第6話
ちょっとここで待ってて。と言ってグロウがネイラの前から席を外してから少しも経たないうちに彼は両手に何かを抱えて帰って来た。それをコロコロと厨房の調理台の上に置いて「はいどうぞ」と少し誇らしげに微笑む。その満足そうな顔を少しばかり怪訝に思いながらも、ネイラは調理台の上のそれを見た。
「……クルミ?」
「うん。食べ物を買ってくるまで時間があるから、これを摘んで待っててもらおうと思って」
ネイラの言う通りだったよ。と、楽しそうなグロウに首を傾げれば、このクルミは城を出てすぐの木になっていたと言う。
「すぐ側にクルミの木がなってるなんてすっかり忘れてた。ネイラは頭がいいね」
あっけらかんと、グロウが言った。クルミの木など彼にとっては必要のないものだったのだろう。もしかしたらその木に食べ物がなっているということすら認識していなかったのかもしれない。ネイラはそっとクルミを取ると、堅い感触のする殻をコロコロと弄ぶ。
「ごめんなさい。手間をかけてしまったわ」
「いいや、僕こそごめんねネイラ。厨房はいつでも使えるように一生懸命掃除したのに、肝心の食材の準備を忘れてしまうなんて」
「え? 」
思わず耳を疑うように聞き返してしまった。まさか吸血鬼が自ら人間であるネイラの為に厨房を掃除したと言うのか。喫驚のあまりぽかんと口を開けてグロウを見れば、彼にとってその視線は大層熱かったのかもしれない。青白いままの頰を情けなく緩めながら、照れ混じりに頰を掻いた。
「あ、いや、その。だってネイラは人間だから、食事をするだろう?僕だってそこまではちゃんと思いついたんだよ」
「……貴方が、掃除したの?」
「ん? うん。使い魔も一緒にだけどね。でも彼らに命令するだけじゃないよ。ちゃんと僕も参加したんだ。僕の大事な花嫁が使う厨房だからね」
「つ、使い魔? 」
「うん。今買い物に行かせてるから後で紹介するね」
「え、えぇ……」
どうやらこの城にはグロウが使役する使い魔、というネイラが聞きなれない存在が城にいるようである。吸血鬼が使役するものなんて安易な思考だと化け物しか思い浮かばないのだが、買い物が出来るというなら人間なのだろうか。もしやネイラも使い魔という存在にされる、否、既になっているのだろうか。再び襲いくる不安と混乱をごちゃごちゃと混ぜながら、ネイラはフラフラと調理台に寄りかかった。コツン、と指先に堅いクルミの殻が触れる。
「あ、ごめんね。それ食べられるようにしてあげるよ」
ちょっと待ってて、と言うとグロウはクルミを一つ手に取り、殻のまま指先で軽く摘むように力を入れた。パキッという音と共に、中からカラカラとクルミの実が出てくる。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとう」
クルミの固い殻を、指の先だけで割ってしまった。ここで湧いた感情など、どちらと言うまでもなく感謝より恐怖が先である。が、それを悟られないように、彼の血の通わない青白い手の平からクルミを受け取る。それを一粒口に入れれば、クルミ独特の香りや食感が口内に広がった。「美味しい」と思わず口にすれば、グロウの表情がその青白く不健康そうな顔色に比べ、パッと明るくなる。
「そうかい? よかった! もっと食べて」
そう言ってまるで茹でた豆でも潰すかのように指の先で簡単にクルミを割っていくのを内心冷や汗を掻きながら見守れば、グロウは何故かふにゃりと破顔した。これで頬の血色でもよくなれば照れ笑いとでもいえるのだろうけれど、いかんせん彼の頬には血が通っておらず、それがなんだかアンバランスにネイラの目に映る。
「……あの、貴方はやっぱり食べないの? 」
おずおずと聞いてみた。調理台の上にはバラバラなクルミの殻と、その中から取り出された綺麗なクルミが寝そべっている。
「うん。僕には必要ないかな。食べられないことはないけれど」
「そ、そう……」
そのまま流れる沈黙。気まずい空気に視線を彷徨わせれば、グロウが申し訳なさそうに「クルミだけじゃ足りないよね…」とつぶやいている。そんなことはないと手を振るが悲しいかな儀式の前、村の者に捕まった辺りでほんの少し果物を口にしただけのネイラの腹は非常に正直だ。そもそも、妹のシェーラが生贄に決まったと知った時点で村をほうぼう逃げ回ったせいで、実質2.3日ほど食事を摂っていなかったのだ。
村では儀式の前には、肉や魚などの物は食べてはいけない、とされている。血液に余計な匂いが付いたことで、かつて吸血鬼が怒り何人もの村の者が犠牲になったという言い伝えがあるからだ。
ネイラは目の前の吸血鬼を、彼に悟られぬようチラリと見る。
自分で割ったクルミの殻の欠片を指先でチョイチョイと弄るこの男がそんなことをするのだろうか、などという思考がチラついたが、ネイラもグロウのことをまだつま先ほども理解していない。そう思うと、やはり背筋に冷たい冬の川のような冷や汗が、ぞわぞわと這いずるのだ。
余計居たたまれなくなってキョロキョロと辺りを回したネイラの視界に、水場に近くにポットが映った。
「あの、食べ物はなくてもお茶の葉とかあるかしら?」
思い切ってそう話を振れば、グロウは再び二パッとした表情をネイラに見せた。顔色はともかく、その表情は古くから恐れられる吸血鬼というよりも、さながら少年のようなそれに近い。
「あるよ! 僕も気まぐれにお茶くらい飲んだりするんだ!」
ちょっと待ってて、と言うなり慌ただしく厨房を出て行ったかと思ったらバタバタとやはり慌ただしく戻ってきた。
「これはどうかな?」
そう言ってグロウが渡してきたのは、王都の有名な紅茶店のパッケージの茶缶だ。銀色の缶に、上品な字で書かれたパッケージ。そこには王家の御用達と銘打った紅茶店の名前が記されてる。森の辺鄙な村に住むネイラには、到底手の出せない品物であることは間違いない。
「やだ、これメアリィ・ヒルの紅茶? は、初めて飲むわ…」
念の為茶缶の裏のラベルを確認すれば、期限は暫く先になっていた。何十年前のものだったらどうしよう、だなんて懸念してしまったことを少しの中で謝る。徐に缶の蓋を開けて見れば、上品な茶葉の香りがふわりと香った。
「有名な店なのかい?」
「え、えぇ。ほら書いてあるじゃない。王家御用達のお店なのよ」
「そうなの、か……知らなかったよ。使い魔に適当に頼んだら買って来たのがそれだったんだ」
「そ、そう」
グロウが呼ぶ使い魔、という存在が余計に気になってくるが、ひとまずネイラは紅茶を淹れることに専念することにした。お高い紅茶は淹れ方が違うのかしら、とパッケージに書かれている淹れ方をなんとなく確認してみたが一般庶民が飲む紅茶とあまり変らないらしい。
「私が淹れるわ。少し待っていて」
ポットを手に取って水場から水を注いで、釜戸に火を入れようと中を覗いた。灰は綺麗に掻き出されており、ここもきちんと掃除してくれたのがわかる。でも釜戸にまで目が行くのに食材のことは忘れてしまったのかな。などと一瞬考えたが、色々と考えても無駄な気がしてきたネイラはさっさと釜戸に火を起こして湯を沸かしてから紅茶を淹れる手順をなんとなくぎこちなくこなす。
「えと、カップは……」
「あぁ、これを使って」
ぽつりと独り言を呟いた所でその独り言に返事が返ってきたことに少しばかり驚いていると、グロウが大きな食器棚の中からカップを一組、ソーサーと一緒に取り出した。はい、と気軽に受け取ったのはいいものの、持ち手の部分は豪華な装飾が施されていて、金が塗られている。カップの部分は真っ白で、チューリップのような形をしていた。ネイラが見てもわかるくらい高価なそれをあっさりと渡されて、思わずネイラの手が震えそうになる。
「ちょ、ちょっと待って。このカップ、相当高いんじゃ……」
震えた声でそう言うと、グロウはにっこり微笑んで
「大丈夫。ただ古いだけだよ」
「古いって……こんなすごい細工のカップ、きっとすごい値が付くものだわ」
長命が故か、どこか物に対する価値観がずれているグロウに溜息を吐きながら、ネイラは恐る恐るカップにお湯を注いで温めた。普段はそんなことしないが、こんな高級そうなカップで高級な茶葉を使っているのに簡単な淹れ方をしてしまっては、なんだか申し訳なく思ってしまったのである。鮮やかに透き通る紅茶を真っ白なカップにそっと注ぐ。
「わぁいい香り。僕が淹れた時と全然違うなぁ」
グロウが感嘆の声を洩らしながらカップに顔を寄せ、香りを楽しむように目を閉じている。一瞬近くなった距離に反射的に身を固くするが、グロウは気が付かなかったのか香りを楽しむとすっと身を引いてネイラの答えを待つように彼女を見つめた。
「特に変わったことはしていないわよ」
蒸らす時間をきちんと砂時計で計ったりカップを事前に温めたりはしたけど…と今までやった手順を頭の中で反芻すると、グロウがにこにこと微笑む。
「ネイラが淹れてくれたから余計美味しそうなんだよ」
「そ、そうかしら。きっとあまり変わらないと思うわよ」
ふわりと香る紅茶とグロウが割ったクルミを皿に乗せてダイニングへ着くと、自然にグロウがネイラの向かいに着席した。彼の前には紅茶だけを置こうとしたけれど、なんとなく小さな皿を出して彼の前にもクルミを置く。一瞬キョトンと目を丸くしたグロウは皿を見てからネイラを見てきたが、その視線をふい、と受け流す。
「僕にもくれるの?」
「だって貴方が殻割ってくれたのだし……」
「でも僕は」
「食べられないならそれでいいの。目の前に置いておいて」
頂きます。と一言呟いてから、クルミを一粒口に放り込む。生のクルミ特有の歯に食い込むような感覚を楽しむように咀嚼して、それを紅茶でするりと流し込めばほんの少し落ち着いた息を吐けた。ネイラがちらりとグロウを盗み見れば、予期せぬ形で彼と目が合った。気まずくなって少し目を逸らすと、ロウの首がこてんと傾くのがネイラの視界の端に映った。あどけないような彼の仕草になんとなく居心地を悪くしながら、ポツリと呟く。
「クルミ、美味しいわ」
「本当かい?よかった」
「えぇ。紅茶も美味しい。少し、ほっとしたわ」
ネイラがそう言うと、グロウは肩をすとんと落として眉をへの字に曲げた。その青白い顔には少し似合わないような、少しあどけない笑みを浮かべてクルミを摘まむネイラを見つめている。
「それはよかった。もう少ししたら使い魔たちも帰って来ると思うからもう少し待っててね」
「どうもありがとう」
ふるふると首を振って、ネイラがクルミを食べる様を見つめるグロウに、ネイラはぴた、と手を止める。
「……貴方は、本当に、その、」
「ん?」
「いえ、なんでもないわ」
この緩んだ空気のせいで、思わず滑ってしまいそうになった口を、ネイラは意識的に結んで耐えた。彼がまだどんな存在かをを理解していないというのに、ついうっかり彼自身についての質問をしそうになってしまった。
貴方は本当に、何百年も生きているの?
本当に、吸血鬼は血液ばかりを口にするの?
本当に、人間の食べ物は口にしても意味がないの?
もし貴方のお腹が空いたら、
お腹が空いたら、自身で立てた誓いなんて、あっさり破ってしまうのではないの?
そんな事を聞いてしまえばどうなることか。まだこの城に来てたった一晩しか経っていないのに我ながらなんという大胆さ、というより命知らずなのだろうと、ネイラはこっそりと溜息を吐いた。会話の間を持たせるように、クルミを一粒食べる。少しだけ苦みがするそのクルミは一つ噛めばクルミ特有の香ばしい香りがネイラの空腹の胃に緩やかに流れ込んでいった。
「あーあ」
不意にグロウが椅子の背もたれにだらしなく凭れ掛かると、天井を仰ぐように上を向く。その声に思わず反応したネイラの方など見向きもせず、一人空に向かって愚痴に近いような言葉を吐きだした。
「君が不自由なく、怯えることなく暮らせるようにって考えて掃除とか頑張ったり、部屋を可愛らしくしてみたりしたのに。肝心の食べ物を用意し忘れてしまうなんて僕はなんて間抜けなんだろう……」
ネイラは反射的にグロウの方を向いて、目を見開いた。自分が一晩使っていたあの部屋には、色んな疑問点が渦巻いているのである。
「部屋って、あの、私が寝ていた……」
「うん」
ほぼ無意識に返事をしたかのような気怠い、緩い声。まるで寝言を言う相手と会話をしているような気分になりながら、ネイラはそれでも聞きたかったことをはたと思い出して、声に出してみた。
「あの部屋のものは、誰かが使っていたものじゃないの?」
「違うよ。家具はこの城に元々あるものだけど、小物とか服とかはネイラの為に用意したんだ……」
え。と、ネイラはピシリと身を固くした。部屋のドレッサーにはネイラが持っていたものよりずっと質の良い櫛や髪用の油が置かれていたし、箪笥の中の服はどれも新品で、しかもネイラが好きな色の服ばかりだった。実際に今来ている若草色のワンピースだって、もし行商人が仕入れて村にやってきたのなら値切り交渉をしながら絶対に手に入れようと画策してしまうくらいには、ネイラの好みのど真ん中を貫いているのである。
「あ、あれ全部…? 誰かのお下がり、とかでなくて?」
微睡んだ声で、グロウが「やだなぁ」と呟いた。
「ぜーんぶ新品だよ。僕のかわいい花嫁に誰かのお下がりを着せるなんて……やだ……」
気怠そうだった声音はやがて、眠気を纏ったような、やや微睡んだような色味を帯びてきた。
「グ、グロウ、眠いの?」
「だって、この時間はいっつも、僕、寝てる、から……」
むにゃむにゃ、とでも言いそうなくらい蕩けてきたグロウの口元に、ネイラはふと、吸血鬼が夜に活動する生き物だということを思い出した。恐らく彼の活動時間はまだまだ先なのだろう。それなのに外まで行ってクルミを取って来てくれたり、お茶に付き合ってくれたのかと思うと、ネイラの中に再び疑問が湧いてくる。
「……わからないわ」
彼の本心も、思惑も、狙いも、目的も。全てがネイラにとって霧の中であり、闇の中だ。
きっとまだその答えに辿りつくのは到底無理なのだろうと、ネイラはひとまずすっかり寝息を立て始めたグロウの為に、自室に掛物を取りに走ったのだった。
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