第九章  豪雨とオリーブの枝

第55話 豪雨とオリーブの枝(一)

 舞は隔離区域の扉を閉めた。艦長がいる中央制御室への道を閉ざしている別の扉が、上がり始めた。扉が上がって行くと、隙間から大量の海水が流れ込んできた。


 体を流されないように、壁にあった手すりを両手で掴んだ。次に足を手すりに引っ掛けて、体を横にして地面から浮かせた。


「扉が上がってくれたのはいいけど。もし、海水の量が多ければ、アウトね」


 海水の流入はすぐに停まったが、それでも立ち上がった膝の上まで水位が上がって来ていた。舞は海水で溢れた通路を進み始めた。


 水は足に絡みつくように重かった。水位が低ければ歩き易い。高ければ泳いで進める。膝上というのが、なんとももどかしい。


 急ぎ足を進めた。突如、ブーンという音がして、辺りが真っ暗になった。

「おかしい、非常灯が点灯しないわ。水が電気系を破壊した。いや、それともラミエルが用済みになった私を消そうとしているのかも」


 視覚が封じられると、聴覚が敏感になる。今まで聞こえていたが、気にならなかった水の音が聞こえてきた。


 蛇口を捻ったような浸水の音。水面が揺れ壁にぶつかる音。歩くたびに水を掻き分ける音。全てが暗闇の中では怖れとなって耳に入ってきた。


 一旦、目を閉じて、大きく深呼吸して、気を強く持ち直した。

「道順は、脳内に記録してある。立ち止まったりはしない」


 気分を奮い立たせた。水で溢れる通路を歩く速度を上げ、帰路を急いだ。

 遠くに小さな赤い灯りが見えた。位置関係から言えば、昇り階段のある場所だ。


「階段を上がれば、浸水の影響を受けずに進めるわ」

 舞は急ぎたくなる気持ちを抑えた。今度は逆に音を立てないように、ゆっくり動いて辺りを警戒しながら進んだ。


(もし、私がラミエルで、相手を殺そうとしているなら、ここに罠を張るはず。普通の通路なら、見通しが利く。けど、今は灯りが落ちて、腰まで水が来ている。待ち伏せするには、うってつけ場所だわ)


 舞は目を凝らしながら用心して進んだ。

 暗闇に目が慣れてきたのと、階段の非常灯の仄かな明かりのおかげで、異変に気付いた。


 歩くのを止め、身をゆっくり屈めた。

(水面に、何かが隠れている)


 階段付近の水面には注意しなければ気が付かない、盛り上がりがあった。単なる漂流物にしては、動きがなさ過ぎた。 


 舞は注目した目標から発する、気のようなものを感じた。

(階段までの距離は二十m。おそらく、鮫人間がここに来たのね。相手はまだ、こちらに気が付いていない。さて、どう切り抜けようかしら)


 艦長の許に行くには、階段を上がる以外の道はなかった。鮫人間は一体しかいないように見えた。


(SIG SAUREの弾は残り八発。海水に浸かって間もないから、撃てない状態ではないわ)


 舞はすぐに考え直した。簡単に銃は使えない。


 暗い中、鮫型人間が水中を泳いできたら、まともに当るとは思えない。もし、確率現実症の力で当てられたとする。鮫人間は人間とは身体構造が異なるから、何発、どこに当てれば倒せるのかわからない。


 鮫人間が身動きしないのは、探知能力が弱いから。だからこそ、必ず通る階段の側に陣取って待ち構えている。


(つまり、この距離から動かなければ、すぐに襲われることはないわ。でも、時間の経過は、向こうにとって有利に働くわ)


 鮫人間なのだから、水中での行動能力は人間より高いだろう。呼吸も可能ではないか。


 水が増えれば、鮫人間は体を隠し易くなるし、銃を防ぐ盾にもなる。

 舞は注意を払いながら、そろそろと階段まで距離を詰めた。舞は階段まで十二~三mの距離まで近付き、停止した。


(ここが、気付かれない限界ね)


 時間が経てば経つほど不利になる。だが、焦らず、機会を窺い、じっと待った。

 鮫人間がもし、舞が来ない事態に苛立ち、舞を探すべく動き出したら、横をすり抜けるつもりだった。が、鮫人間は動かなかった。


 水が舞の腰の高さを超えた。もう、鮫人間の姿は完全に水没し、どこにいるか全然わからない状況になった。


 階段の遠く上から、ベッキーの舞を呼ぶ声が聞こえた。

 舞はチャンスと捉え、そっと立ち上がった。舞は鮫人間にもわかるように、大きな声で応じて、階段に向って歩き出した。


 暗い水面が、僅かに揺れた。おそらく、鮫人間が舞に気が付いた。舞があまりにも近くにいて驚いたのだろう。


 舞は水面の揺れ方から、鮫人間の頭の位置を知った。舞はSIG SAUREを手に、鮫人間には気が付かないフリをした。


 鮫人間がゆっくりと水中から距離を詰めてきた。

 階段に近付きながら、仕掛けるタイミングを計った。鮫人間と十歩の距離まで近付いた。


 水面に向けて、弾を一発だけ残して、残りを全て発砲した。

 大きな銃声が通路に響いた。


 水中にいた鮫人間が舞からの奇襲に驚いたのか、舞の目の前に浮上しようとした。

 浮かび上がる鮫人間の頭に絶妙のタイミングで、舞は鮫人間の頭に手を突いた。


 舞は鮫人間が身を持ち上げる力を利用し、跳び箱を跳ぶように鮫人間の頭を飛び越えた。


 背後で大きく跳ねる水飛沫の音に負けないように、大きな声を上げた。

「ベッキー、上から狙って」


 舞は叫びながら、階段へ全身を使って進んだ。水で、思ったより速度が出なかった。


 背後で鮫人間が暴れる音が止んだ。鮫人間が思ったより早く正気に戻ったと思った。


 階段までは、あと五歩。水を激しく叩く音が近付いてきた。舞は振り向くと、全く狙いをつけずに、残り一発を発砲した。


 薄暗い階段の闇の中、薬莢の火薬が燃える火花が散った。舞には大きな口を開ける鮫人間の顔が間近で見えた。


 火薬が燃える灯りは一瞬で消えた。舞が「もう駄目かもしれない」と、思ったとき、何かが弾けて、顔に強く当った。


 鮫人間の手が舞に触れた。だが、力はなかった。

(ベッキーが、弾丸の燃焼で見えた一瞬の視界で、鮫人間を仕留めてくれた)


 舞は力が篭らない鮫人間の手を払いのけ、階段の上を見上げた。上の階にはまだ、電気系が生きているらしく、うっすら灯りが差し込んでいた。


 階段の上にはベッキーが、座って電磁ライフルを構えているシルエットがあった。

 舞は海水で、顔に掛かった鮫人間の血や肉片を素早く洗い、階段を急ぎ登った。


 ベッキーは微笑んで、映画のヒーローのように言葉を懸けてきた。

「どう、舞ちゃん、抱かれてもいいって思った」


「そこまでは、ちょっと。でも――」


 舞は言葉を切って、ちょっとだけ背伸びして、ベッキーの頬にキスをした。舞はすぐにベッキーの横を通りすぎた。


 舞は我ながら恥ずかしいので、後ろは振り返らなかった。振り返れば、にやけたベッキーの顔があるような気がした。

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