第53話 ラミエルとサハロフとティアマット(三)

 通路を進むこと十二、三分ほどで、艦長が頑丈そうな黒扉の前で立ち止まった。艦長は再びポケット型コンピューターを使って扉を開けた。


 中は学校の教室四つが、すっぽり入るくらいの広さがあった。部屋は小さなロケット発射管制室のような造りで、おそらく施設の中央制御室だ。


 部屋の機能は生きているのか、立体ディスプレィが幾つも立ち上がって光を放っていた。


 部屋の奥にさらに扉があった。きっと、奥が中央制御室の核となる部分だ。

 艦長が、施設に潜入して、初めて口を開いた。


「扉は開放しておく、神流毘栖とベッキーは、やって来る敵がいたら、ここで食い止めてくれ。私とリタ、それに舞は、奥にある基幹部分に向かい、島のシステムを破壊する」


 神流毘栖とベッキーは、了解しましたとばかりに、頷いた。

 艦長は奥の扉の向かうと、ポケット・コンピューターを翳して開けようとした。が、今度は開かなかった。


 艦長が扉を調べていると、舞の頭の中に言葉が浮かんだ「Bible in Genesis ChapterⅥ(聖書 創世記 第六章)」


 舞が扉の前に進むと、文字入力立体ディスプレィが浮かび上がった。舞が頭に浮かんだ言葉を入力すると、扉は開いた。


 舞は扉の奥に入っていった。扉の奥は両脇にいくつもの五㎝四方の小さな鏡が埋め込まれた幅広の廊下が二十mほど続いていた。


 廊下の奥には舞の身長より少しばかり大きい、青く輝くアクアマリンのような卵形の水滴が浮かんでいた。


 舞が警戒しながら、水滴に近付くと、水滴はグニャグニャと形が崩れた。水滴は白衣を着た白人男性の姿を取った。


 男性の顔には見覚えがあった。目の前の人物は、写真で見たサハロフそっくりだった。


(ラミエルの意志を継いだのは、サハロフさん。じゃあ、ガーファンクル叔父さんは、ラミエルの仲間だったの)


 舞の驚きを他所に、サハロフが切々と語り掛けてきた。


「メソポタミアの神話では、淡水の神アプスと、アプスの妻にして海水の神ティマットより、世界は生まれた。古代の人類にとっては、水こそが第一だった。だが、その水が今、有史以来の危機に曝されている。少しでいい、私の話を聞いて欲しい」


 おそらく、サハロフには抵抗する力がないのかもしれない。サハロフは施設を破壊に来たWWOの職員を説得して、止めさせようとしているのだろう。


 サハロフは白い眉を悲しげに細め、真摯に言葉を続けた。

「水は今を生きる人間のためにだけあるのではない。未来を生きる生物にも水を使う権利が――」


「黙れ、偽物! 議論はもう済んでいる」

 艦長が今までに出したことのない大きな声で、サハロフの言葉を遮った。


 舞は艦長の強い言葉に驚き、振り向いた。艦長は首筋にあったモジュラー・ジャックと壁をケーブルで繋いでいた。


 艦長が首筋のモジュラー・ジャックを使っている光景を一度も見た記憶がなかった。


 脳に機械を埋め込むのは、それほど珍しくはない。が、モジュラー・ジャックがあるタイプは、舞が使っているマイクロ・マシンタイプのとは違い、軍事仕様だ。


 より早く情報処理が可能だが、逆に脳内の機械が破壊されれば、死に至る。

 サハロフがなおも言葉を続けようとした。


「少年よ。世界は大きな欺瞞の上に成り立っている。私の言葉を聞いてくれ。世界は今も」


 艦長が怒った声で、またもサハロフの言葉を遮った。

「黙れと言ったんだ。その姿で妄言を吐くな。ラミエル」


 艦長がポケットから掌に納まるデリンジャー・ピストルを取り出し、発砲した。

 銃はプシュっという小さな音を立てた。直後にサハロフの体に水滴が撥ねるような波紋が広がった。


 サハロフの全身がブルって揺れると、液化した。サハロフの体は割れた水風船のように弾けて、床に散らばった。


「サハロフさんがラミエルではなかったの」

 艦長は「目の前の人物は、サハロフの姿を真似ているラミエルだ」とでも言いたいのだろうか。


 艦長が偽物のサハロフを一瞥すらせず、見破った。なぜか、思い当たる理由は一つ。


 舞は作業を続ける艦長に聞いた。

「艦長。貴方が本当のサハロフさんなんですか。奇病が貴方を若返らせたんですね」


 艦長は舞の問いに答えなかった。

 奇病が若返りをもたらすかどうかは確証がなかった。だが、奇病は遺伝子をも書き換え、肌や髪の色さえも変える。


 白人の老人から南方アジア人の少年に外見が変わる事態もあるのかもしれない。

 舞は艦長が答えないが、サハロフなのは間違いないと思った。


 艦長がサハロフなら、実年齢はガーファンクルに近い。WWOでの地位の高さ、落ち着いた話し方、知識や技術の豊富さ、ガーファンクルとの情報の共有も、艦長がサハロフなら、全て説明がついた。


 艦長がサハロフであるのを認められないなら、認めなくてもいい。だが、知りたい事柄については、話して欲しい。


「艦長はラミエルを知っているんですか」

 艦長は不快感を露に話し始めた。


「ラミエルは死んだ。今、ラミエルと名乗っているのは、原始プログラム技術によって生み出された、自分を天の使いだと信じている、水の中に書き込まれたコードの塊だ」


 プログラムで意思を再現する研究は倫理的な問題もあり、現在は研究が中止されていた。

 実際は技術的には研究を進めれば、プログラムに意志を持たせられるという、


 ニュースは知っている。されど、分子プログラム技術が水に意志を持たせられるという学説は聞いた覚えがなかった。


(アプス水の開発は条約で禁止されているけど、続いていた。なら、人間が持つ高度な意志の再現も、公にしないで昔から研究されていたのかも)


 艦長が眉を顰め、苦々しく舞に伝えた。

「島のシステムは掌握できそうだが、計画はどうやら失敗のようだ。ラミエルはもう島にはいない。ラミエルを施設諸とも葬り、サード・ノアを止める私の計画は、失敗した」


 突然の敗北宣言に、舞は戸惑った。

「どういうことですか、艦長。ラミエルはいったいどこにいるんですか」


 艦長は険しい表情で、人差指で天井を指した。

「ラミエルは今、我々の上空にいる。ラミエルはアプス水共鳴現象を利用して、自分の意思を上空のアプス水の雲の中に転写していた。上空を覆う雲。それが、ラミエルだ」


「そんな、大気中の水なんて、不安定です。そんなところに意思情報を転写したら、不安定で、思考を保てないんじゃ――」


 艦長は悲しみが滲んだ表情で答えた。

「転写したコードは、確かにすぐに崩れる。意思を保ち続けるには、常にコードを転写し続けなければならない。膨大な量のアプス水が、それを可能にした」


 ラミエルによる、オーストラリアの浄化プラント破壊は、アプス水の濃度を増やして、サード・ノアを起すためだけではなかった。


 舞は艦長に、思い浮かんだ考えをぶつけた。

「ラミエルは国連軍に邪魔されないために、島という固定された場所でなく、広大な大気という場所を確保していたんですね」


 舞は自分で言っておいて疑問に思った。


 艦長はラミエルが空に逃げる事態を想定していなかったと思えない。何が艦長の読みを狂わせたのだろう。


 舞の心を読んだように、艦長が話した。

「ラミエルのデータが教えてくれた。アメリカ、中国、ロシア、フランス、イギリス。それにモンゴル、インド、パキスタン、ブラジル、カナダまでも、WWOに虚偽の報告をしていた。世界にはWWOが把握していないアプス水を貯めた湖が多数、存在していた。ラミエルは、そこからアプス水を得ていた」


 各国が条約違反による生産したアプス水の規模は膨大だったのだろう。禁止されている過剰なアプス水の生産は、各国にアプス水の湖を作っていた。


 ラミエルが今まで放置されていて理由がわかった。世界はラミエル亡き後に起こる不正の露見が、水の奪い合いによる世界大戦の発展するのを怖れたのだ。


 人類は正直な告白による戦争より、騙し騙される事態が引き起こす、束の間の平穏を選んだ。人類の悪意がラミエルに味方した。 


「そうだ、艦長。ラミエルがアプス水を利用して意思を保っているのなら、ブリタニア号に積んでいるアプス水消滅弾道ミサイルでアプス水を消し去れば倒せるでしょう」

 艦長は曇った表情で舞に教えた。

「アプス水消滅弾道ミサイルは、すでに発射している。ただ、ラミエルが想定以上に肥大化している。ここまで大きくなれば、ラミエルを倒せるかどうか、全く不明だ」


 施設が僅かに揺れた。艦長が目を閉じて呟いた。

「どうやら、ラミエルの勝ちのようだ。ラミエルは今し方、施設に仕掛けていて爆薬を爆破した。施設内が急速に浸水しつつある」


 ラミエルに裏を掻かれた。作戦が失敗して、溺死か窒息死という結末になるのだろうか。


 舞は艦長の横に佇むリタを見た。リタは普段は明るく、お喋りだが、SDVに乗る前から、一言も口を利いていなかった。


 舞は緊張のためかと思ったが、リタの表情には、感情が見られなかった。正に魂が抜けたといったようだ。


 何かが、おかしい。舞がリタに声を掛けようとすると艦長が割り込むように口を開いた。


「私は、施設の残っている機能を利用して、浸水を止める。舞はベッキーと神流毘栖に状況を伝えてきてくれ。さあ、早く」


 舞は追い立てられるように、扉を潜った。部屋には、敵を食い止めるように命じられていた神流毘栖やベッキーが、いなかった。


 神流毘栖とベッキーが逃げたとも思えなかった。敵に連れていかれたとも思えない。


 中央制御室の外に出ようとしたところで、立体ディスプレィの一つから、ピーピーという音がしているのに気が付いた。


 立体ディスプレィを見ると、死んだはずの祖父、守の痩せた姿が映っていた。守の姿は、舞が入手した写真より少し老けていた。


 守が、不特定の人間に話すように喋り出した。


「この映像を誰かが見ているということは、世界にサード・ノアが起きようとしているのだろう。私の許には友人たちの努力の結晶である対アプス水消滅用原子プログラム、ティアマットがある。世界を救ってくれ。急いで、私の許に来てくれ、頼む、もう時間がない」


 守は一気に話終えると、同じ言葉を繰り返した。どうやら、立体ディスプレィに写っているのは録画映像のようだった。


 立体ディスプレィから通信を求める信号が出ていた。舞はさすがに、わけのわからない情報を脳内のマイクロ・マシンにダウンロードするのは躊躇った。


 代わりにダウンロードできるものはないかと探すと、部屋には誰のものかわからない旧式のB6サイズのタブレット・パソコンが、充電機の上に置いてあった。


 舞は迷わず拝借した。タブレット・パソコンのスイッチを入れた。

 タブレット・パソコンはノー・パスワードで起動できた。舞がタブレット・パソコンの通信機能でデータを入手すると、地図が表示された。


 ティアマットはサハロフやガーファンクルの友人だった人間のラミエルが、まだ、生きている頃に開発したのかもしれない。もし、そうなら、最後の最後で逆転のカードが手に入ったことになる。


 何かでき過ぎている。本当に緊急のメッセージなのかもしれないが、罠かもしれない。


 舞は、まず艦長に情報を伝えようとしたが、艦長がいる部屋の扉が開かず、パスワードを再入力しても開かなかった。


「ラミエルが確実に止めを刺すために、施設を艦長から取り戻そうとしている」


 待っていれば、艦長が再び扉を開けてくれるかもしれない。ベッキーや神流毘栖が戻ってきて助けてくれるかもしれない。舞は即断した。


「待ってはいられないわ。時間が惜しい。まず、祖父ちゃんの許へ行こう」


 念のために、脳内コンピューターにある施設の地図を呼び出し、帰り道がわからなくならないように、移動した経路を自動記録するよう設定した。


 舞は腰に付けたSIG SAURE P228を確かめてから、タブレット・パソコンの地図に従って、走り出した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る