始まりの一日目-2


 何事もなく三時限目まで授業を受けると、次は体育の授業だ。今日の体育は前回と同じで剣道をやる予定になっている。お城のような校舎なのだが、剣道とか茶道とか日本的な事も授業に取り入れられているのだ。


「こんなメルヘンな学校の授業で剣道は笑えるな。どうせだったらフェンシングだよな。それにしてもなんで女子と同じ内容じゃないんだろうな。女性の袴姿なんて最高なのに」


 剣道着に着替えながら蛯谷がフェンシングの剣を突き出すようなジェスチャーをしている。女性の体育はバスケットボールなのだが、剣道の授業をする時は今の僕たちと同じように剣道着に着替えるので蛯谷はその事を言っているのだろう。

 女性の剣道着姿なんてどこが良いのか僕には分からない。剣道着姿なんて紺一色だし、動きずらいし興奮する所なんてないじゃないか。


「おいおい、釆原うねはらさんよ。頭は大丈夫か? 剣道着だぜ? 袴姿だぜ? そんな姿を日常的に見る事なんてないだろ? 普段、制服を着ている女性がこの一時間だけ袴姿に着替える。そこがそそられるんだよ!」


 力説する蛯谷だが、僕は知っている。彼は先週、チアガール姿が良いと言っていた事を。和服姿とミニスカート姿、全く方向性が違うじゃないか。


「方向性? 何だそれは? お前は和食の後に洋食を食べる事はないのか? それと同じだよ。先週はチアガールでも今週は袴姿なんだ。そして来週はメイド姿かもしれない」


 蛯谷の事は放っておこう。これ以上付き合っていては授業に遅れてしまう。僕は急いで着替えを済ませると武道場に走って行った。


「今日の相手は釆原か。手加減してやるから安心しろ」


 今日の県道の相手は塩道しおみちのようだ。発言からも分かるように僕は塩道に今まで一度も勝てた事がない。それも当然で塩道は剣道部の主将をやっているほどの実力者だからだ。

 しかも、その端正なマスクは女子生徒に人気で、男子生徒に人気があるのが針生だとすると女子生徒に人気があるのは塩道だ。その笑顔は女子生徒の心を鷲掴みにしているらしい。

 剣道部の主将として手加減してくれるのは塩道の優しさなのだろうが、手加減をしてくれた所で僕は今まで一度も塩道から一本を取った事はない。それほど運動に力を入れていない学校だが、素人の僕と剣道部の主将では実力差がはっきりしており、一本どころか塩道の攻撃を避けた記憶もほとんどなかった。


「そう警戒するなよ。ちゃんと手を抜いてやるって言ってるだろ。真剣にやれば一本とれるかもしれないぞ」


 蹲踞そんきょの姿勢から立ち上がると、お互い声を出すことで気持ちを盛り上げる。


「ぅるぁぁあああああああ!!」


 最初はこの声を出すのも恥ずかしかったのだが、何度かやると慣れてしまうし、大きな声を出す事で気合も入る。だが、そこは一日の長がある剣道部の主将。僕の出した声の数倍上をいく大きな声で返してくる。


「っしぇぇえええええいいい!!」


 武道場に響く塩道の声は他の生徒の動きを止めるほどだった。正面にいる僕の体にもビリビリと気合が伝わってくる。

 あまりの迫力に逃げ出したくなる心を押しとどめ、精神を集中させ、塩道に竹刀を振り下ろす。素人が故、大きくなるモーションを簡単に見切り僕の竹刀を弾き返すと、鋭く踏み込んで面を打ちに来た。

 面を着けているため狭くなった視界に塩道の姿が写り込む。振り下ろされた竹刀は風斬り音を伴って確実に僕の面に迫り、心地良い音を響かせるはず――だった。


「マジか!?」


 僕が面を避けた事で塩道は驚愕の声を上げる。その声に反応した生徒が僕たちの方に視線を向けてくるが、何より塩道の攻撃を避けた僕自身が驚いている。必殺と言って良いほどのタイミングの攻撃を避けたのだ。驚くのも当然だろう。

 周りにいた生徒たちも自分たちの戦いを止め「おぉー!」と称賛の声を上げる。それほどまで塩道の攻撃を避けたのは周りの生徒たち取っても驚きなのだ。


「今の攻撃を避けるなんて凄いな。今まで気付かなかったけど、それほどの腕があるなら剣道部に入らないか? お前が入ってくれれば結構いい所まで行きそうな気がするんだ」


 これが試合であったなら塩道は続けて攻撃をしてくるのだろうが、所詮は学校の授業。今後の事より僕をスカウトする事を塩道は優先してきた。

 蛯谷だったら調子に乗って剣道部に入部しまうのだろうが、僕は違う。たまたま避けただけの一回きりの行動で調子に乗ったりはしない。


「入部なんてとんでもない、たまたまだよ。それにもっと手加減しろよ。こっちは素人だぞ」


 それから四分間、塩道の僕を見極めるような攻撃を躱し何とか一本も取られず終える事ができた。もちろん僕の方からの攻撃は一度も当たるどころか掠りもしなかったが。


「釆原、今日はどうしたんだ? 最後は本気になったんだけど一本取れなかったぞ」


 素人相手に本気になるなと言いたい。道理で今まで攻撃よりも鋭いと感じたはずだ。まあ、今日はたまたま僕の調子が良く、塩道の調子が悪かっただけだろう。明日同じ事をやれと言われてもできる自信がない。

 授業が終わって武道場を出ると、右腕にあざを作った蛯谷が寄ってきた。どうやら小手を思いっきり打たれたようだ。


「くそぉ。頭脳派の俺には剣道なんて無理なんだよ」


 蛯谷が頭脳派だと思っているのはこの学校の中で誰も居ないだろう。なぜなら勉強の方は僕とほとんど成績が変わらず、下から数えた方が早いぐらいだから。


「はん! 学校の勉強の事じゃねえよ。微分積分が分からなくても生活には困らないし、古文が分からなくても日本語は通じてるしな。俺が言ってるのは生きるための勉強の事だよ」


 生きる上でも頭脳派とは言えないだろ。頭脳派だったら女性に告白するのに色々考えるだろうが蛯谷は猪突猛進に突っ込んで玉砕するだけだ。

 自分が頭脳派だと言う事をアピールしてくる蛯谷を放っておいて僕は素早く着替えを終える。体育の後は昼食だ。学校において一番と言って良いほどの楽しみの時間がやって来たのだ。


「ちょっと待てよ! 今着替えるから。釆原も学食行かないか?」


 慌てて着替え終わった蛯谷が僕を誘ってくるが丁重にお断りする。別に一緒に食事したくないと言う事ではなく、僕にはお弁当があるのだ。


「お前もマメだよな。お弁当を作ってくるなんて俺には到底できん」


 蛯谷を始め昼食は学食を利用する生徒が殆どで、お弁当を持って来る生徒は居ない訳ではないが意外と少ない。僕はお弁当を手に持って教室を出ると、いつも食べている場所に足を向ける。教室で食べても良いのだが、天気の良い日はなるべく外に出て食べるようにしているのだ。

 階段を登って辿り着いた所は屋上に出入りできる扉の前だ。屋上は一般生徒が立ち入り禁止になっており、誰も来る事がないので落ち着いてお弁当が食べられるのが気に入っている。

 扉には鍵がかかっているのだが、ここの鍵は半分壊れている。僕はおもむろに回転式ボルトロックの所を蹴り飛ばすと「ガチャッ」と音がして開錠された。ここのロックは下から蹴り上げると簡単に開いてしまうのだ。無事に屋上に出る事ができた僕は塔屋に付いている梯子を上り、定位置となっている景色の良く見える場所に座って食事を取り始めた。

 お昼になり、時折強い風が吹くが、相変わらずの快晴で、朝出ていた霧もこの時間には綺麗さっぱり消えていた。学校の屋上から見える景色は山の上と言う事もあり遮るものが何もなく眼下に広がる街並みはお弁当のおかずとしても最高だった。


「貴方何をしているの! そこは私の場所よ!」


 気分よくお弁当を食べている僕に下から不意に声が掛かった。昼時には先生も来ないので声の主は生徒だろう。僕が下を見ると、そこには一人の女生徒が腰に手を当てて、こちらを指さしていた。

 当然ながら月星高校の学生服を着た女子生徒で、時折吹く風が黒曜石のような黒く艶のある髪を揺らしている。僕はその女性の名前を知っていた。なぜなら蛯谷が入学早々告白して見事に撃墜した相手が下にいる女性だったからだ。

 どうして品行方正で先生からの覚えも良い優等生の針生が立ち入り禁止の屋上にいるのだろう。固まってしまった僕を尻目に針生は梯子をよじ登って僕の所までやってきた。


「どうしたの? 固まっちゃって。そこは私の場所なんだから隣によけなさいよ」


 これだけ場所が空いているのだからどこでも好きな場所に座れば良いと思うのだが、針生はわざわざ僕の座っている所をお尻を使って押しのけると、今まで僕が座っていた場所を奪ってしまった。とても優等生のする事とは思えないが、針生はそんな事を気にする様子もない。


「優等生なんて他人が言っているだけで私はそんな事一度も思った事ないわ。そう言いたい人には勝手に言わせておけばいいのよ」


 確かに今の針生の行動を見れば、その意見には賛同できる。一見すればお嬢様のような雰囲気を感じる針生だが、実際は結構、活発な性格なのかもしれない。


「そうね。仲の良い友達なら知っているけど、大人しいなんて事はないわね。そんな事よりお弁当のおかずはハンバーグなの? なかなか美味しそうじゃない」


 話している途中に僕のお弁当が目に入ったのだろう。針生はハンバーグを見ると箸を伸ばして強奪してった。

 会話に気を取られていた僕は虚を突かれた形になり、その素早い行動に対応できなかった。なすすべもなく奪われたハンバーグはすでに針生の口の中で短い生涯を閉じていた。

 やはり針生はお嬢様ではなかった。人のお弁当を強奪するようなお嬢様が居てたまるか。立ち入り禁止の屋上にいるだけでもアウトなのに、人のハンバーグを奪うなんて許されるものではない。


「美味しい! 蓮根の歯ごたえが良いアクセントになってるわね。こんな美味しい物食べられるなんて母親に感謝しなさいよ」


 口の中にハンバーグが入っている状態で口を隠しながら針生が褒めてくれるが、そのハンバーグは母さんが作った物ではなく、僕が作った物だ。わざわざ言わないけど。


「やっぱりここからの景色は最高よね。山の頂上だから遮るものが何もなくって気持ち良いわ」


 ハンバーグを咀嚼し終えた針生が自分のお弁当を広げながら景色を堪能している。確かにここからの景色は気持ちいいが、ハンバーグを強奪した事を一言言っておかなければ気持ちが収まらない。

 僕が文句を言うために、口を広げた瞬間。針生は僕の口の中に何かを突っ込んできた。急に口の中に何か入ってきた事で驚いてしまった僕は、思わず中に入った物を咀嚼しまった。

 柔らかい感触の物は噛み進めると甘さの他に出汁の風味が口の中に広がってくる。どうやら僕が口の中に入れられたのは玉子焼きのようだ。


「どう? 美味しいでしょ。私のお手製の玉子焼きを食べられるなんて感謝しなさい」


 針生が自慢するだけの事はある。この玉子焼きならお店で出しても十分通用する。だが、僕は思う。ハンバーグと玉子焼きでは釣り合いが取れていないのではないかと。


「男の癖に案外細かいわね。大きさが同じぐらいだからイーブンよイーブン」


 確かにハンバーグは一口大の大きさだから玉子焼きと同じぐらいの大きさだが、その考えは些か大雑把すぎやしないか? その理論が成り立つなら僕がここで針生のお弁当のミートボールとトマトを交換しても文句はないと言う事になる。だが、そんな事をすれば絶対に針生は怒るだろう。

 納得がいかないが、針生は僕の不満など関係ないと言った素振りでお弁当を食べ進めている。その時、針生が座っている方から強い横風が吹いた。流石に屋上に吹く風は冷たく、針生が壁になっていてもその風の冷たさに体の芯まで冷える感じがする。


「何よこの場所。私に風が思いっきり当たるじゃない」


 自分が勝手に奪い取った場所に文句を言いつつ針生は立ち上がると僕の反対側に来てまたしても腰で僕を押しのける。僕が風上になった訳だが、そこは僕は最初にお弁当を食べていた位置だった。風が当たったからと言って僕を壁にされたら、今度は僕が寒いじゃないか。


「それがどうしたの? 私は肉盾ができて快適よ。小さい頃に言われなかった? 男の子は女の子を大事にしなさいって」


 確かに小さい頃は良く言われたが、それは僕が肉盾になると言う事ではないと思う。これ以上、針生に付き合っていては折角ゆっくりできると思った休憩時間がなくなってしまう。僕は残りのお弁当を一気に口の中に入れてすべてを食べ終わると、弁当箱を持って梯子を下りた。


「ちょっと待ってよ。私も、私も食事終わるから」


 僕が降りてしまった事で針生も慌ててお弁当を掻き込む。針生がリスのように頬を膨らませて口一杯に食べ物を詰め込む姿は、針生に憧れている生徒が見れば幻滅してしまうのではないだろうか。


「ふぉんなふぉとはほうでみょひひのよ」


 多分、『そんな事はどうでも良いのよ』と言っているのだろう。母さんみたいに口に食べ物が入っている状態で話しているので正確には分からないが。

 口の中に入っている物を咀嚼しながら急いでお弁当を仕舞った針生は梯子を使って塔屋を降りてくる。お弁当を持っているため梯子を掴む体制が非常に危うい。そして、こういう時に限って偶然と言うか奇跡は起きる物だ。


「――ッ!!」


 梯子を掴んでいるため何の抵抗もできない針生に先ほどから吹いていた風が突風となって襲い掛かった。その風は真横からの風ではなく、麓の方から頂上に向かってくる吹上の風だった。

 月星高校の女生徒の特徴であるチェックの入った短いスカートが風に煽られ、針生は無防備な下半身を僕にさらしたのだった。


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