第9話

グロウがすっかりと寝入ってしまってから、1時間ほど経った辺りで、城の大きな扉がズリズリと動くような重たい音が微かにネイラの耳に届いた。先ほどグロウが言っていた、使い魔、という者達である可能性が高いが、ネイラが出迎えて良いものかがわからない。咄嗟にグロウを見て、小さく「ねえ、」と声を掛けたが当の吸血鬼は起きる気配すらない。 すーすーと微かな寝息を立てて、ネイラが掛けた掛物でぬくぬくと眠っている。


「これは油断しすぎじゃないかしら……」


思わずポツリと呟く。もしネイラがここから逃げ出すことや吸血鬼を殺そうと考えているのなら、今は絶好の機会、というものかも知れない。村を、妹を人質に取られているようなものであるネイラは逃げる気などさらさらない上に、不死者である吸血鬼を殺す術などまるで検討がつかない。そんなことを企てても彼の不況を買うだけだと判断して、ネイラはグロウをそのまま放っておくことにした。

それよりもちょうど帰ってきたであろう使い魔という未知の存在が気になって気になって仕方なくて、薄く食堂の扉を開いて向こう側を覗き見た。するとそこにはネイラの腰くらいまでしか背丈のなさそうな黒髪の子どもが2人、包みを抱えてこちらへと向かってきている。薄く扉を開けたそのわずかな隙間で、その内の一人と目がバッチリと合ってしまった。


「え?」


思わず小さな悲鳴を上げれば、子どもがパタパタとこちらへと駆けてくる。その瞳はグロウのように、否、彼と同じで血のように紅い。

そうしてネイラが後ずさる隙も与えない二人の子どもは、ニパッと微笑んでネイラが手を掛けていた扉を勢いよく開けた。ネイラにとっては押し戸の扉は、子ども達にとっては引き戸である。それを思い切り開けられて、ネイラはその勢いに乗れるはずもなく、思い切り引っ張られた身体をそのままに、前へとつんのめった。


「きゃあ!! 」


ドアノブを握った手を離すことを忘れて、そのまま前に身体が大きく傾いた。転ぶ、と思い切り目を閉じた直前で、ネイラを背後から思い切り抱きかかえる腕が伸びてきた。触れたその一瞬でわかるほど冷たい腕を持つネイラ以外の人物なんて、一人しかいないのだ。


「あぁ驚いた。大丈夫? ネイラ」


転ぶところだったね。と、ネイラを抱え直すように腕を回し直した背後の吸血鬼にも驚いたが、驚きが重なったせいで声が出なくて、ネイラは無言で背後の人物を見た。つい先ほどまですやすやと健やかな寝息を立てていた男が、気がつけばあっという間に自分の背後にいて驚かないわけがないのだ。


「こら。ティグル、ユーフラ。悪戯はダメだよ」


グロウが目の前の子どもたちにそう言って眉をしかめると、小さな頭は無言でコクリと頷いてから、ほぼ同時にネイラの顔を見上げてきた。クリクリと大きな、けれど血のように…否、吸血鬼のように紅い瞳が強い印象を与える二人は、ネイラが何かを発すのを待っているかのようにパチパチと瞬きをした。


「えっと…グロウ、この子たちが」


「ん?うん。僕の使い魔のティグルとユーフラ。よろしくね」


「えっ?こんな小さな子たちが……?」


ネイラは瞠目すると、もう一度目の前の子どもを見た。グロウが後ろからティグル、と呼ぶと髪の短い男の子のような見た目の子どもが手を挙げ、今度はユーフラ、と呼べばその隣にいる肩を越すくらいの髪をした子が手を挙げた。服装も真っ黒なシャツをワンピースのように着て、簡単なゴム靴を履いた出で立ちである。顔立ちも生き写しかのようにそっくりで、髪型が同じであるなら、ネイラには区別がつきそうになかった。


「彼らの紹介はネイラのご飯が出来たらゆっくりやるから、とりあえず君はご飯を食べなくちゃ。ティグルとユーフラはその包み、調理台に置いて」


ホラ、とグロウが食堂の扉を少し大きく開ければ、その隙間からちょろちょろと子どもたちが食堂へと滑り込んで行った。そのままパタパタと足音を立てて厨房の中へ入って行くのをネイラはぼうっと見つめる。


「ネイラ。僕は人間の食事の作り方なんて忘れちゃったから、君が作っておいで。ああ、勿論僕らの分はいらないから」


「…あの子達も、吸血鬼なの?貴方の子ども…ではない、わ、ね」


「うん。だって僕、勃たな」

「わかった。わかったわ。とりあえず…」


グロウの言葉にかぶせるようにして彼の言葉を断ち切ってから、ネイラは自身の腹の辺りを見つめる。触れる感触は、やはり冷たい。


「この手を離して」


「おや、忘れていると思ったのに」


残念、と呟きながらひらりとネイラから離れたグロウは、ネイラの腰に絡めていた腕をまるで降参するかのように上に持ち上げ、ひらひらと振った。たとえ彼に生殖機能が無くても油断は出来ないことを肝に銘じると、ネイラは子ども達がピョコピョコと頭を出している厨房へ入るべく、踵を返したのだった。




厨房へ入ると、先程クルミの殻が乗っていた調理台には子どもがようやく抱えられそうな大きさの包みが二つ、白い布に包まって置いてあった。その調理台の足元では、グロウにティグル、ユーフラと呼ばれた子ども達が興味津々、と言った顔つきでネイラの次の行動に期待をしている。


「どうもありがとう二人とも。……えっと、お使い出来て、偉いわね」


一体この二人がどんな存在なのか判っていないネイラはたどたどしく、けれど本心を混ぜ込んで二人の小さな頭を撫でた。二人ともくすぐったそうに、小さな身体をバタつかせて喜んでいるようだが、不思議なことに言葉を話すような様子は見られない。ネイラは反射的に二人の前にしゃがみ込み、二人と目を合わせる。彼らの紅い瞳が、きょとんとした表情でネイラの目に映った。


「二人とも、お話は出来ないのかしら?」


ポツリと零したその言葉に反応するように、不意に二人が「キー!」と鳴き声をあげた。およそ人の子どもが発しそうにない、声というより音がネイラの耳を貫いていく。


「ひゃっ」


キンと痛んだ耳を思わず塞げば、小さな二人がハッとしたような表情をした。そしてパタパタとネイラの耳に触れようと手を伸ばしてくる。傷つけてしまったとでも思ったのか、先ほどの甲高い音を出すこともなくネイラの身体に乗り上げそうな勢いで耳を調べようとしてくるので、しゃがみ込んでいたネイラはバランスを崩して床にペタリとへばりついた。


「だ、大丈夫よ大丈夫!ごめんね!びっくりしただけなの!!どこも痛くな…きゃああ!」


「ネイラ?どうし……わああ、お前たち何やってるの?! 」


そこへタイミングが良いのか否か、グロウが厨房へと入ってきた。ネイラに乗り上げる二人をベリベリと剥がすと、抱き抱えてからフン、と一つ鼻を鳴らした。ティグルとユーフラはネイラに手を伸ばそうと、グロウの足元でピョコピョコとしている。


「油断も隙も無いなお前たち!ネイラは僕の花嫁なんだからね!」


どさくさに紛れて先ほどよりも強く抱きしめてくる吸血鬼に、ネイラはうんざりため息を吐いた。


「……離してくれる?グロウ」


油断も隙もないのは子どもたちの主人も同様である。渋々とネイラから冷たい腕を離すグロウに一応、といった形で「ありがとう」と呟いてから、ネイラは彼に子ども達の説明を目で訴えた。が、やはり彼はネイラの空腹を心配している。もしかしたら説明が長く難解なのかしら、と勝手に解釈をして、ネイラは兎にも角にも、と二人の持ってきてくれた包みを開いた。


「えーっと、小麦粉、お芋、お塩に香料……」


「お肉もあるよネイラ。肉は好きかい? 」


ホラ、とグロウが差し出してきた油紙の包みを開ければ、質の良さそうな牛の肉が顔を出した。ネイラの村では結婚式等の祝い事で出されそうなそれである。


「ず、随分といいお肉買ってきてくれたのね。申し訳ないわ」


普段自分が食べていた肉など、豚や鳥の安い部分ばかりである。紅茶の時点でなんとなく察していたが、グロウは大層な金持ちなのだろうか。しかしネイラの困ったような声音にも、あっけらかんとした様子でグロウは首をかしげた。


「この肉は高いの?まぁ、お金なんか気にしなくていいよ。それよりネイラは目利きが利くんだねぇ。すごいなぁ」


随分と検討違いな事を言う。と、ネイラは引くことを忘れていっそ脱力してしまった。ネイラのような田舎者の庶民が分かるくらいこの肉の質が良すぎることを説明するには、彼の人間に対する知識がまるで足りなそうである。


「こんないいお肉、逆にどう調理しようかしら」


なんて贅沢な悩みだろうと内心で自分自身に呆れながら、ネイラはぼんやりと今自分が食べたいものを思い浮かべつつ、その肉の使い道を模索した。

するとグロウの足元にいたティグルとユーフラがキーキーと鳴きながら、心配そうな顔でネイラを見つめていふことに気がついたのだ。


「あ、違うのよ。とっても美味しそうだから、どう食べようか悩んでるの…って、これ、この子達に通じてるかしら?」


どうやら見た限り、子ども達は言葉を話すことができないようであることは察する事が出来た。しかし話せないのと言葉を理解出来ないのは直結しない。


「あぁ大丈夫。言葉を理解出来る所までは教育してるから。この2人には話すことは教えてないけどね」


「そ、そうなの…?」


「うん。何十代か前の使い魔には気まぐれに教えてみたこともあったけど、そこまで必要性を感じない事に気がついたからやめたんだ」


「……そ、そう」


つくづく、グロウとこの子どもの距離感がわからない。その上情のカケラもないような事をあっけらかんと、まるでなんでもない風に答えたその返答があまりに酷薄で寒々しいものだったせいで、ネイラの喉は魚の骨でも飲み込んだかのようにチクリと痛んだ。

しかしショックばかり受けていても仕方ないわ、とネイラは気を取り直して食事作りに専念しようと、若草色のワンピースの袖をくるくると捲った。どんなに脳を方々悩むことにへ向けたとしても、数日間でクルミしか入れていない彼女の胃袋はもはや泣く元気すら失いつつあるのだ。

ネイラは肉以外の食材をもう一度検めてから、早速調理に取り掛かることにした。


まずは湯を沸かして、そこに牛肉の端を小さく削った欠片をいくつか入れて、そこから旨味と出汁を取った。沸騰したらその中に人参や玉ねぎを入れて火が通るまで煮る。味付けは塩とハーブを少し入れてまず一品。それから小麦粉に卵と水を加えて、おたまで掬える柔さにしてからそれをフライパンに薄く敷いて焼いた。本当はパンがよかったが、パンは生地を寝かせなければならない。そんなことをしてる時間は残念ながら無いのだ。


「わ、ちゃんと酵母がある。すごいわ」


使い魔の二人が抱えてきた包みの中に、粉末状になった酵母が入っていて、ネイラは思わず目を輝かせながらティグルとユーフラを見た。しかし買ってきた本人たちはぽかんとした顔でネイラを見ている。


「酵母だってことを知らずに買ってきたの?」


二人は揃って首を捻った。

するとグロウがはは、と少しばかり笑いを零しながら、ネイラの疑問に答える。


「あぁ。その子達は僕が書いたメモを店の者に見せただけなんだろう。何がどれかは多分わかっていないさ」


「そ、そうなの?二人とも」


コクンと、二人が同時に首肯して、紙の端がボロボロになりかけているメモを差し出した。中には紺色のインクで簡潔に、『パンを作る時に必要な材料全て』

『肉の塊、美味しければ種類は問わず』

『どの料理を作るにも大抵必要な野菜。種類と量はこの者達が運べる程度』

『料理をする上で必要な調味料。種類は問わず』

などと書かれている。恐らくはグロウが書いたものなのだろうが、あまりにも雑である。高級な牛肉は恐らく商人が自分のいいように受け取ったせいで買わされてしまったのだろう。なんとなく申し訳ない気持ちになりながら、そのメモをグロウへと返した。グロウはそれを受け取るなり手でクルクルと丸めてその辺へポイと捨てている。


「そ、そうよね。人間の食べ物なんて買うの初めて…だものね?」


気を取り直してネイラがそう言えば、再び二人はコクンと首肯して、それから満面の笑みを見せた。何を買ってきたのかはよくわかっていない二人だが、キチンと仕事を果たせたことは理解できているようである。ネイラはもう一度二人に礼を述べてから、酵母の入った瓶を戸棚の中に仕舞った。その内パンを作る時に大活躍するだろうそれを大切にしまってから、綺麗に焼けた何枚目かの薄いパンを皿の上にひらりと乗せたのである。


それから水に晒していた葉物の野菜を細く切って、水気を切る。牛肉のかけらを焼いて味をつけたものと一緒に皿に並べれば一通りの食事が完成した。


「できた」


思わず頰を緩めながらネイラが全てを皿に盛り付ければ、背後から音もなく腕が伸びてくる。声を発する前にその腕の先を追えば、グロウが皿と碗を両手に食堂へと向かう横顔が


「やぁ美味しそうだね。いい匂いだ」


料理の香りを楽しむように皿に顔を近づけてから、グロウはスタスタと食堂へと向かって行く。どうやら代わりに運んでくれているようだがその褒め言葉が心からの言葉ではないことは既に分かっている。その背中を追いかけながら、ネイラは悪戯を仕掛けるように拗ねるふりをしながら小さく呟いた。


「適当に言ってるでしょ。貴方、人間の食事なんてほとんど食べたことないんでしょ」


ネイラの声に反応して、軽やかな仕草でグロウが振り向いた。長い前髪が彼の表情を柔く隠しているせいで瞳の奥は見えない。が、どこか悲しげな微笑みが口元に浮かんでいる。


「僕にもね、人間の食事を必要とするような時間があったんだよ。ネイラ」


「…えっと、」


「まぁ、もうむかーしの事だからね。全部忘れちゃったことは確かかな」


ほら冷めちゃうよ。と軽やかに言って、グロウが身を翻す。彼の靄がかかるような言葉にネイラは鉛を飲み込んだかのように胸を重くしながら、それでも興味を持つことを微かな恐怖を感じつつ彼の後を追ったのだった。

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