第31話 地底湖の底で、水が呼ぶ者(五)
夜が更けてきた、舞は誰かに呼ばれた気がした。顔を上げたが、人の気配はなかった。ただ、霧が掛かった暗闇が続くのみ。
闇は恐怖の対象でしかない。僅かに灯る手元のライトが、魔を退ける結界のように守ってくれていると感じた。
ゆっくりと、闇を凝視した。闇の向こうに何かがぼんやり光った。見間違いかとも思ったが、また光った。
舞は敵かもしれないと思って、ライトを消した。途端に、辺りが真っ暗になった。ライトをギュッと握って、反応を待った。
やはり、遠くから光が時折ちらちら見えた。光はちょうど舞の腰の高さぐらいの位置だ。どうしようかと思案したが、意を決して、ライトを点けた。
「ここから浄化プラントが近いなら、WWOの職員の人かもしれない」
ライトを点灯して、頭上に掲げ振った。反応はない。思い切って、声を出してみたが、光りの主は気が付いてくれなかった。
「あれ、もしかして、人間じゃないのかな。夜間点灯用のライトか何かかしら」
考えられない答ではなかった。浄化プラントが近いなら、プラントの夜間照明かもしれないが、プラントはまだ遠いはず。霧が晴れてはいないので、施設の明かりとは思えない。
プラントの明かりならいくつも見えてもいいし、光の高さも、もっと高い位置にあってもいいだろう。
「じゃあ、無人の投光器か、何かかしら」
地底湖は広いので、船で移動する時もあるだろう。
夜になると真っ暗なので、危険な場所を知らせる照明ブイが浄化プラントの周りに設置されていても、おかしくはなかった。
無人の明かりなら、近付く必要はなかった。いや、危険区域に設置されている照明ブイなら、むしろ近付かないほうがいい。
舞は、判断がつかず、ぼんやりとした光を見つめていると、光が動いた。
暗い中で、一点の光源をジーッと見つめると、実際には光が動いて見える錯覚がある。よく、変化がない田舎の夜道で月がジグザグに動いてUFOと錯覚する現象だ。
錯覚かと思い手元のライトを向けてみるが、光は確かにゆっくりと動いていた。
「行ってみる。それとも、夜が明けるまで待つ」
無闇に動かないほうが良いのは理解している。だが、舞の心は暗闇に取り残される恐怖から逃れたいという、誘惑と確かめたいという好奇心に負けた。
ライトで足元を照らし、ゆっくりと歩いていった。
舞が近付くと、光が逃げた。最初は気のせいかもと思ったが、やはり光は蜃気楼のように近付くと逃げた。
「移動するってことは、無人の光ではないのかな。どこかを規則的に周回しているようでもないから、プログラムで動いてわけでもなさそうね」
立ち止まると、光の主から舞が見えているかのように、位置が移動しなくなった。「もしかして、誘っている。でも、誰が、何のために」
WWOの職員でもない。敵でもなさそう。人でもなさそうだが、プログラムで動く機械でもない。いったいなんだろう。
ウイルオー・ウィスプという鬼火の話を思い出した。
ウイルオー・ウィスプは沼地や深い森の中で死んだ人の魂。仲間を増やすために、灯りで旅人を誘って、沼地に深み嵌めて人を殺す。
舞は即座に浮かんだ考えを否定した。
「まさかよね、ここはヨーロッパじゃなくて。ここはオーストラリアだし。あ、でも、日本でも似た話が――」
最後は言葉にならなかった。舞は幽霊話を信じない。信じないのは、体験した経験がないからだった。
舞が経験している状況を他人から聞けば「それは沼地のガスやリンが燃えているだけよ」と笑って答えただろうが、いざ舞自身の身に降りかかると、怪奇現象として考えてしまう。
舞はもう追うのをやめたいと思った。だが、奇妙な興奮を覚え、不思議な力でも働いているのか、ゆっくりとだが、足を前に進めずにはいられなかった。
不意に爪先の地面の感覚がなくなった。ゆっくりと、ライトを照らすと、後一歩で水の中という状況だった。
恐れ慄いて、数歩ぎょっと後ずさりした。もう、目の前の不思議な明かりを鬼火だとしか思えなかった。
「お、鬼火が、私を仲間に迎えいれようとしている」
声を出そうとしたが、声にならなかった。
胸が高鳴り、走って逃げ出したい気がした。もっとも、足場の悪い暗闇の中を走り出す愚行を押し留めるだけの理性は、残っていた。
来た道をゆっくり引き返した。時折、後ろを振り返った。もう、鬼火は追いかけては来なかった。
振り返ること十数回、いつの間にか鬼火は消えていた。舞はそこからさらに、数歩離れたところで、体を縮めて、朝を待った。
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