第8話

 赤い髪の女は少年の背筋が伸びた礼を見て、苦々しく目を細めた。


「やだ、染まったわねぇあんたも…。昔はもっと無礼で可愛かったわ」


 フン、と鼻で笑いながら、女は暗い部屋へと少年を招き入れた。少年は内心で小躍りしたくなるような気持ちをなんとかひた隠しながら、女の研究室へと入り込む。


「無礼が許されるのは子どもだけでしょう。僕はもう子どもじゃありません」

「何言っているのよ。私から見たら子どももいい所だわ。あんたなんて」


ため息を吐き髪を一度かき上げてから、女は部屋の奥へと入っていく。城の窓には分厚く黒いカーテンが引かれおり、完全な暗闇ではないにしろ自分の足下すら見えにくい部屋をスタスタと歩く彼女の背中を追うように、少年も部屋へと足を進めた。が、確かこの部屋は薬瓶のような割れ物でも床に置いたままだった気がする。すっかり部屋の奥にいる女に向かって、少年は声を掛けた。


「ねぇ、ランプありませんか?」

「…面倒ねぇ。このくらいの暗さでも見えないっていうの?」

「見えませんよ。貴女のように夜目が利くわけではありません」


全くもう、と独り言を言いながら、女は奥からランプを持って少年の側へと戻ってきた。その際に二つ三つと床に置いている物を棚に置くような動作をしたので、少年は自分の言動が正しかったのだと実感する。薬品やまじないの道具を蹴倒したと知ったら、この部屋を追い出されてしまうかもしれない。


「ほら、どうぞ」


女はランプに向かって唇を近づけると、フッと息を吐いた。その瞬間、赤い炎が煌々とランプに灯る。


「ありがとうございます」


「全く、余計な力使っちゃったじゃない。あんたの血で補給させて欲しいくらいだわ」


女はじっとりと少年を見つめてきた。もしそうしてくれるのなら、少年はきっと歓喜に打ち震えてしまう。


「どうぞ。僕のでよければいくらでも」

「……嘘よ。私、人間の血って嫌いなの」

「でも貴女は、」

「そうね。でもなんでもいいわけじゃないわ。私の好みは赤ワインに子馬の血を混ぜたやつ。覚えておきなさい。それで今度ここへ来たときは土産にでも持ってきて」

「……はい」


 私が人間の血の味を思い出したら厄介でしょ。あなたたち。と彼女が国王である父を脅しているのを昔、物陰から見た事がある。その通りだ。もし彼女が人間の血の味を思い出してしまったら、毎度力を使ってもらう代わりに国民という生け贄を差し出さなくてはならない。

 今この国は、吸血鬼である彼女に様々なものを頼って生きていた。諸外国の様子を遠見してもらう。未来の天候を知り、災害の予知をしてもらう。新しい病に対する薬の調合をしてもらう。そういった、人間が苦痛なく生きるために必要な事は国で唯一の存在である彼女が、気の遠くなるくらい昔からやっているという。


不老不死で、日光が苦手で、力を使う為には生き物の血液を身体に取り込む必要がある。そんな彼女の事を恐れ、蔑む言い方として、国の者達は皆彼女を『吸血鬼』と呼んだ。多くの国民達は、彼女が国において重要な役割を持っていることを知らずに、ただ勇敢な国王一族が化け物を飼い慣らしているとしか認識していない。それが少年は不愉快で仕方なかった。


彼女は「いいじゃない。私は気に入ってるわ」と大声で笑う。

 しかし少年にはとても笑えたものではなかった。

 少年は彼女に一目で恋をしていた。初めて逢ったのは幼少期。城の中を探検している時に、薄暗い離れの塔の中で初めて彼女に出逢った。

その赤い髪に、真っ白な肌に、強そうな瞳に一瞬で目を奪われてしまった。

しかしそれを王妃である母に話したのがいけなかった。母は「ですから同じ城に置くなどと…!」と国王である父を詰り、父は慌てるように書庫から昔の文献を引っ張り出していた。もちろん少年はもう女に会ってはならないと厳しく言われたけれど、少年は彼女を見たときの心臓の高鳴りを忘れる事が出来ないまま、こうして成長を重ねたのだった。

 

「…で、あんたは今日なんでここへ来たのよ。母親に止められているんじゃないの?知らないわよ。次期国王の座がなくなっても」


 少年はランプを揺らしながら部屋の中を見回し、椅子を一脚見つけそこに座った。女は定位置のソファーへ座ると暗闇の中、何か液体を注いでいる。先ほど言っていたワインだろう。


「別に、国王の椅子なんていりませんよ。兄上もいるし、弟達もいます」


 少年の兄弟は男兄弟が多かった。そのせいか昔から次期国王の座は誰なのか、と臣下達がうるさいのである。


「そうね。でも王妃の子はあんただけなんでしょ。そりゃあ、そんな大事な息子が鬼の所に出入りしていたらお母様もお叱りになるわね」

「母は…関係ありません。それより僕は、貴女の知識を少しでも身につけたいんです。貴女一人に国を抱えさせている父や歴代の国王のようではいけないと、思うから」

「生意気言うわね。弟子はとらないわよ」


ワインを飲んで女が上機嫌な内に、思わず言ってしまおうかと、少年は一度ぐっと唇を引き結んでから、息を吸い込んだ。『貴女の助けがしたい』と、そう言ってしまおうかと思ったその刹那、


「言っておくけれど、私はあんたみたいな赤ん坊お断りだから。邪な気持ちがあるなら帰りなさい」


女はまるで歌うように上機嫌なまま言うものだから、少年は背中を丸めた。今日はここらで潮時のようだ。


「……また来ます。今度、天候の未来視について教えてください。力のない僕たちでも何か出来る方法があるかもしれない」


「気が向いたらね」


分かってはいるけれど、相手にすらされない。けれど少年は、この恋を諦めるつもりは毛頭なかった。

席を立って、入り口まで来てからランプを消すと、女は「あ、そうだ」と今し方思い出したように言った。


「気をつけなさい。南から大雨と大風を運ぶ雲が十日ほどで来る。海に近い街は今の内から対策を立てるように国王に伝えて。ここ一年で一番大きな雨雲よ」


女はそう言うと真剣な瞳を鈍く輝かせる。その顔が、瞳があまりに美しいと、少年は思った。


やがて十日後、国の上を強烈な雨雲が通り過ぎていった。海辺の街は十分に対策が立てられ、お触れを出した国王に大層感謝をしたという。

少年は苦い顔をした。さも自分が未来視したかのような父の姿が、恥ずかしくて仕方なかったのだ。



ーーー吸血鬼は、過去しか夢に見ない。夢を見るならば、いつもそれは過去の出来事なのである。

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