第7話
――吸血鬼が過去の夢しか見ないことは、誰も知らない事実である。
少年は朝の稽古事を一手に終わらせると、騎士団の詰所へと足を運んだ。母や父にどこへ行くかを問われた時、詰所へ行くと言えば勝手に兵法を学びに行くのだろうと勘違いしてくれるからである。
一応、と言う形で訓練着をひっかけて詰所の扉を開ければ、その日は珍しく騎士団長のニルト・ジェイガンが机で書き物をしていた。たとえ書類に集中しているとはいえ、詰め所の扉が開く音を彼が聞き逃すはずもなく彼のヘイゼルの瞳と目が合ってしまった少年は少し気まずそうに苦く笑いながら、ひらひらと手を振った。
「これは王子殿下。ようこそいらっしゃいました」
少年の姿を一目見るなりすっくと立ち上がり恭しく礼をした若き騎士団長に、少年は恐縮するように「いいよ」と苦笑いを添えて騎士団長の最敬礼を解かせた。
失礼します。と、一言置いてから頭を上げたニルトが背筋を伸ばすと、その瞬間急に互いの目線がズレた。少年は微かに歯噛みする。
少年の未だ伸び切らない身長とは違い、既に完成された肉体を持つニルトと目を合わせようとすると、ほんの少しだけ目線を斜め上に持っていかなければならない。そこに男という生き物としての淡い嫉妬を抱きながらも、少年はニコリと微笑んだ。
「ちょっと邪魔していいかな。ニルト」
「ええ勿論です。ごゆるりとなさってください。私に出来ることがありましたらなんなりと」
品行方正を絵に描いたように爽やかな好青年であるニルトの笑顔に少しばかり後ろめたさを感じながら、少年は少しばかりずれてしまいそうな予定をどこで軌道修正するかを考えていた。
そも、いつもならこの時間の詰所はほとんど人がいないのだ。それもそのはず、午前中まっさかりのこの時間はどの小隊も訓練や見回りに勤しんでいる為詰所はほとんど人がいないのである。もしいたとしても掃除当番の騎士見習いや団長の側近が書類整理や掃除をしているくらいだから、誤魔化すにはうってつけの相手だったのだ。下級兵や騎士見習いになると、少年の顔を見た瞬間緊張してしまいこちらが何をしていても大抵は向こうの記憶が朧げになってしまう。
しかしこれが騎士団長となると相手が大分違った。小隊長や、ましてや騎士団長になると少年とも毎日のように顔を合わせ、会話する機会が増える。少年どころか父や母とも臆せず話す彼らが、今更少年が背負う威光におののくはずもないのだ。
少年は大して興味もない兵法書の棚から一冊本を取り出してパラパラと捲っては、チラリとニルトの方を見た。
否、正確にはニルトの机の奥にある裏口の方に目を向けたのだ。普段ならば騎士見習い達を適当に誤魔化してその扉から目的地へと行くというのに、よりによって一番誤魔化しの利かなそうな相手を前にして、少年は暫し言い訳を考えるべく頭を捻り出したのだ。
少年がパラパラと本をめくる音と、騎士団長ニルトが羽ペンを動かす音がゆっくりと連なるように響く。すぐ傍の演習場からは兵士達の訓練する声が遠く聞こえ、少年はふとそちらに目を遣る。剣術の稽古も早朝既に済ませているが、正直な所あまり得意ではなかった。ゆえに、兵法書などまるで興味がない。少年はどちらかというと、学問の方が肌に合っている。
「王子殿下」
不意にニルトから声を掛けられ振り返れば、ニルトはにっこりとその精悍な顔を緩ませている。
「ん、なに?」
少年がわざとらしい返事をして本を閉じると、ニルトは机から立ち上がり丁寧な所作で礼をして、さっと自分の後ろにある扉を手で示した。
「殿下の御用は兵法書などではなくこちらの扉のであると聞き及んでおります。私が居たせいで通りにくかったのですね。申し訳ありませんでした」
「えっ、あ、いや」
絵に描いたような動揺を言葉に乗せて少年が狼狽えれば、ニルトは全てお見通しだとでも言わんばかりに微笑んだ。そしてそれは彼の立ち振る舞いだけではなく、観察力や言動からも溢れ出ているのである。彼のヘイゼルの瞳は、溢れそうな自信を押し留め凝縮させたように瞬いていた。
「いくら隠そうとなさっても、このニルトは騙せませんよ王子殿下」
「う、」
少年は気まずそうに顔を歪めた。大敗である。
「大丈夫です。陛下や大臣殿には黙っておりますゆえ」
そう言って、人差し指を口元に持ってくるこの若き騎士団長に少年は顔を苦くした。
「お前、女の子にモテそうだね……」
「いえいえ、そんな」
ハハハ、と笑う爽やかな声と白い歯がなんとなく憎たらしい。強く否定しない辺り、少年の読みは当たってるのだろう。
「まぁいいや。ありがとうニルト」
「とんでもございません王子殿下。しかし」
不意に声のトーンを落としたニルトに、少年はほんの少し背筋を冷たくする。彼の友好的な瞳が微かに剣呑とした光を宿した。
「王子殿下、あの女は女狐です。迂闊に近づいてはなりません」
「……お前までそんな事言うのか」
不意に少年は、たった一人孤島に置き去りにされたような気分になる。しかし騎士団長はそんな彼の伸ばす手を振りほどく様に、更に強めた語気と瞳を少年に真っ直ぐ、突き刺してくる。
「殿下のようなお方が、何故あの女狐を気に掛けるのでしょうか。あんな化け物など殿下が目に留める必要もございません。本日はこのニルト、目を瞑りますが……」
カッと、少年の視界が赤に揺れる。が、叫び出したいのをなんとか堪えて、少年は犬を叱るように声を落とした。
「口を慎めジェイガン騎士団長。彼女のおかげでこの国が潤い繁栄しているということを忘れるな」
「……御意」
スマートに頭を下げたニルトは、恐らく本心から少年の意に同意したわけではないことくらい、少年もわかっている。が、彼が少年を『従うべき存在の、従うべき人』と認識して頭を垂れた以上、少年も目の前の若き騎士団長を深く非難するわけにはいかない。そもそも、そんなことをしている時間も惜しい。少年の目的は、ニルトと話をすることではないのだ。
「じゃあ、邪魔したね。ニルト」
「とんでもございません殿下。こちらこそ、殿下の予想外のお時間に詰め所にいて申し訳ありませんでした」
先ほどのような柔らかい笑顔で、ニルトが微笑む。
「普段この時間に騎士団においでになることは、従者から伺っていたものですから…いえ、今日私は殿下をお待ちしていたわけではありませんよ。ええ、決して」
嘘が上手くない人間の渾身の嘘というものは、こんなにも滑稽なものか、と少年は思わずため息を吐き出した。
「ニルト。前言撤回してあげるよ」
「はい?」
ニルトの精悍な顔つきが、ポカン、と惚けたように抜ける。
「お前、初見の女にはモテるけど振るより振られる方が多いだろ」
「な、殿下!!」
「じゃあ。こっちこそ仕事の邪魔して悪かったよ」
ひらひらと手を振って少年は騎士団詰め所の裏口に手を掛けると、するりと身を滑らせた。恐らく、少年の読みは当たっている。爽やかな顔つきに、程良い筋肉に覆われた体躯。スマートな所作はきっと女が放ってはおかないだろうけれど、いかんせん彼は一言も二言も多い性格をしているようだ。その察しのよさは騎士団を束ねるには至上のものだろうが、女からしてみればたまったものではない時もありそうだ。モテる察しの良さと、モテない察しの良さがある、などとぼやいていたのはどの腹心だったか。
「女狐なんて、どの口が言うんだよ…」
扉をしっかりと閉めてから、少年は歯噛みするように声を絞り出した。どの口が言う。と、口にしてからもう一度噛みしめるように内心で吐き出してから、少年は顔を上げて、足を進めた。
少年は裏口から騎士団の厩を迂回し、やがて城郭の裏へと来ると、そこにひっそりと立っている小さな城へとたどり着いた。少年が住まう国の城の何十分の一かというほどに小さなものだが、それでも貴族の屋敷よりは大きな、しかし日陰に建っている分どこか陰鬱とした雰囲気すら垣間見えるその城の門を開けて、滑り込むように入り込んだ。
中は日が当たらないせいで、今が午前中であることを忘れ、そろそろ月でも昇るのかもしれないと勘違いしてしまうほどの暗さを湛えている。鍵の掛かっていないその城に入り込み、少年はひとまず、といったように城の一階にある食堂へと向かった。が、目当ての影はなく、今度は正面エントランスの真ん中にある、この城のシンボルとでも言いたげなほど広い吹き抜けの階段を上った。そのまま他の部屋には目もくれずに、奥にある部屋へと足を進め、少しばかり豪華なその部屋の扉をノックする。
「誰?」
すると中から、女性の声が少年に問いかけてきた。ここにいた、と、少年は隠しきれない歓喜の笑みを頬に浮かべながら、「僕です」と返す。
「僕ぅ?誰よ。名乗りなさい」
そんなそっけない返答に、わかっているくせに、と少年は甘いため息を吐く。もどかしいように自身の名前を呟いてから「わかってるでしょう」と付け加えれば、先ほどよりもぶっきらぼうな声で。「名前を言わないような男を部屋に通すほど、私は緩い女ではないわよ」と、つんとした態度で返された。そうして少し、部屋の扉が開く。
そこにいたのは、美しい絹のような、しかし夕日のように赤い髪をたっぷりと、しかしすんなりと背中に延ばした女性が、眉間に皺を寄せて立っていたのだ。少年はそんな彼女に向かって、思わず綻ぶ顔を崩すまいと耐えながら、愛おしい目の前の人物に一度、恭しく礼をしたのだった。
「ご機嫌麗しゅう。レディ・ヴァンパイア」
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