える。もしそうならあの月に怯える娘達やその親が減るのならいいか。と、無理矢理考える事にして、今頃きっと泣いているであろう妹の顔は頭の中から搔き消した。

もしかしたらいつらかシェーラに手紙を送る事くらいは許されるかもしれない。今となってはすっかり小さくなった希望だけを胸に、ネイラは自身に充てがわれた部屋へと向かったのである。



その日は入浴する気にはとてもなれなくて、水差しに残っていた水で顔だけ洗うとネイラは早々に着替えてふかふかのベッドへと潜り込んだ。柔らかい絹のネグリジェはやはりグロウがネイラの為に用意したものなのだろう。所々にあしらわれたフリルや寝るのに邪魔にならない程度のリボンはやや少女趣味といえるが、総レースのベビードールを渡されるよりはずっと良い。


柔らかい素材のネグリジェを着て、一応といった感じでネイラはベッドに腰掛けた。ふと窓の方を見ると、飾り窓の向こうでやはり真っ白な月が笑っている。それがどこか薄ら寒くて、ネイラは僅かに身震いした。

何に対して寒気を覚えたのかわからないけれど、首筋を掠っていった鳥肌は本物で。それを誤魔化すようにふかふかのベッドに潜りこんだ。眠気なんて到底来そうもない。それは部屋に戻ってきた時から既にわかっていたことだったけれど、早く眠りについて一日に区切りを付けたかったのかもしれない。とにかく意識を落としたかったのかもしれない。

自分が人質であることには変わりない。吸血鬼に捕えられた事も揺らがない。その事実から、きっと逃げたかった。


けれどそれは許さない、とでもいうように眠気は襲ってこなかった。数時間前、飾り窓越しに見た月はもう無く、代わりに太陽の光が木々越しに薄く見え始めている。


「眠れなかった…」


小さく呟いて、身体をゆっくりと起こす。身体も頭も酷く重いのに、何故か眠りに着こうという気を起こしてくれない。ネイラは大きく溜息を吐くと、諦めたようにベッドから出た。折角のふかふかなベッドなのに。と自分に嘘を吐いて、重い足取りでドレッサーの前に来ると無言で身支度を整えた。


この城が森の真ん中にあるからか、朝日が妙に柔らかい。村に居た頃は朝が苦手な妹のシェーラを起こして朝食の支度をする。自分の仕事に行く準備をしながらも、洗濯や掃除も出来る範囲で行っていく…そんな慌ただしい毎日を送っていたネイラにとって、何もしない日など風邪を引いた時くらいなものだったのに。いつかこの静寂に慣れる日が来てしまうのだろうと、柔らかく暖かい日差しに反して重く淀んだため息を吐きながら、ネイラは部屋を出て、階下の食堂へと降りた。昨日下準備をしておいたパンを焼くためである。


「あはは。お腹、空いたのかしら」


ため息を吐いても吸ってもお腹は減るもので、その辺りの図太さは自分でも苦笑してしまう。グロウに対する畏怖の念や全く理解出来そうに無い思考回路、見た目のせいで突き放すことが出来そうにない彼の使い魔達のことを一瞬考えたが、空腹の念でそれを打ち消した。考えても、今は毒にも薬にもならないだろう。



「キー……」


食堂へ降りると予想に反して二人の使い魔達が所在なさげに立ち尽くしているのが見えた。ネイラの気配にいち早く気が付いて、こちらに振り向いたかと思うと困ったような声で鳴いている。


「えっと、ティグルとユーフラ……よね?おはよう」


ネイラの挨拶に、二人は丁寧にお辞儀をして答えた。小さな頭がちょこんと下がるのは彼らの正体がコウモリだと知っていても可愛らしい。


「どうかしたの? ごはん……はいらないって言っていたものね」


二人はウンウンと頷く。頷いてから、やや無遠慮にネイラの腕を片腕ずつ取ると引っ張り始めた。


「え、え、なに? 」


 こちらの質問に答えようにも、彼らは言葉を離す為の教育を受けていないからかより強引にネイラの腕を引いていく。途中キーキーと鳴きながらネイラに何か話しかけているような視線をくれるが、コウモリの鳴き声を理解する事は出来そうになかった。ただネイラの言葉は理解出来てるはず

なので、彼女の混乱は伝わっているはずなのである。それをも無視して二人はズンズンと城の奥へと進んでいった。

ネイラが疑問符をばらまくのを諦めた頃には、無事目的地へとたどり着く。

 そこは大理石でできた浴室だった。


「あ、お風呂」


そこまで大きな城ではないにしろ、自分の家にあった風呂の何百倍はあろう広さと使用するお湯の量にめまいがしそうだ。なんて贅沢なんだろう。


「これ、私が使ってもいいの?」


そう呟くと、二人の使い魔はニカッと笑って走り去っていった。中からは温かい湯気の気配がする。わざわざ朝から沸かしてくれたようなので、ありがたくお風呂に入った。思い返せばまともな入浴など村で入った時以来で、この城に来てからは緊張の連続ですっかり頭から抜け落ちていた。


「すごーい……」


とにかく汚れているであろう体を洗おうと洗い場で頭からお湯をかぶると、赤く長い髪が体にぺったりとくっついた。この国では赤毛の人は皆癖の強い髪質で生まれてくるのに、ネイラの髪はまっすぐだった。小さな頃はそれでからかわれたり髪を引っ張られたりしたものだが、ネイラ自身は妹がこの髪を気に入ってくれたのもあって気に入っている。

だからこそ目立つであろう髪を切らずに伸ばしているのだが、いつもふと考えるのは自分はもしやこの国の人間ではないのでは、ということだ。ネイラはシェーラの両親が行商中に拾ってくれた拾い子だ。どこで拾ってくれたのかを聞いたことはなかったが、もしかしたら外国の人間である可能性もなくはない。この国の言葉は世界共通語なので言葉では判断もできない分、よりその疑いは増す。


「……」


 ふと、いつか自分の生まれた国がどこかを知るために、行商を学んで妹のシェーラと共に旅をしたいとそう二人で言っていたことを思い出した。本当の両親とか、そんなものはどうでもいい。ただ自分の生まれた国を妹と見てみたいとそう考えただけだ。他の国ならば、シェーラを治せる医者もいるかもしれない。

 しかしそれももう叶わないのだなぁ。と、髪を湯で流しながらぼんやりと考える。いくら高い紅茶を飲めても、いくらいいお風呂に入れても、もうネイラの小さな夢は叶わないし、妹にも会うことは出来ない。グロウは数年で自分は死ぬと言っていたけれど、本当はどうか信用できないし、未来はどうなるかわからない。

しかし例え沢山の娘の血液を吸ってきた吸血鬼だとしても、早く亡くなってしまえと思うことは出来そうになかった。


「……っ、」


 髪から滴る湯と一緒に、涙が溢れてくる。とうに実感はしていた事なのに、急に寂しくなった。

 今のネイラには、心の支えがない。シェーラの為に何があっても生きてこの城を出たいけれど、先行きなど深い霧の中だ。もちろんグロウに心を許すことも信用することも出来ない。

この城に来て二日ほど。めまぐるしい環境の変化に流されるだけだったネイラはようやく自分が今どこに立っているのかを知ったのだった。


「あたま、いたい……」


温かい湯気を吸い込みながら、ネイラは頭を抱えた。さっきまで感じていた空腹はなりを潜め、風呂場にいるというのにぞくぞくと寒気がする。きっと、その空腹も身体が恐怖や緊張を隠していただけだ。所詮誤魔化しだったのかもしれない。ネイラはさっさと身体を洗うと、大きな湯船に浸かる。本来ならばその大きさに関心するものだが、体調はどんどん悪くなっている気がした。緊張の糸が、先ほどの『気づき』のせいで切れたのかもしれない。早々に風呂から上がり、折角だから新しい着替えを着たいと考えていると、脱衣所の所にクローゼットにはなかった白いブラウスと黒のスカートが置いてあることに気が付いた。あの二人が置いておいてくれたのだろう。それに着替えて、ネイラはだんだんと寒気のする身体を引きずりながら風呂場を出て、食堂へと向かった。とにかく水を飲んで、一度横になろうと思ったのである。


 だんだんとぼんやりする頭は、どこか懐かしい感覚でもある。きっとその内熱が出るだろうと考えながら、食堂でコップ一杯水を飲んだ。寒いような暑いような身体と頭に、水が流れるように入り込んでくるのがほんの少し気持ちいい。もう一口、とコップに水を注いでいると、台所にある裏の勝手口の方からティグルとユーフラがネイラを覗いているのが見えた。


「……着替えを準備してくれたのは二人?」


二人はウンウンと頷いた。そっとこちらに近づいてくる。


「どうもありがとう。お風呂上がりだから……ありがたくって……」


そう呟いた瞬間、グラリと身体がゆれた。咄嗟にコップを割らないように台の上に置いた気がするけれど、自分の身体を支えるのはもう難しかった。ガクッと膝の力が抜ける。ガンガンと割れるように痛い頭がごつんと床にぶつかり、余計に響いた。しかしもう、そこから自分で動けない。


「キー!」


ティグルかユーフラのどちらかが、鳴いたような声が聞こえた気がしたけれど、それに答えることも出来ず、ネイラの意識はぷっつりと途切れてしまった。


このまま目を覚まさないのも、いいのかもしれない。無意識に、ネイラはそう思った気がした。

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凍ったその血が枯れるまで 多和島かの @cannb1031

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