そうだ、海へいこう!
「ダンベルトさんっ!ここに魚がいます。見てくださいっ」
はしゃぐラルベルに先ほどから引っ張りまわされて少々くたびれ気味のダンベルト。
「ほら!かわいいですね~。あ、あの果物初めて見ます!見に行きましょ?ダンベルトさん」
「いや、ちょっと休憩をだな……。だからそんなに引っ張るなと!」
ラルベルは、海にきていた。
人生はじめての海。ちょっぴりべたつくしょっぱい潮の香りに、靴に入り込むさらさらとした白い砂。空にはたくさんの海鳥が、羽を広げて飛び回っている。
そして、海――。
こんなに大きくて広い青は、初めて見た。空だって青いけど、山の稜線や雲で切り取られている。海はずっとずっと向こうまでただただ、海だ。
こんな世界があるなんて、ラルベルははじめて知った。
海が近いのは知っていたけど、当然のことながらラルベルが知っているのはあの山と集落、一番近くの町。それだけだったのだ。
それが今ではこんなに遠くまで来た。
感慨深く大きく息を吸い込んで、海風で胸を満たす。
「ずいぶんと楽しそうだな。今まできたことがないって本当だったのか」
ダンベルトはここへくる道中、ラルベルが海をみたことがないと聞かされて驚いた。
あの町から港までは馬で半日ほどの距離ではあるが、馬車を使えば決して行けない距離ではないし、この王都周辺の町の者にとって海は大切な仕事場であり、身近なものだったから。
「まぁ、山奥の小さな村でしたからね。山を下りるのも結構大変なので、海なんてとてもとても。でもこんなに素敵だなんて思ってもいなかったです」
目を輝かせて、目の前に大きく広がる青い海を見つめるラルベル。
今日は、海猫亭のノールのおつかいで海へきていた。
特別な魚を仕入れてほしいとのお客様たっての希望の品をラルベルが受け取りに来たのだが、ダンベルトはそれに同行してくれたのだ。
その客は明日店を借り切って、特別な祝いの会を開くのだという。
ラルベルにとっては、ふってわいたような休日旅行である。
この町にきてからずっと働き詰めで休みらしい休みはなかったから、遠出するのはじめてだ。体力には自信があるし毎日楽しく働いているけれど、せっかく広い世界に出たのだ。たまにはお出かけしたいなと思っていた矢先のことだった。
ダンベルトは急な頼みにもかかわらず、ラルベルを乗せて馬でここまでかけてきてくれた。職業柄丈夫とはいえ、きっと疲れているだろうな、と隣を歩くダンベルトを覗き見る。
――眉毛が下がっている。八の字に。
思わず吹き出すラルベル。
「ごめんなさい、私ばっかりはしゃいで引っ張りまわして。つい嬉しくて」
そのくたびれた様子にかわいそうになって笑いながら謝る。
「いや、いい。仕事以外で海にきたのは久しぶりだ。ずいぶん休みをとっていなかったからな。ちょうどいい」
「普段のお休みの日は何してるんですか?」
そういえば制服姿以外のダンベルトを、みたことがない。休日を楽しく過ごしているダンベルトがなんだか想像できない。年中あの濃紺の制服を着て、町中に立っていそうだ。
少し考えこんで、ん~……とうなるダンベルト。
「もしかして特に何もせずに終わる、とか」
「まぁ酒を飲んで寝る、とかかな」
不毛だ。せっかくの休みにどこにも出かけずに家にこもっているなど、不毛だ。
「馬にだって乗れるし、お金だってあるんだから色々出かければいいじゃないですか。おいしいものを食べにいくとか」
おいしいものを即座に連想するラルベルである。
「お前なら何をする?食べ歩きか?」
「そうですね。でもこんなふうに行ったことのないところに出かけたり、色んな人と話してみたいです。私、何も知らないから」
あの町で働きだしてそろそろ三か月たつ。たった三か月だけど、あそこでラルベルはたくさんのことを知った。
人間の町では本当にたくさんの人たちが暮らしていて、驚くほどたくさんのものに囲まれて、色々な仕事をしながら賑やかに暮らしていること。見たこともない食材や料理がたくさんあって、スイーツもどんどん新しいものが流行る。
ラルベルが生まれ育ったヴァンパイアの集落とは大違いだ。あそこはとても静かで、穏やかで皆が肩を寄せ合うようにそっと暮らしているから。
仲間たちもあの森もみんな大好きだけど、心のどこかでここには私の居場所がないと思っていた。自分だけがひとりで人間用の食べ物を咀嚼する。そこには食卓を一緒に囲む人もいないし、おいしいねと笑いあえる相手もいない。
なんというか、とても味気なくて寂しいのだ。
この町での暮らしは、ラルベルの生活に色と味と匂いをくれた。生きているんだって実感できた。
それはラルベルにとってとてつもなく幸せで、とても他では埋められない。
それを知るために、ラルベルは生まれ育った場所を遠く離れて、こんな遠くまできたんだなと思う。
ダンベルトは、穏やかな表情で海を見つめるラルベルの横顔を見つめていた。
はじめて会った時、どこからきたのだという問いかけに「レテ山の北の方から」といっていた。だがダンベルトの知る限り、レテ山ふもとには小さな町がひとつあるきりで、そこの出身ではないようだ。ラルベルは一体どこからやってきたんだろう、と不思議に思う。何か話せない事情でもあるのだろうが、いつか話してくれるといいなと思う。
「お前の両親は旅に出ているといっていたが、今あの町にいることは知っているのか?もし必要なら伝手を使って遠方でも手紙を届けてやるぞ」
瞬間、ビクリと肩を揺らしてこちらを見るラルベルだったが、すぐにいつもの表情で笑う。
「大丈夫です。そのうち里帰りもすると思うので」
――やはり話す気は今のところないようだ。まぁ、そのうちに。
それ以上は踏み込まずに、ダンベルトは港近くの料理屋へとラルベルを誘う。
ここは安くてうまいと評判の大衆食堂で気のいいおかみがいる。ラルベルの食べっぷりをみたら、きっと気に入るに違いない。
今はラルベルが嬉しそうに笑っていてくれれば、それでいい。
「腹がちぎれるほど食っていいぞ。ここはタコ料理が自慢なんだ」
胃袋をがっちりとつかまれているラルベルである。
にんにくとハーブの香りが漂う店内は、港で働く真っ黒に日焼けした人たちや買い物客でいっぱいだ。各テーブルには小さな網焼き台が置かれていて、その上では海老がはぜる音や、じゅわーっと貝から汁が溢れる音が聞こえてくる。
もはやラルベルのおなかは、鳴りっぱなしの大演奏会状態である。
ふと横のダンベルトに目をやると、嬉しそうにこちらを見ている。
「どうしたんですか?」
「いや、幸せそうな顔してるなと思ってな」
首を傾げるラルベルの頭をくしゃくしゃとなでるダンベルト。
「え?なんですか、突然」
乱れた髪を手櫛で直してダンベルトを見上げる。
「ノーマが誉めてたよ。お前は本当によく頑張ってるって。紹介した甲斐があったってもんだ。毎日お疲れさん。今日はたんと食え」
そう言って、優しく目を細めて笑う。
その優しさに、ラルベルは思わず目を伏せる。
――ダンベルトさんが変なこと言うから、うっかり煙が目にしみてしまった。
住み慣れた集落を出て、たったひとりで山を下りて。知り合いも、仕事も、食べるものも何もなくて、本当は不安だった。何度も仲間たちのところへも戻ろうかと思った。
でも、自分の生きていく場所を見つけたかった。
それがどんなところなのか、自分がどこへ行きたいのかもわからなかったけど。
――あの町は、私を変えてくれたんだ。
「ダンベルトさん。ありがとう、私を拾ってくれて。私、もっと頑張るね」
ラルベルは目の前に運ばれてきたばかりの大きな海老を網に積み上げて、ダンベルトから自分を隠す。
――だって、煙がまだしみて仕方ないからね。
ダンベルトとラルベルのはじめてのおでかけは、なんだか嬉しくてしょっぱい。
大きくて広い海からきこえる心地よい波の音に包まれて、二人の時間は優しく過ぎていくのだった。
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