第32話 地底湖の底で、水が呼ぶ者(六)
水滴が頬を打つ感覚で、舞は目を開けた。舞は疲れのせいか、いつの間にか寝ていた。緑色の苔むした島に、灰色の空から、小雨が降っていた。
体に触れる雨音だけが、静かに聞こえた。鳥や虫の鳴き声はなく、本当に静かな、異常な世界だった。幸い風は吹いていなかった。
体は少し痛むが、行動に問題はなさそうだった。頭はすぐにはすっきりしなかった。徹夜で勉強して、寝てしまった状況と似ていた。
寝起きの感覚からして、睡眠時間は四時間くらいだろうか。舞は雨が顔に当らないように、上半身を起して座り直した。
霧が雨に変わったので、通信の回復は絶望的だが、試してみた。
すぐに、エラーが帰ってきたが、それでも、しばらく続けてみた。
空気中に大量の水分が含まれているせいか、あまり、喉が渇かない。が、昨夜の不思議体験の緊張が残っているためか、水分を口にしたかった。
水筒のキャップを外し、カップとして使い、紅茶を飲んだ。スパイスに似たアール・グレイのクールな味と、砂糖の甘さが口に広がった。
紅茶は温く、飲みやすいが、あまり飲みすぎるわけにはいかなかった。辺りは水だらけだが、アプス水に汚染された水の塊だ。地底湖の水を飲めば、奇病を促進し、死を招くかもしれない。
一息ついて頭を切り替えると、菓子には手を付けずに立ち上がった。水や食料を残しておけば、おのずと心に余裕が生まれる。
通信エラーが二百回を超えた辺りで、連絡を取るのを一度、中止した。舞は、プラントのある方角を見た。
だが、昨日より視界が悪いせいで何も見えなかった。
プラントに向かって歩き出す前に、昨日の光が見えた地点に行こうと思った。
明るくなってみれば、光があった地点には水を迂回して歩いて行けた。
光が見えた場所には、機械の類はなかった。
「やはり昨日の光は見間違いだったのかな。それともどこかの光が反射していたのかしら」
辺りを見回しても、反射しそうな物はなかった。代わりに別の物を見つけた。発見したのは舞と同じ服装をして、ガスマスクをしていた人物だった。
発見した人物は島にできた、隆起した部分の陰に、うつ伏せに横たわっていた。体格が大きいのでベッキーではない。
舞は直感的に、相手が死んでいると思った。なぜか、恐怖は、あまりなかった。
「きっと、連絡を絶った。プラントの作業員ね。可哀想に」
普段ならば、触るのを躊躇っただろう。なぜか今は、不思議と躊躇いはなかった。
舞は人物に触れ、ゆっくりと、仰向けにし、ガスマスクを外した。
年齢は二十代後半の髪の短いアジア系の男の人だった。胸に、WWOのロゴが見えた。男の顔は、初めて見た感じがしなかった。
じっくりと男の顔を見たが、記憶にはなかった。念のために、そっと首の動脈に触れてみる。脈はなく、すでに冷たくなっていた。
顔色はどこか、青白く、唇は紫がかっていた。
衣服に損傷はなかった。死体のベルト・ポーチを開けると、中には食べかけの湿った携帯食料があり、腰の水筒を振ると、液体が半分くらい入っている音がした。
「この人、怪我や襲撃で死んだわけじゃない。餓死でもないし。低体温床でもない」
舞はただ、目の前に横たわる人物を見つめた。
目の前で死んでいる人物は、奇病で亡くなったと思った。舞はなぜか、死体に嫌悪感を持たなかったか、なんとなく理解した。
目の前にあるのは、遠くない未来にある、舞自身の予想図だ。
死が怖いと思った。わけのわからない恐怖だった。けれど、怖いと思ったものが直接つきつけられると、それほど恐怖はなかった。不思議だった。冷静な自分を異常と思うほど、怖れがなかった。
死体の横に座って。ハンカチで死体の顔を軽く拭いた。
「案外、昨日の光。文字通り、この人の魂の声だったのかもしれないわね」
男の顔を見ると、眠っているように見えた。顔には苦しみ、悲しみ、憂い、安堵といったものは見られなかった。
男は眠くなって、この場で隠れるように横になり、そのまま息を引き取ったのだろうか。
男の手を取った。すでに死後硬直が解けているので、手はスムーズに動いた。舞は男の手を胸の前で組んであげた。
男の身元がわかるものはないかと思い、胸のポケットを探った。
胸のポケットには、名刺大の薄型コンピューターが入っていた。アクセスしようとすると、ロックが掛かっていた。
ログイン画面にはユーザー名らしい文字が出ていた。だが、舞の知らないアジア系の言語のようで、読めなかった。
舞は薄型コンピューターを自分の胸ポケットにしまった。
遺族がいるなら、何か形があるものを渡してあげたい。男に頭を下げて謝った。
「ごめんなさい。本当は連れて行ってあげたいけど、今は駄目なの」
男に背を向けて歩き出すと、背後で人の気配を感じた。舞は瞬間的に振り向いた。が、誰もいない。男も手を組んで倒れたまま。
「誰かいる。リタ、リタなの」
リタの名を口に出してから、疑問に思った。なぜ、今、リタの名を呼んだのだろう。疑問の答はわかっていた。今、背後にリタのいる気配がしたのだ。
普通、今の状況で背後で気配がしたなら、男が立ち上がったという風に考えそうだ。なのに、舞の頭の中では、光の速さでリタ以外の可能性を排除していた。
リタがいるわけがないのは、理性的にわかっている。わかっているが、リタの気配のようなものを確かに感じたのだ。
舞は浮かんだ考えを、すぐに否定した。
「リタが。リタが、いるわけがないよ。リタが」
気が付かないほど疲れているのかもしれない。だとしたら休んだほうがいいのだろうか。
プラントの作業員が外で倒れているなら、プラントはもう存在しないのかもしれないし、近付かないほうがいいのかもしれない。
舞は強く思った。
「いや、先に進もう。もしかしたら、プラントに帰還する途中で力尽きたのかもしれないし。もう、ここまで来たらプラントを確認しないわけにはいかないわ」
舞はベッキーの名を呼びながら、再び確かな足取りで歩き出した。
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