始まりの一日目-3


 不運な事は三つ。一つは急に風が吹いてしまった事。二つはお弁当箱を持っていたため手がふさがっていた事。そして三つめは僕が下で降りるのを待っていた事だ。

 針生が「待って」なんて声を掛けなければこんな事は起こらなかったのだが、運がなかったと思い諦めて欲しい。だが、そんな僕の願いは虚しく、針生は物凄い笑顔で僕の目の前まで歩いてきた。笑顔なのが怖い。


「見たわね?」


「見てない」


「正直に言えば怒らないわよ?」


「本当に見てないです」


 見たと言ってしまえばどんな仕打ちが待っているか分からない。この場から逃げようにも目の前に針生が立っていて屋上への出入り口を塞いでしまっている。なら僕にできる事は白を切り通し続ける事だけだ。


「釆原君。私思うの。男の子ってどうしようもなくエッチなんだって。だから不可抗力だからと言って釆原君が私の下着を見てしまったとしてもそれは仕方がないと思うの」


 おや? 針生の様子がおかしい。もっと詰問するように言ってくるのかと思ったが、どこか理解のあるような事を言ってきている。もしかしてさっきのは針生の運がなかっただけで誰のせいでもないと気付いたんじゃなかろうか。


「下着なんて服と一緒の素材なんだから服を見られるのと下着を見られるのは変わらないと思わない?」


 確かに。下着と上着で素材の違いなんてほとんどない。それじゃあ違いは何かと言えば下着の上に着ているのもか、上着の下に着ているのかの違いしかないのではないか? だとしたら下着を見た所で罪悪感を抱いている僕がおかしいんじゃないだろうか。


「そうでしょ? 下着を見たからって口をつぐむなんておかしいわよ。だから素直に言って。私の下着――何色だった?」


「薄い水色……かな?」


 そう。針生は薄い水色のパンティーを履いていた。砂漠で見つけたオアシスのように何もない所に急に現れたパンティーの水色は僕の瞼に鮮明に焼き付いている。


「パ――――ン!!」


 そんな僕の記憶ごと消してしまうかのような強烈なビンタが飛んできた。頭が揺さぶられ、足元がおぼつかなくなるが、何とか倒れることなく踏ん張る事ができた。


「上着と下着が同じなんて事ある訳ないでしょ!! 最初から見られて良い物と見られちゃダメな物は違うのよ!!」


 なんという誘導尋問。これはあれか? 授業で答えが分からないのに先生に指名され、隣の友達に答えを教えてもらったら全く違った答えだった。その時と同じ感じがする。

 それにしても正直に言ったんだから叩く事はないじゃないか。今でも叩かれた頬がジンジンしており、なかなか痛みが引いてくれない。


「何を言っているの? 私の下着を見たんだからこれぐらい当然でしょ。これでもまだ足りないぐらいよ」


 えっ!? ビンタされたのにまだ足りないの? 僕は見たんじゃなくて見えてしまっただけなのに。一体パンツを見た対価はどれほど大きいんだ。錬金術師だって等価交換なのに。


「等価交換だからこそビンタだけでは足りないって言っているのよ。そうね、足りない分は私と友達になる事で許してあげる」


 は? 友達? そんな事で良いのか。それぐらいなら――いや、待て待て。学校でも人気のある針生と僕が友達って事になったら学校中で噂になってしまう。時に噂と言うのは尾ひれがついてしまう物だ。

 女子生徒にも人気の針生が僕と友達になったと言う話から変な虫が付いたに変化してもおかしくない。それで虫である僕の方が駆除されてしまう可能性もあり得る。


「もし嫌だと言ったら私の下着を見た事言いふらすわよ。女子生徒は勿論、先生や他の学校の生徒にも」


 それは困る。と言うか他の学校の生徒にまで言いふらすってどこまで広める気だ。そんな事されてしまえば僕は学校に居られなくなってしまうではないか。それで済めば良い方で下手をするとこの街にも居場所がなくなってしまう。

 そうなってしまっては母さんにも迷惑をかけてしまう。僕は普通に生きて居たいだけなのにどうしてこんな……。


「別に悩む所じゃないでしょ。普通に友達になるだけよ」


 そりゃあ針生からしてみれば一人の男子生徒と友達になるぐらいなんでもない事かも知れないが、僕からしてみると針生と友達となるのは非常にハードルが高いのだ。

 何とかしなければいけない。今まで生きて来て一番と言っても良いほど頭を回転させると、僕の頭に一つの案が浮かんだ。針生が友達になりたいのなら友達になってあげれば良いじゃないか。ただし、もう会わないだけだ。

 これならば嫌と言う事もなく、下着を見た事を言いふらされる事もない。なんて良い案だ。自分で自分を褒めてやりたい。


「それじゃあ決まりね。今日からは私たちは友達よ」


 そう言うと針生は僕の方に手を伸ばしてきた。もしかしたらお手をしろと言うのか? 針生の言う友達と言うのは犬や猫のような愛玩動物のように振舞うって事なのか。僕は溢れる涙を抑えて針生の手の上に自分の手を置く。


「ちょ、ちょっと! なんでいきなり手を握るのよ! 心の準備ができてないじゃない!」


 あれ? お手をしろと言う訳ではなかったのか? 僕が手を置いた瞬間に針生が手を引っ込めてしまったので、僕の手は宙に浮いたままの状態になってしまった。


「なんで私が釆原君にお手を要求するのよ。私が言ってるのはスマホを出しなさいって事よ。持ってるんでしょ? ス・マ・ホ」


 何だスマホか。紛らわしい。それならそうと早く言ってくれれば、僕だってこんな屈辱にまみれた行動をしなくても済んだのに。

 僕はポケットからスマホを取り出すが、針生に渡すを躊躇ってしまう。僕はスマホをほとんど使っておらず、電話帳には家の電話と母さんのスマホ、それにバイト先の三つしか登録していないのだ。ちなみに蛯谷の番号は登録していない。

 これでは友達が全然いないぼっちな人間だと思われてしまうかもしれない。だが、針生は僕が取り出したスマホを強奪すると勝手に操作をし始めた。僕では考えられないような素早さで操作をすると、すぐにスマホを僕に返してきた。


「はい、終了。メッセージアプリに私の番号登録しておいたからいつでも連絡してちょうだい」


 ぼっちな事を触れられなかったのは良かったが、えっ? この短時間の内に僕のスマホを操作してアプリのインストールやら設定やらをやってしまったのか? 僕は返してもらったスマホと針生の顔を交互に見る。


「それぐらいの操作は誰でもできるわよ。別に驚く事でもないでしょ」


 いや、操作はそうかもしれないけどその早さに驚いたのだ。しかしこれは困った。金輪際会わなければ良いと思っていたのに、こんなアプリを入れられてしまったら連絡がついてしまうではないか。


「ちなみにアプリを勝手に削除したりとか、私の番号消したりとかしたら下着を見られた事を街で言いふらして、そのまま警察に行って被害届出すから」


 バレないようにアプリを削除しようとしていた僕の指がピタリと止まった。クソッ! 先手を打たれた。これでは削除できないではないか。

 それにしてもさっきより対応が厳しくなっていないか? なんで偶然下着を見てしまっただけで僕が捕まるかもしれなくなるんだ? こんな理不尽な事はないぞ。


「私のIDを消すなんてそれぐらい罰当たりだって言う事よ。それにありがたいと思いなさい。私のIDを知っているなんてこの学校で数えるほどしか居ないんだから」


 何だ針生も僕と同じで友達が少ないのか。そうならそうと言ってくれれば良いのに。同じぼっち同士だと思うと少し針生に親近感がわいてきた。


「誰が友達が少ないのよ! 同じ学校だと変にグループになっちゃうから教えてないだけで他の学校とかには一杯いるわよ!」


 顔を赤らめて一生懸命友達が一杯いる事をアピールしてくる針生は少しかわいかった。それにしてもこのIDはどうするかな。僕からしてみれば有難迷惑以外何物でもないのだが削除する事もできないし。

 暫くスマホを眺めてどうするか悩んでいると、針生は屋上の出入り口に向かって歩いていく。どうやら満足して教室に戻るようだ。


「そうだ。釆原君の下の名前って何て言うの?」


 足を止めた針生が唐突に僕の名前を聞いてくる。そう言えば針生とはちゃんと会話をしたのはこれが初めてなのだが、どうして僕の名字を知っていたのだろう。

 まあ、下の名前なら名簿とかを調べれば分かってしまう事なので特に隠す必要はないか。


つむぐ……だけど……」


 隠す必要はないが、積極的に教えたいと思うものではないので小さな声になってしまった。それでも針生にはちゃんと聞こえていたようだ。


「紡か。良い名前ね。私は針生。針生綾那。綾那って呼んでも良いわよ。じゃあ、また明日ここでお弁当を食べましょう。逃げたら許さないからね」


 振り向いた針生が僕を指さしてくる。ウェーブの髪が遅れて付いて行き、現れた針生の顔は今日の仕事が終わったと言う感じの笑顔を浮かべていた。

 えっ!? 明日も? 明日もまたこんな落ち付かない昼食をとる事になるのか。休んでしまえともう一人の僕が囁いてくる。その意見は非常によくわかるのだが、針生は肉食獣だ。逃げれば逃げるだけ僕を追い込んでくるに違いない。本当に病気になったなら仕方がないが、それ以外で休むのは考えない方が良いだろう。

 もう十分なのか針生は再び屋上の出入り口に向かって歩いて行く。後ろ手にスカートを抑えながら。


 休んでいたら急に台風が来て数分で過ぎ去ってしまったかのような疲労感だけが残っている。一体針生の目的は何なのだろうか。僕みたいな男と友達になった所で得られるものなど何もないと思うのだが。

 針生の出て行った扉を見ながら考えていると僕の手の中にあったスマホが震えた。着信があるとこんな感じで震えるのかと感心しながら画面を見ると早速、針生からメッセージが来ている。


『ハンバーグ美味しかったわ。明日も楽しみにしているからね』


 どうやら針生は本気で明日もここでお弁当を食べるようだ。他の男子なら針生とメッセージ交換の上に一緒にお弁当を食べられるなんて天にも昇る気分なのだろうが、生憎、僕はそんな気持ちにはなれない。変な噂が広がる事がないように祈るのみだ。

 僕も針生の後に続いて屋上を後にしようとしたのだが、ゆっくりお弁当を食べられなかった事もあり急速に午後の授業を受ける気力がなくなってきた。これはもうサボるしかないな。

 強い風はたまにまだ吹いているが、塔屋を風除けにする事で寒さはしのげる。風さえ遮ってしまえば、天気の良い日の屋上は十分寝る事はできるのだ。

 一旦、屋上から出て使われていないロッカーに隠してあった段ボールを絨毯代わりに敷くと僕はその上に寝転がった。風が来ないだけで体感温度は全然違い、澄んだ空に薄くかかる雲がさっきまであった事を忘れさせ、僕をまどろみの中に引き込んでいく。


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