第54話 ラミエルとサハロフとティアマット(一)

 施設は浸水を防ぐためか、あちらこちらに防水隔壁が降りていたので、地図が指し示す場所までは、遠回りしなければ行けなかった。


 神流毘栖やベッキーのお蔭なのか、鮫人間との遭遇はなかった。


 地図に従って階段を下りた。施設の浸水が停まっていないのか、階下には薄い水の層が形成されていて、踝を濡らした。


「急がないと。水が増えすぎると、戻れなくなるわ」

 地図に従い、Quarantine area(隔離区域)と表示された場所に辿り着いた。


 隔離区域の前には大きな青い金属扉があった。舞はどうにか扉が開けられないか探った。


 タブレット・パソコンからピポという、小さな音がした。タブレット・パソコンがキーとなったのか、扉の前に暗証番号を入力する立体ディスプレィが現れた。


 思いつくままに、二十個ほどのアルファベットと数字を入力すると、一発で扉が開いた。


 隔離区域の扉が上がると、背後で別の扉が下がった。おそらく、隔離区域は常にどちらかの扉が降りるように設計されているのだろう。


 水は入って来なくなったが、水圧が高くなると、扉は開かなくなった。ティアマットを入手しても、帰り道が閉ざされる危険性もあった。


「時間的な猶予はないようね。急いで、ティアマットを手に入れて、早く戻らないと」


 舞は一歩を踏み出すと、不意に思いもかけない、言葉が口から出た。

「And Noah did according unto all that Jehovah commanded him.(そして、ノアは、主の命に全て従った)」


 なんでそんな言葉が口から出たのかは、わからなかったが、考える時間が惜しかった。


 舞は地図が指し示す場所へと急ぎ、部屋に辿り着いた。部屋の扉を見て向こう側が、守が隔離されていたのと同じ病室だと感じた。


 病室の扉はロックされていた。タブレット・パソコンも反応しなかった。舞がタブレット・パソコンを見ると、電源が落ちていた。電源ボタンを押しても、電源は入らなかった。


「バッテリー切れか。ずっと放置されていたんだもの、無理ないわ」

 扉をよく見た。すると、色は違うが、双子鰐島で舞が隔離されていた病室の扉と同じ造りだとわかった。


「これなら、行けそうね。おそらく、こうすれば扉は開くはず」

 舞はSIG SAURE P228を抜くと、扉から数歩離れて、ドアのロックを制御しているのであろう部分に六発、発砲した。


 扉に手を掛けると、扉は重たかったが、スライドした。

 部屋の中は白を基調とした、十畳ほどの広さの部屋で、ベッドと小さな机があった。部屋の簡素な造りは、舞が双子鰐島で利用していた病室そっくりだった。


 ただ、違うのはベッドの上には中央制御室の奥にあったものと同じ、卵型の水の塊があり、中には水色の、空の上下の病衣が浮いていた。


 直感的に、目の前の卵型の水滴は祖父の守が変化した姿だと思った。

 アプス水は濃度が高くなると、鉄やシリカを水素に変えるだけでない。酸素以外は全て水素に変えてしまうのかもしれない。


 守にはもう意識は残っていない、生きているともいえない状態だ。けれども、舞は初めて会った祖父に丁寧にお辞儀して、挨拶した。


「こんにちは、お祖父ちゃん、武の娘の若水舞です」

 舞の言葉に対して、水滴は無反応だった。舞は水滴に手を伸ばした。静電気が走ったような小さな痛みを感じて、手を引いた。


(拒絶されているみたい。でも、なんで)

 不意に背後に気配を感じて、振り返ると、痩せた姿の守が立っていた。


 守は目に見えるが、どこか現実感がない、幻というか幽霊のような存在みたいだった。

 守は舞を見て懐かしむような顔を見せ、優しく声を掛けた。


「まさか、武の娘が来るとはな。これも、私の確率現実症が起した奇跡だろうか」

「お祖父ちゃんも、確率現実症だったの。お祖父ちゃんは、どれくらい前に発病したの。私も、私もあの水の塊みたく、なっちゃうの」


 守は優しい祖父の顔で、首を振った。

「大丈夫、舞は水にはならないよ。ティアマットを使えば、世界から全てのアプス水が消えるんだ。アプス水が消えれば、舞は助かるよ」


「でも、アプス水が消えれば、人類はとても大きな打撃を被るわ」

「いいんだよ、舞。いつかは世界は正しい姿に戻らなければいけない。たとえ壊滅的被害を被ってもだ。だから、舞は気にしなくていい。それに、私には、なによりお前が大事だ」


 舞は守の言動に怪しい物を感じた。守がどんな人物かは知らない。にしても、目の前の守は優しいというより、甘過ぎる。


 祖父の世代は、水不足を経験し、次に大きな水害に直面した。祖父の世代は友達も家族も多く失い、多大な苦労をしている。


 それなのに、守は、孫の舞が助かるなら人類が壊滅していい、世界は正しい姿に戻れと、平気で話した。


 祖父の言葉には多大な苦労をしてきた重みというか、現実味がなかった。

 舞はこんなに甘い言葉を平気で言える人物を一人しか知らない。先ほど艦長に言動を否定された、ラミエルだ。


 ラミエルは人ではない。だから人間の苦労も苦悩も知らないのだろう。ラミエルが仕組んでいるなら、メッセージの受信も、敵に会わずに辿り着いたのも納得が行く。

 舞は疑念を隠して話した。


「お祖父ちゃん。ティアマットを使えば、ラミエルを止められるの」

 守はどこまでも優しい祖父の表情を浮かべ、ベッドの上の水滴を指し示した。


「あの大きな水の塊の中にティアマットはある。舞が手を入れてティアマットを取り出し、海に投げ込めばいい。後はティアマットがアプス水を消してくれる。世界を救ってくれ」


 言い終えると、守の姿は薄くなり、煙が拡散するように消えた。

 アプス水を消すティアマットなんていう便利な代物が本当に存在するのだろうか。もし存在するなら、ガーファンクルなり、艦長なりが、とっくに模倣品を作っている気がする。


 ティアマットがアプス水を消去させる存在なら、ラミエルは一時たりといえど、舞の手に渡すはずがない。


 施設はラミエルの支配下にあったのだ。破壊が無理でも、誰も手の届かないところに封印するぐらいは、できたのではないだろうか。

(ティアマットがアプス水を消すなんてのは、嘘ね)


 ティアマットとは何か。発想を変えれば説明が付いた。

 ガーファンクルの友人であるラミエルは、研究の過程で逆の発見をしてしまったのではないだろうか。


 ティアマットは本来の研究目的とは大きく外れ、アプス水を増やす。アプス水が増えれば、空にいるラミエルの力は増強される。


 ティアマットは守によって封じられており、無理に取り出せばティアマットを壊しかねない状況なのではないか。だから、ラミエルは手を出さず、しまっておいた。


 艦長の作ったアプス水消滅弾道ミサイルでは、ラミエルが倒せなかった。艦長には誤算だったが、ラミエルにも誤算があったのかもしれない。


(アプス水消滅弾道ミサイルは、ラミエルにとって思いのほかが強力だったのではないかしら。ラミエルにしてみれば、今回は辛うじて耐えられただけなのかもしれないわ)


 アプス水消滅弾道ミサイルをあと何発、艦長が隠し持っているか、ラミエルにはわからない。


 今は手元になくても、ガーファンクルが設計図を持っていて、双子鰐島のWWO施設で急ピッチに生産しているかもしれない。


(もしかしたら、ラミエルにとってさっきの、二基の兎級潜水艦が最後の兵力だったのかもしれないわね。もうラミエルにはWWOの施設を攻撃する能力がなくて、ミサイル工場があっても、破壊作戦は立てられないのかも)


 ラミエルはサード・ノアを確実に起すために、ティアマットが必要になった。ティアマットは、守と同じ確率現実症を持つ舞なら、取り出せるのではないだろうか。


 全てが推測でしかないが、舞には、あながち外れているとも思えなかった。

(さて、どうしよう。本来なら取り出さなければいいだけの話なんだけど、それでは負けないというだけで、逆転勝ちにはならない)


 現時点では、まだラミエルが優勢、サード・ノアが世界を襲う可能性が高かった。

 もし、確率現実症が本当なら、ただここでラミエルの敗北と、全員の帰還を祈っていればいいだけなのかもしれない。


 祈るだけで、都合よく勝利が訪れるかもしれない。

 舞は思い直した。


(世界を変えるのは、人の意思と行動。何もしなくても、ラミエルには勝てるかもしれない。だけど、確率現実症に頼った私は、病気に負けたことになる)


 目を閉じ、ゆっくり卵型の水滴の中に手を伸ばした。今度は手に静電気が走らなかった。


 指が水滴の中に入ると、初夏の頃にプールに入った時のような心地よい冷たさを感じた。


 ボタンが外れて開いている、病衣の上着の心臓部分に導かれるように、舞は手を伸ばしていった。


 指先に、ゼリーのような感触がある何かが触れた。大きさはゴルフボール大。舞は透明な球体を手で包み、ゆっくり、優しく掴んだ。


 水のような液体に情報を書き込んでいるなら、情報は長時間に亘っては保持できない。一見、停止しているように見える水でも、内部では原始プログラムは複製と破壊が繰り返されているはず。


 複製の過程では、確率的にエラーが発生する。もちろん、修正される仕組みもあるが、いつかは綻びが生じて、書き換わる。


 舞は強く念じた。

(なら、お願い。もし、確率的に起こる得る事象が、起きるのなら、エラーが起きて、プログラムの内容を逆に書き換えて)


 念じながら、亀が歩くようなスピードで、柔らかい球体を、水滴から引き抜いた。

 球体と水面が離れた瞬間、手の中の球体は崩れ、卵型の水滴は弾けて蒸発した。


 舞は目の前で起きた事態に驚愕した。ティアマットが、壊れた。

 世界をサード・ノアから救う手段を破壊したと思った。


 思わず口に手をやった。唇に水が触れた。掌に不自然に水滴が残っているのを感じた。

 舞は咄嗟に思った。


(ティアマットが破壊されたように見せたのは、祖父ちゃんの意思。お祖父ちゃんは、ラミエルを欺こうとしている)


 掌の中には、一掬いにも満たない水、ティアマットがあった。舞は即座にティアマットを飲み込んだ。ラミエルにティアマットは渡せない。


 その後、へなへなっと座り込み、祖父から託されたティアマットを破壊して呆然とする孫を演じた。


 ティアマットを飲み込んで人体に悪い影響が出ないとは限らない。いや、むしろアプス水と同類なら、飲んで数分で死に到る危険性もあった。が、舞は躊躇わなかった。


 ゆっくりと振り返ったが、守の姿が再び現れはしなかった。

 ラミエルはティアマットの崩壊を見て、さっさと舞に見切りをつけて退散したのかもしれないが、真相は不明だ。


 舞はフラフラと立ち上がり、部屋を後にした。後悔の演技は、続けなければならない。


 とはいえ、あまりノロノロもしていられない。早く艦長たちと合流して、体内のティアマットを渡さなければならない。


 サード・ノアの開始を止められなくても、サード・ノア停止ができるかもしれない。


 世界にはセカンド・ノアの教訓がある。大水害が起きても、短期間なら再起不能にはならない。双子鰐島までティアマットを持って帰れば、逆転できるかもしれない。

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