第四章  亡霊の影と溶ける大陸

第21話 亡霊の影と溶ける大陸(一)

 双子鰐島に帰る途中、舞は艦長から、次のミッションについて聞かされた。

「次は、オーストラリア大陸の地下に貯まったアプス水を浄化するプラントに、研究用の資材を運ぶ」


 オーストラリアまで行くとなると、しばらくは、また潜水艦暮らしになる。このままでは、ベッキーや艦の皆に迷惑を掛ける事態になりかねない。


 舞は双子鰐島に着く前に、艦長室に行った。

「艦長、採用になったばかりで、申し訳ないのですが。出向までに時間があれば、その、休暇をいただけないでしょうか」


 採用されたばかりの舞は、休暇を申請するに当然、躊躇もあった。不許可になっても止む得ない、とも思ったが、言わなければわからない。


 艦長は舞いの申し出に、嫌味なく、あっさりと答えた。

「いいよ。手続きや装備の手配に一週間は掛かるから、一週間後に戻ってきてくれば」


 一週間は貰いすぎだと思った。

「一日で、いいんですけど」


 艦長はちょっと考えてから、立体ディスプレィで、なにやら確認した。

「じゃあ、三日にしなさい。四日後に、ちょうど潜水艦乗員用の訓練施設とベッキーのスケジュールが空いているから、都合がいい」


 潜水艦に乗り、魚雷で相手の艦を沈める事態がある以上、逆もまたあるだろう。いざというための訓練は、受けておいたほうがいい。


 舞は艦長の計らいに感謝したが。要望を付け加えた。

「すいません、艦長。私が艦を降りるのは、ベッキーに内緒にしてもらえますか」


 ベッキーが従いてきたら、せっかくの休暇が、休暇じゃなくなる。今は一人になりたい。


 艦長は舞の申し出を何の疑問を挟まず、受け入れた。

 双子鰐島は相変わらずの曇り空で、湿度は高い。だが、舞の感想は以前とは違うものになっていた。


 舞は背伸びして、空気を吸い込んだ。

「思いっきり背を伸ばして、手を広げてぶつからないって、いいわ。潮の香りも、なんだか懐かしい」


 舞は双子鰐島に一軒だけあるホテルにチェックインした。ホテルは円筒状の八階建て、外壁はニスを塗った木製。各階フロアーが動物や人の顔をかたどった抽象的な顔をしているので、トーテムポールのように見えなくもない。


 ホテルは主に、双子鰐島の医療施設に来る患者の家族や、研究者たちが来る場合に使われるらしかった。


 一泊の料金は安めだが、部屋は清掃が行き届いており、日本のシティホテルと同等のアメニティを備えていた。


 ガーファンクルの家に行けば泊めてくれるだろう。ガーファンクルを恨んではいない。


 結果として、舞は病室に閉じ込められる事態にはならなかった。多少は問題を抱えた人が勤める職場でもあるが、差別もない。


 だが、素直にガーファンクルには感謝できない意地のような気持ちもあった。

 チェックインした舞は、両親に電話するかどうか、迷った。ホテルの部屋には外線で国際電話が掛けられるテレビ電話があった。


 舞は両親に奇病の事実を話すのは気が引けた。両親に奇病を話して、ポロポロと涙を流す映像を見るのは、辛い。


 両親が泣けば、きっと舞も釣られて泣きたくなる。泣けば不幸がやってくる気がした。

「たとえ死が近くにあっても、泣かれるのも泣くのも嫌だな」


 苦しみの実感が湧けば、心境も変化するが、今はまだ泣きたくなかった。

 舞はいっそ感情を交えず、テキスト文だけのメールで済ませようかと思った。が、途中でメールを打つ手を停めた。


(いや、文字だけはやめよう、ひょっとしたら、今回の会話が最後になるかもしれない。できるだけ自分の言葉を使って説明しよう。お父さんや、お母さんに対する娘としての義務だわ)


 舞は覚悟を決めて電話をすると、両親は電話を待っていたのか、二人とも家にいた。


 画面が二分割され、父と母が写った。

 普段から家族思いで、働き盛り技術者の父、たける。料理が得意で話好きの陽気な母、美咲みさ


 少し前までは、当たり前だと思った両親の顔が、そこにはなかった。

 両親は無理に笑顔を繕わず、悲しまずに舞を見たが、平常心ではないのは明らかだった。


 舞は悲しそうな顔はすまいと心に誓い、口を開いた。

「私、奇病になっちゃった」


 父の顔に、静かな悲しみが浮かんでいた。いつも元気だった父親の顔の皺が気になった。


 父は溜息でもつくかのようにゆっくり答た。

「知っているよ。ガーファンクルおじさんから、聞いた」


 奇病についてちゃんと説明しようと思っていたが、父の言葉を聞いて、奇病について話せなくなった。


 奇病について話せば、よけいに父や母を苦しめる気がした。舞は奇病については話題にするのを避けた。


 奇病の話を避けたので、話の内容は、舞の近況と職場の人間関係に限定された。

 会話は一時間に及んだ。内容はありきたり。


 時折、笑いがあったけれど、話好きな母はほとんど喋らなかった。代わりに、いつもはあまり話さない父が、話し相手になってくれた。


 両親は内心どうかはわからない。電話で話した限りでは、心配はしていた。だが、思いつめたほど、深刻にはなっていなかった。


 舞はガーファンクルに感謝した。

(ガーファンクルおじさん、何度も何度も、両親の気が済むまで説明してくれたんだな)


 ガーファンクルなら、もし舞が死ぬ結果になっても、両親の悲しみを受け止めて、心の苦しみ半減させてくれるだろうと思った。


 奇病になった以上、死は避けて通れないが、やはり両親は悲しませたくなかった。

 友人に電話すると、友人たちは急に舞がいなくなったので、心配していた。


 友人には「突如、世界を見たくなって、休学して旅に出た」と嘘を吐いた。

 他愛もないお喋りは記憶に残らない。でも、心の底に溜まった滓とともに消えていった


 舞は感じた。

「大丈夫。また、潜水艦に乗れる。私にはブリタニア号が必要なんだ」


 夜、ホテルのベランダから夜空を見上げた。

 相変わらず雲が出ているので、星は見えなかった。けれども、雲を通して、ぼんやりと朧月が見えた。


「月なんて気にしたことなかったけど、朧月もいいものね」

 朧月を見ながら一人きりの部屋で、遅れた二十の誕生日を祝った。


 舞はメニューを見て、紫色が好きという好みからカクテルのブルー・ムーンをルーム・サービスで注文した。


 淡い紫色のブルー・ムーンはジンの苦味とレモンの酸味が、ほどよくマッチしていた。少量加えられたジンジャーエールの仄かな甘味が、またよかった。


 ブルー・ムーンを飲みながら、夜空に浮かぶ朧月を見て、ぼんやりと休日を過ごした。


 舞は残りの休日を島で遊ぶのに使った。晴天日が年に六十日以下という双子鰐島だったが、快晴とまではいかないが、運よく外は晴れていた。


 外では手足が自由に伸ばせ、汗が掻け、風や空気に匂いがあった。どれも、潜水艦に乗る前と比べて、爽快に感じた。


 舞はとにかく体を動かしたかった。大声で叫びたかった。理性がどうのというではない。頭で考えても解決はしない。実にならなくてもいい、ただ、遊んだ。


 発見もあった。双子鰐島には島の大きさのわりに、小粋な洋食屋や、小さなビストロが多くあった。


 舞は潜水艦での憂さを晴らすために、食事は鮮度にこだわって少し高めの料理を頼んだ。


 潜水艦での野菜や果物は不味くはない。が、近くの島の農場で栽培された、新鮮なもぎたての果物は、やはり味が違った。潜水艦では味わえない気分が、陸にはあった。


「暗い深海に潜る前の鯨も、こんな気分なのかな。洋上の気を取り込んで、よしやるぞって、海に潜らなきゃ、やってられないわ」


 舞は夕暮れに染まる空を見ながら、誓った。

「よし、明日から、また頑張ろう」

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