第一章

始まりの一日目-1


 幽霊が居ないと思い始めたのは中学生になって少し経った頃だった。

 心霊写真を紹介する番組で映し出された写真にはそう思ってみれば人の顔だったり、動物の姿だったりが映っていた。霊能者の人曰く、その写真は昔、戦場になっていた時に死んだ武士や人間に虐待されて死んでしまったペットが写り込んだと言う事らしい。

 その当時の僕はまだ霊の存在を信じていたため、怖いなぁと思って見ていたのだが、ふとある事が気になった。戦国時代に死んだ人は写真に写った人だけでなく何千、何万といるはずだ。人間に虐待されたペットだってそれこそ石器時代から数えればかなりの数いるはずだ。だが、写真に写っているのは武士が一人だけ、ペットが一匹だけの写真だ。おかしくないか? 死んだ人同士で集まって映れとまでは言わないけど、一人だけってあまりにも人口(霊口?)密度が低すぎる。

 それ以来、僕は霊の存在を信じなくなった。だから今日の夜に部屋で何か音が鳴っても気のせいと思って眠り続けたし、今も耳に聞こえてくるのは決して目覚ましの音ではなく……、目覚ましの音では……、目覚ましの音だ。

 慌ててベッドから起き上がったが、二月の朝はそのまま起きるには寒すぎた。一瞬にして奪われた体温を回復させるため僕は再びベッドに潜り込んだ。


 あぁ、気持ち良い。サウナに入っていて我慢できずに冷水に入り、再びサウナに戻った感じだ。このままもう五分だけ……と思ったが、ここで寝てしまって学校に間に合った試しがない。僕は断腸の思いでベッドから出る。

 ベッドから出た僕の体は再び一気に体温を失い、予想通りの寒さに一気に目が覚めてしまった。震える体を摩りながら部屋を出て、一階の居間へと向かう。

 居間にはエアコンもファンヒーターもこたつもあり、その全てのスイッチを入れるが、どれも温まるまでに時間が掛かるので、その間にも僕の体温はどんどん奪われて行く。

 今年は暖冬と言う事で一月までは比較的暖かかったのだが、二月に入った途端、冷凍庫に閉じ込められたかのような寒さに襲われた。これが本来の寒さだと言えばそうなのだが、暖かい日が続いた分、今の寒さが堪える。


「ただいまー。お母さんが帰ってきましたよー」


 何とか部屋が温まり始めた所で母さんが元気に扉を開けて入ってきた。せっかく温まり始めた空気が出て行ってしまうので早く扉を閉めて欲しいのだが、母さんは扉を閉めることなく僕に抱き着いてきた。


つむぐちゃん。今日はちゃんと起きられたんだね。お母さんは嬉しいよ」


 外で氷でも抱いてきたのかと思えるほど冷えた頬を僕の顔に擦り付ける母さんは、子猫が親猫に甘えるように何度も頬を擦り付けてくる。父さんがいない僕の家では母さんが夜の仕事に就いており、大体これぐらいの時間に帰ってくる。

 見た目と服装は結構若いように見えるが、それでも僕の母親だ。それなりに年齢を重ねており、最近は関節が痛いとたまに愚痴っている事がある。


「あら? 紡ちゃんは照れてるのかしら? もう、本当に可愛いんだから」


 何時までも頬を擦り付けてくる母さんに嫌気がさして体を離そうとしたのだが、母さんはがっしりと僕の体を掴んで離そうとしてくれない。こうなった母さんを引き離すのは大変だが、そこは親子だ。僕は母さんを引き離す魔法の言葉を知っている。


「このままだと、朝食を作る事なく学校に行かなきゃいけなくなるなぁ」


 その言葉に反応した母さんはその場に縫い留められたように動きを止める。どうやら魔法の言葉が効いたようだ。母さんは基本的に家事全般が苦手で食事は僕が作っている。僕が食事を作る時間がないと母さんはカップラーメンとかで過ごすしかなくなってしまうのだ。

 今のカップラーメンはかなり美味しいとは思うが、作り立ての料理とどちらが良いと言えば作り立ての料理の方を取るのは当然だろう。


「お母さんは邪魔しないわよ。ほら、もう手を離したから。それで? 今日の晩御飯はなーに?」


 両手を上げた体勢で僕の邪魔をしないのをアピールしてくる。やっと母さんから解放された僕は再び捕まらないように距離を取って立ち上がった。

 今日の母さんの晩御飯はハンバーグだ。昨日の夜に作って冷蔵庫に入れてあるからそれを温めれば完成だ。ちなみに僕の朝食はトーストにハムエッグと言う非常に簡単な物だ。

 手早く作り終えた母さんの夕食には、僕の朝食のために作った目玉焼きを一つ乗せておいた。このひと手間で美味しさは倍増するのだ。


「わぁー。ハンバーグだ。お母さんハンバーグ大好きよ」


 それは知っている。大好きと言うのは食べるのが好きで作るのが好きな訳ではない。昔、母さんが自分でハンバーグを作った時に塩と砂糖を間違えて非常に甘ったるいハンバーグが出て来た事があったのを思い出した。それ以来僕が料理を作る事になったのだが、それが小学校五年生の時だ。


「あれはお塩を入れている瓶が悪かったのよ。砂糖と同じ形をしていたら誰だって間違えるわ」


 頬を膨らませ、口を尖がらせる母さんだが、その瓶に砂糖と塩を入れたのはまぎれもない母さん自身だ。しかも瓶にはラベルまで張ってあるのだから注意深く見れば間違えるはずがないのに間違えるのは母さんが母さんたる所以だろう。


「相変わらず紡ちゃんのハンバーグは美味しいわね。この蓮根が入ってる所がまた良いのよね」


 肉を噛んでいる途中に不意に訪れる蓮根のシャクッとした歯ごたえがアクセントとなり、母さんはご飯を掻き込む箸が止まらなくなっている。

 食事を堪能している母さんには悪いのだが、僕はそろそろ学校に行く時間だ。自分の部屋に戻った僕は制服に着替えると、ダウンジャケットを上から羽織り、鞄を持って母さんの居る所まで戻ってきた。


「じゃあ、行ってきます。食器は水に漬けておいてくれよ」


「ふはーい。ひってらっはい。ひゃんと勉強ひてくるのよ」


 何となく言っている事は分かるのだが、ハンバーグを口の中に入れながら喋るのは止めて欲しい。残りのハンバーグを詰めたお弁当を持って家を出ると庭に置いてある自転車に乗り込む。

 冬らしい澄んだ空気が肺の中まで入ってきて、今まで家の中にいた事で温まった空気と入れ替わって行く。空を見上げると雲一つない晴天で、天気予報を見ていなくても今日は雨が降らないのが分かる。


 僕の通う月星高校は自宅から自転車でも一時間ぐらいかかる所にある。時間だけ見ればちょっと遠い高校と言う感じだが、実際の距離はそこまで離れていない。ではどこで時間が掛かるのかと言うと山登りに時間が掛かるのだ。

 月星高校はそこそこ高い山の頂上に建てられているため、僕は毎朝、自転車で山登りをしているのだ。

 そんな立地のため、僕以外の生徒は駅前から出ているシャトルバスを使って通学している。僕もシャトルバスで通えば良いのだが、駅前までが自転車で一時間ぐらいかかり、かえって時間が掛かってしまうのと、バスの中の雰囲気が合わないため自転車通学をしているのだ。

 立地が良いとは言えない月星高校は県内でも有名な進学校だ。シャトルバスの中ではほとんどの生徒が勉強をしており、僕はその雰囲気が堪らなく苦手なのだ。ちなみに進学校だからと言って僕の頭が良い訳ではなく、授業料他一切の経費が掛からないのが魅力で月星高校を受験してみたらたまたま合格してしまっただけだ。

 それが失敗だと分かったのは入学してからすぐだった。僕は学校の勉強に全然付いて行けず、出席日数を気にしながらサボりを入れるのが日課になっていた。


 自転車で三十分も走るとやっと学校の麓に到着した。山全体が学校の敷地になっているので、山の入り口には関係者以外立ち入り禁止の看板が立てられており、ここからは学校関係者しか入れないようになっている。

 麓から学校の方を見ると、上の方は霞んでおり、どうやら霧が掛かっているみたいだった。冬の時期にはよくある光景で、つい先日も霧の影響で何人かの生徒が授業に遅刻をしていた。通称、万年坂を前に僕は気合を入れるために頬を二度ほど叩く。

 山の中腹辺りに差し掛かった所で何かを踏んづけたようで、ハンドルを取られてしまった。踏んづけた物は草むらの方に弾き飛んでしまったのでしっかりとは分からないが多分、石でもあったのだろう。

 自転車を止めてしまった事で再び気合を入れて登り始めるかと思った時、急に体が重くなったような感じがした。おかしいと思いつつも自転車に体重を預けて暫し休憩を取る。


 『先が見える』


 自転車に体重を預けて下を向いていた時に声が聞こえてきた。僕は顔を上げて辺りを見渡すのだが、誰も居ない。こんな場所を歩いている生徒はいるはずもないのだ。

 空耳にしてはハッキリと聞こえてきた声だったが、木の枝が擦れる音がしたのだろうと自分を納得させる。何せ僕は霊と言う物を信じていないのだ。しかし、喉に小骨が刺さった時のようなチクチクとした違和感が心に残っている。

 何時までもここで休んでいると授業に遅れてしまうので、再びペダルに足を掛けて登り始めようとした時、今度は間違いなく声が聞こえてきた。


「へばってんなよー!」


 隣を通り過ぎるシャトルバスの中からクラスメートの蛯谷えびたにが僕に声を掛けてきたようだ。周りの生徒から早く窓を閉めろと言う冷たい視線を浴びながら。

 蛯谷は僕の数少ない友人の一人だ。何も僕がコミュ障と言う訳ではなく、共学の月星高校なのだが、男女比で言うと二対八で男性の数が圧倒的に少く、必然的に男性の友達が少ないのだ。ちなみに女性の友達はもっと少ないのだが。


「お前の事は忘れないからなー。生きて登って来いよー」


 蛯谷は僕に手を振りながらシャトルバスで行ってしまった。傍に居ると騒がしい奴だが、決して悪い奴な訳ではない。だが、女子生徒にはあまり評判はよろしくない。

 お調子者と言うか軽い性格の蛯谷は女子生徒の中でも人気のある針生 綾那はりゅう あやなと言う女性に告白をしたのを皮切りに月に一度は女性に告白をしているせいだ。


 一度僕は注意をした事があったが、


「折角女子が多いんだ当たって砕けろの精神で俺は行くぜ!」


 とイタリア人男性のような事を言っていたが、僕から見れば手当たり次第に告白して、誰か付き合ってくれればラッキーと言う感じで告白しているようにしか見えなかった。

 それは女子生徒の方も分かっているようで誰彼構わず告白する蛯谷の事を『ノッカー』の異名で呼んでいた。振られようが気にせず女性の扉をノックするようにアタックする事からこの呼び名が付いたらしい。




「おはよう。さっきは何をしていたんだ? あんな所で止まっているなんて珍しいな。」


 学校に着き、息もまだ乱れている僕に話しかけてきたのは、先ほどシャトルバスから声を掛けてきた蛯谷だ。どうやら僕が来るのを待っていたみたいだ。


「おはよう。ちょっと石を踏んづけたようでバランスを崩しちゃってな。そこで声が聞こえてきたんだけど蛯谷――の声じゃないよな。それにしてもバスの中から声を掛けるのは止めてくれ。女子生徒の視線が痛いぞ」


 上履きに履き替えた僕の隣について蛯谷は一緒に教室に向かって行く。


「あれぐらいの視線で痛がっていたらこの学校じゃあやっていけねぇよ。折角女子が多いんだ目立ってなんぼだぜ」


 はぁ、そうですか。折角の忠告だったが、蛯谷には必要なかったようだ。僕にまで被害さえ来なければこれ以上は言う事はない。

 月星高校が共学なのになぜ女性の方が多いのかと言うと、月星高校の校舎はヨーロッパの城のような形をしており、「お城の高校」と言う名で県外にもその名は知れ渡っており、女性からの人気が異常に高いからだ。

 僕なんかはどんな場所で勉強しても変わらないと思っているのだが、「あのお城みたいな所で勉強したい」と思う女性の多さが生徒の男女比率に現れている。


「それよりもサイトで面白い物を見つけたんだ。これを見て見ろよ」


 蛯谷が差し出したスマホにはパンツ占いと言うサイトが表示されていた。こういうくだらない物を探してくる能力は一流だ。せめて社会に役立つ能力なら蛯谷も、もう少し違った人生を送っていたのだろう。


「そう言うなよ。ここに自分の好きな女性のパンツを入力すると、理想の女性像が表示されるんだ」


 謎原理だ。どうして好きな女性のパンツを入力すると、理想の女性像が出てくるのかが分からない。というか好きな女性のパンツって何だ。男性のパンツではだめなのか?


「男のパンツなんて入れたって面白くないだろ。それに男なんだから好きな女性のパンツの一つや二つはあるだろ。俺は赤いTバックだな。紐を蝶々結びで止めるタイプがベストだ」


 友人の好きなパンツの情報など僕の人生においてこれほど無駄な知識はないだろうが、その内容をスマホに入力すると、結果が出たようだ。


「おぉ、俺の理想の女性は肌が綺麗な女性と出たぞ。肌の綺麗な女性か……。沢山いるな。一番肌が綺麗だと思ったのは鷹木たかぎさんかな」


 そのサイトは大丈夫なのか? 『肌の綺麗な女性』ってアバウトすぎるだろ。対象が多すぎるし、それは理想になるのか?


「良し! 決めた! 今月は鷹木さんに告白しよう! 元アイドルの鷹木さんなら申し分ない」


 蛯谷にとって申し分この上ないかもしれないが、鷹木にとっては迷惑この上ないだろう。ちなみに鷹木とは中学生のころからアイドル活動をしており、一年前ぐらいに学業に専念する為と言う事で活動を休止している女性だ。月星高校での人気が高いのはそうだが、他校からも人気のある女性だ。

 そんな鷹木に蛯谷がまだ告白していないのはびっくりだ。当然、入学してからすぐに告白したものだと思っていたが何か理由でもあるのだろうか。


「俺は美味しい物は最後の方に取って置くタイプだ」


 美味しい物を最後まで取って置くのは良いが、取って置いた物が蛯谷に美味しく頂かれるとは限らない。美味しい物にだって意思はあるのだ。


「俺の好きなパンツを聞いたんだからお前も教えろよ」


 一言も聞きたいなどと言って無いし、逆に聞かされたことで朝の爽やかな気分が完全に消えてしまったのだが、蛯谷がしつこく聞いてくるので、根負けをしてしまい好きなパンツを教える事にした。

 そうだな。やっぱり白が良いかな。清潔な感じがするし、高校生と言う事を考えてもあまり派手な奴よりはシンプルなのが良い。となると、パンツの前にちょこんと小さいリボンが付いているぐらいがベストか。

 僕の答えを聞くと蛯谷は早速スマホに入力していく。


「おぉ、お前の理想の女性は和服姿のポニーテールの女性らしいぞ」


 うん。この分かっていたけどサイトは外れだな。理想の女性と言いながら容姿の事しか回答してこない。それに白いパンツに小さいリボンなんて僕以外でも相当な人数が入力するはずなので、その人たちがすべて和服姿が好みとは限らないだろう。

 ふと、周りを見ると僕たちの事を奇異の目で遠くから見ている女生徒が沢山いる事に気付いた。それはそうだろう。朝からどんな女性のパンツが好きかを語り合っている男子生徒がいるのだ。

 これはもしかして蛯谷の罠ではないのだろうか。自分だけ女子生徒に嫌われるのが嫌で僕を巻き込もうとしているのか?


 これ以上は僕の評判にも関わるので、パンツの話はこれぐらいにして足早に教室に入る。教室ではほとんどの生徒が席について自習をしており、こういう所も流石進学校と言う感じがする。

 暫く蛯谷との会話に付き合った後、チャイムが鳴り、授業が始まった。


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