第26話 亡霊の影と溶ける大陸(六)

 神流毘栖が、恐ろしい事態を普通に話した。

「オセアニア地域が今の小康状態を保っていられるのも、オーストラリア大陸が巨大な容器としてアプス水を貯めていてくれるからだ。もし、このままアプス水が浄化されないと、いずれ、オーストラリアという容器が壊れて、大量のアプス水が世界に溢れ出す」


 神流毘栖が言いたい意味は理解できる。オーストラリアの崩壊は、オセアニア地域では停まらないだろう。大量のアプス水が海中に流れ出せば、世界中に拡散する。


 アプス水の濃度が一気に高まれば、世界は再びいつ上がるともわからない雨に曝されるかもしれない。建物を崩落させ、奇病を引き起こす、身を冷たく打つ死の雨だ。


 舞は、想像に背中の皮が攣るような気分がした。

「それで、アプス水はいつごろ大陸から流れ出すんですか」


 神流毘栖がチラリと振り返り、何を当然なことを聞くんだ、という顔をした。

「いつごろって、もう始まっているぞ。オーストラリアの沿岸部で塩分濃度が薄まって、アプス水濃度が高まる箇所が何箇所かある。おそらくだが、オーストラリアに穴が空いて、アプス水が流出しているんだろう」


 容器に穴が空き、水が噴出し始めているとなると、もう猶予はない。いや、手遅れかもしれない。


(世界が終わる)


 舞は神流毘栖が脅かしているのかと思いながらも、おそるおそる確認した。

「え、でも、まだ大丈夫なんですよね」


 神流毘栖は首を傾げた。

「さあ、案外もう、地球は駄目なんじゃないか。まあ、私は、いつ死んでもいいけどな」


 一瞬、艦内を仕事帰りの死神が通り過ぎたような静けさに包まれた。

 奇病に罹ったが、身体的悪影響はまだ出ていない。体は大丈夫でも世界には既に崩壊の予兆があった。私より先に、世界が終わるかもしれない。


 舞は艦内の空気を嫌い、何か言葉を発しようとした時、艦長が先に口を開いた。

 艦長が何か考え事をするかのように天井を見ていた。


「今、オーストラリアのWWO施設から悪い知らせが届いた」

 舞はブリタニア号の到着が遅すぎて、オーストラリアで大災害が起きたのかと思い、ゾクッとした。


「オーストラリア、キンバリー地区の地底湖にある、アプス水浄化プラントでの作業チームからの連絡が途絶えた。外に出て作業をしている人間も、プラント内にいるはずの人間からも応答が一切ないそうだ」


 最悪の事態ではないが、充分に悪い状況だった。

 ベッキーが、顔を曇らせ、すぐに口を開いた。


「まずいじゃないですか。キンバリー地区を管轄するダーウィンの施設には、アプス水の監視する人間が今は五名しかいないでしょ。今の状況じゃ、監視の仕事を手薄にはできない。それに、台風が来ていたのなら、他の応援部隊はまだ、港から出ていないでしょう」


 艦長が何を考えていたか理解した気がした。捜索に加わるかどうか考えていたのだろう。


 オーストラリア西部は地中海気候に分類されていたが、今では年中、雨が降っていた。


 オーストラリアの現在の気温は、夜でも十五℃を下回らない。遭難したのが陸地なら問題はない。外での遭難は危険だ。


 服装や、体格といった差はあるものの、水の中に落ちた場合、水温二十度での生存可能時間は十二時間程度。


 プラント内にいるはずの人間とも連絡が取れないとなると、最悪プラントが崩壊して、水中に投げ出された可能性もある。


 舞は気分的には捜索に参加してあげたかったが、言い出せなかった。

 ベッキーはなら、体力もあり、サバイバル術にも長けている。けれども、舞は素人、助けに言って遭難する可能性もある。


 状況を考えると、遭難すれば助けが来ない可能性が高い。どことも知れない真っ暗な地底湖は怖い。そんなところでは、死にたくない。


 舞が何も言いで出せないでいると、神流毘栖が艦長の前に歩いて行った。

 神流毘栖は近所に買い物にでも行くかのように、軽く発言した。


「あ、艦長。私、言ってもいいですよ。ベッキーはどうする」

 神流毘栖に意見を求められたベッキーは難しい顔して、仕方ないとばかりに返事した。


「いや、私も別にいいですけど」

 舞はベッキーの言葉に少々驚いた。てっきりベッキーは神流毘栖を止めると思った。


 リタが手を上げて、大きな声で意見した。

「私は、やめたほうがいいと思います」


 艦長がリタを見て、意見を述べた。

「私も助けに行きたいが、管理職である私が率先して、任務外の事案でクルーを危険な仕事に向かわせようとは思わない」


 四人が一斉に舞に視線を向けた。

 しくじったと思った。気が付けば、また二対二で、舞の意見待ちの構図になっていた。


 世界を核戦争に導く決断と比べれば、小さな決断かもしれない。が、今度は己の命はおろか、舞より若い神流毘栖や、艦長の命も握る決断を迫られた。


 どこか、遠くで戦争が起きて千人が死んでも、苦痛は感じないだろう。でも、目の前で親しくなった人が、舞の決断で死ねば、一生ついて回る。


 決断から逃げたいと思ったが、四人の視線が舞の決断を求めていた。

「わ、私も、助けに行ってもいいです」


 思わず言ってしまった。本当は安全だとわかっていても、地底湖なんかに行きたくはなかった。でも、言ってしまった。行くと。


 艦長が引き止めてくれるかと思った。が、艦長はすぐに決断した。

「よし、もう少しすれば、風は収まるだろう。捜索に向かおう。ただ、艦を無人にするわけにはいかないから、現地行きを希望しなかったリタは、残りなさい」


 リタはビシっと敬礼して、威勢よく言葉を発した。

「艦長、留守番、了解しました」


 舞はリタを見て羨ましく思い、後悔した。

(はは、私も無理せず、留守番にしたいって言えば良かったのかな)


 だが、もう「やっぱり残ります」とは言えない雰囲気だった。

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