始まりの一日目-4


 ヤバイ! 寝すぎた! と思って目を開けると辺りは真っ暗だった。午後の一時限ぐらいサボろうと思たのが、どう見ても一時限どころか学校が終わっているような時間だ。急いでスマホで時間を確認すると六時を回った所だった。

 昼間、風が来なかった事で暖かかったこの場所も、この時間になると風など関係なく純粋に気温が低くなってダウンジャケットを着ていない状態では凍えてしまってもおかしくないのだが、無事に目が覚めたのは幸運と言っても良いかもしれない。

 寒さに震えながら早く家に帰るかと思ったのだが、今日は六時三十分からバイトが入っているのを思い出した。あっ、マズイ! のんびりしている場合じゃあない。急がないとバイトに遅刻してしまう。

 急いで教室に戻った僕だが、当然の如く生徒は誰もおらず、電気も消され暗くなった教室はこんな季節だが幽霊が出てもおかしく無いような雰囲気があった。寒さ以上の嫌な感覚に背筋を震わせた僕は兎に角急いで荷物を纏めて教室を出ると自転車置き場まで走って行った。

 僕のバイト先は店長が個人で経営している飲食店で、学校からは二十分もあれば間に合う。しかも帰りは下り坂なので、急げば大丈夫だ。ペダルに足を掛けて漕ぎ出すと坂を下り始める。夜の山道は暗いが、時折設置してある街灯や、ロードバイクに別途取り付けたライトが道路を照らしているおかげで、転ばない程度には急いで山道を下りる事ができる。


 万年坂の中腹辺りのカーブを曲がっている時、自転車のライトに一瞬だけ人の影が映った。月星高校の運動部は学校のグラウンドや体育館ではなく、別の場所を借りて活動しているし、文化部は冬時間の下校時刻なので、この時間にはシャトルバスも終わっており、もう居ないはずだ。

 ましてや学校関係者以外がこんな山道にいる訳がない。麓の入り口には関係者以外立ち入り禁止の看板が立っているのだ。

 さっき教室で感じた嫌な感覚が甦ってくる。気にしちゃ駄目だ。幽霊なんている訳ないんだからと自分に言い聞かせながら、バイトに遅刻しないように自転車を漕いで万年坂を下っていく。

 バイト先に着いたのは開始の五分前だった。間に合ってよかったと思いつつ、店長の藪原やぶはらさんが厨房で慌ただしく調理を行っているので、僕も手早く調理白衣に着替えると藪原さんの手伝いに入る。


「お待たせしました。僕も手伝います」


 時間に遅れた訳ではないが、藪原さんの忙しさを見ると待たせたみたいで申し訳なかった。


「おう、釆原君か。それじゃあ君は生姜焼きの方を頼む」


 二十席ほどの小さな店だが、地元では有名らしく大体これぐらいの時間になると混み始めて忙しくなるのだ。普段は藪原さん夫妻で切り盛りをしているのだが、たまに時間が空いている時、僕が手伝いに来ると言う感じだ。

 暫く忙しい時間が続いたが、九時頃になるとやっとお店も落ち着いて来て、十時になると閉店を迎えた。


「釆原君お疲れさま。今日は助かったよ。これでも飲んで一息吐いてくれ」


 藪原さんがコーラを僕の目の前に置いてくれた。一仕事終えた後のコーラは美味しい。喉を通り過ぎる時の炭酸の刺激が疲れた体に心地よい喝を入れてくれる。


「今日は何を作って行くんだい?」


 僕は仕事が終わるといつもこのお店で、今日の晩御飯と明日のお弁当のおかず兼母さんの夕食を作っているので藪原さんもそれを分かっている。


「そうですね……。今日は生姜焼きにしようかと思います」


 僕は席を立つと冷蔵庫から生姜焼き用の豚肉と玉葱を取り出す。スーパーで買う豚肉とかも美味しいのだが、やはりお店がこだわって仕入れている豚肉と比べると断然にこちらの方が美味しい。


「手伝ってもらってるんだからお金は要らない言ってるのに」


 お店の食材を使っているのでお金を払わないのは申し訳ないと思い、机にお金を置くと、藪原さんは机に置いたお金を渋々受け取る。以前、何度かお金の押し付け合いがあったのだが、僕のしつこさに藪原さんが根負けした感じだ。

 手早く玉葱を切り、生姜焼き用の豚肉に薄力粉をまぶすとフライパンで炒めて行く。軽く火が入った所で玉葱を入れ、最後に生姜焼きのタレを入れれば完成だ。

 生姜は皮ごとすりおろして汁を絞るので、生姜の香りが高いのがここの店の特徴だ。後、少しだけ蜂蜜が入っているのがポイントで、蜂蜜の甘みがほんの少しだけ感じられる。

 出来上がった生姜焼きをプラスチックの容器に入れると僕はそのまま後片付けを始める。下がってきたお皿やシンク周りを掃除すれば僕のバイトは終了だ。


「ご苦労様。明日も学校だろ? 今日はもう良いから上がってくれ」


 一通り片付けが終わると、藪原さんが僕に声を掛けてくれた。藪原さんは明日の仕込みがあるのでまだ忙しそうにしているのにも関わらずだ。

 時計を見ると十時半を回った所だ。ここから家までの距離を考えると確かにもう帰った方が良いかもしれない。まだ忙しく片付けと明日の仕込みをしている藪原さんには申し訳ないと思いつつ、制服に着替えた。

 奥さんの朱美あけみさんは机を拭いたりした後、レジで締めの作業をしており、こちらも忙しそうだった。


「じゃあ、これで失礼します。お疲れさまでした」


 二人とも忙しそうだったので、声だけかけて帰ろうかと思ったが、朱美さんが自分の作業を中断して見送りに来てくれた。


「お疲れさまね。お母さんにもよろしく伝えておいて」


 おっとりした感じの朱美さんだが、これでなかなかしっかりしている。小さいお店と言え、ホールの仕切りを一人でしているのだ。それも当然だろう。そして当たり前と言えば当たり前だが藪原さんと凄く仲が良い。時折見える夫婦の仲の良さは僕が見ても羨ましいと思えるほどだ。


「お疲れさまでした。それじゃあ僕は帰ります」


 僕は藪原さん夫妻に帰りの挨拶をすると、「お疲れさま。また頼むよ」と仕込みをしている藪原さんから声が掛かった。

 忙しい中でも見送りに来た朱美さんに手を振ると僕は自転車を漕いで家に向かう。学校から店に来るまでも寒かったが、この時間になると息を吸うだけで、冷たい空気が肺に刺り疲れよりも寒さの方が堪える。


 帰り道も半分を過ぎた頃、道の脇にある田んぼの奥の方から何やら金属がぶつかり合う音が聞こえてきた。この時期はもう稲の借り入れも終わっているし、こんな時間に作業をしている人なんていないはずだ。

 不思議に思い、自転車を止めて音のした方を見るが、田んぼには街灯などの光源がなく、いつの間にか広がっていた雲が月を隠している状態ではいくら目を凝らした所で何も見えなかった。

 冷たい風が突風のように吹くと月に掛かっていた雲が押し出されるように移動し、月明かりが田んぼを照らし出す。僕の不安を現したような心許ない月光は田んぼに居る人を微かに映し出す。

 田んぼには二人の人物がいた。一人は剣のような物を振るい、もう一人は板のような物を振り回していた。その様子は酔っ払い同士の喧嘩とは一線を画しており、僕の目には明らかに殺し合っているように見えた。

 武器を持って争いをしているなら警察に連絡するのが正しい行動なのだろうが、僕の手は石化してしまったように動く事はなかった。少しでも動けば、どちらか一方、いや、両方が僕に標的を変えるかもしれないと言う恐怖があったからだ。


――逃げろ。


 心の声が警告を発してくる。逃げろと。ここに居ては駄目だと。だが僕の体はすぐには動かない。恐怖が全身に回った僕の体は指一本動かす事ができないのだ。

 田んぼの中に火花が飛び散る。薄暗い中、一瞬だけ太陽を照らしたような光が辺りを照らしすぐに消えて行く。その時、二人の戦いが止まり、剣を持った人物が僕の方に顔を向けた。薄暗くても分かる鋭い視線は僕の体に恐怖を植え付けるには十分だった。

 極限にまで達した恐怖のおかげで僕の体は動くようになった。僕は何も考えず、自転車に跨ると遮二無二ペダルを漕ぐ。やばい。やばい。やばい。あれはやばい。何がやばいのか正確には言う事はできないが、とにかく逃げないとやばいと感じた。

 何があろうとも止まらないように逃げる。信号も赤だったら青になるのを待つのではなく、進める方に進んだので、もしかしたら同じところをグルグル回っていたかもしれないが、とにかく止まる事だけはしなかった。


「ハァ、ハァ、ハァ、ここまでくれば……大丈夫だろう」


 体力の続く限り自転車を漕いだ僕は辺りを見回すと、田んぼの風景から一転して高いビルが建っており、人通りの多さからどうやら本町の方に戻ってきてしまったようだ。

 藪原さんのお店がある方なので、家とは反対の方に逃げて来てしまったようだ。それでもさっきの場所から逃げきれた事に自転車にもたれかかりながら乱れた息を整えるように大きく息を吐く。


「逃がさない」


 後ろから声がしたと思ったら、背中に強い痛みが走り、僕は自転車から投げ出されてしまった。道路に叩きつけられた僕は何が起こったのか理解できず、体の痛みを堪えて周りを見るが近くには誰も居なかった。

 おかしい。いくら疲れていると言っても急に背中に痛みが走ったり、自転車から投げ出されてたりはしない。背中に残る痛みの横を冷たい汗が流れているのを感じる。

 コツコツと乾いた足音が響き、闇の中から僕を蹴り飛ばしたであろう人物が姿を現した。その人物は右手に剣なような物を持って――いなかった。持ってはいなかったのだが、代わりに腕が剣になっていた。

 はっ!? 右腕が剣になってる? 義手かと思える右腕は肘の当たりから剣になっており、今にも地面に付きそうなほどの長さで、街灯の光を浴びて怪しく光っていた。

 姿を現した人物は女性で、黒のボディコンスーツの上から腕を捲った白いコートを羽織り、膝上まであるロングブーツが特徴的だった。見た目は優しそうな感じの女性なのだが、右腕の剣がすべてを台無しにしていた。

 女性は無言で僕の目の前まで来ると右腕を振り上げる。剣と一体となっている右腕は剣を振り上げるのと同義だ。蛇に睨まれた蛙のように動けなくなっていた僕だが、自転車で走り回って本町に来たのが幸いした。


「おい、何だあの女性は? 何か変じゃないか?」


 僕の家の周りではそうはいかないだろうが、本町はこの時間でもまだ人通りはあり、その中の一人が女性を見て声を上げた。いつの間にか僕の周りには人が集まってきており、その数は徐々に増えて行っている。


「チッ!」


 人が集まって注目を集めた事で、女性は舌打ちをする。振り上げた右腕を僕に振り下ろす事なく地面を蹴るとその場から飛び退いた。一瞬姿を見失ってしまったが、僅かに音のした方を見るとビルを登って行く姿が見えた。

 階段を使って……なんて物ではなく、垂直の壁を蹴って二十階ほどあるビルを登っているのだ。次々と目の前で起こる不思議な光景に僕は唖然としてしまった。


「君! 大丈夫か?」


 先ほど声を上げた人だろうか。サラリーマン風の男性が近くに寄ってきて僕の安否を気にかけてくれる。あまりの恐怖に動けなくなっていた僕は「大丈夫です」と男性に応答するとすぐに自転車に飛び乗った。

 警察とかに連絡をした方が良いのだろうが、僕にはそんな余裕はなく、とにかく早くこの場を離れたかった。サラリーマンの男性にお礼を言う事もなく僕はその場から離れる。

 怖い、怖い、怖い。幽霊なんて目じゃない。得体のしれない人の形をした何かに襲われたのだ。恐怖に振るえる体だが、何とか足だけは動いてくれた。


 それからは夢中だった。早く家に帰らなければと言う事だけが僕の頭にあり、信号をちゃんと守っていたのかさえ覚えていない。

 必死に自転車を漕いだ僕は家に辿り着くと自転車置き場に自転車を置いて、すぐに家の鍵を閉めた。玄関の扉を背にもたれかかると安心と疲れでその場に座り込んでしまった。

 さっきのは一体何だったんだ。今でも心臓の鼓動が収まっていない。重い腰を上げて台所に行くとコップに水を入れて一気に呷る。何かしないと落ち着かないのでプラスチックの容器に入った生姜焼きを冷蔵庫に仕舞い、お風呂にお湯をためる。

 お湯をためている間、居間でこたつに入っている僕の体は震えが止まっていなかった。それは寒さからではなく、当然、先ほど襲われた事に起因している。

 居間にある時計の秒針が進む音だけが部屋に響く。ただただ無為な時間だけが過ぎ、やっと震えが収まりかけた頃、僕はお風呂にお湯をためていたのを思い出した。

 急いでお風呂場に行ったのだが、お湯は湯船からあふれており、震えが止まるまでに相当の時間を要したのが分かる。


「何だったんだ……、あの女性は……」


 湯船に浸かりながら無意識に出た声はお風呂場にこだました。肩まで浸かって上から落ちてくる水滴を眺めている僕の頭に先ほどの光景がフラッシュバックのように蘇ってきた。

 そう言えば最近、本町の方で殺人事件が起きたと言うニュースが流れていたが、もしかしたらその犯人があの女性だったのではないだろうか。

 そうだったとして僕はどうすればよかったのだろう。警察に行ったとして、どこの誰が、右腕が剣になっている人が犯人ですと言って信じてくれるだろうか。僕の頭がおかしいと思われ、精神科を紹介されそうだ。

 分からないものを考えても仕方がない。脳裏に浮かぶ光景を振り払い、お風呂を出た僕は寝る事で忘れてしまおうと思い、自分の部屋に戻る。

 ベッドに入ったがなかなか寝付く事ができず、何度も寝返りを打った。風が窓を叩く音がするだけでも起きてしまうほどだったが、何とか眠る事に成功した。


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