第8話 働く前から限界かもしれない(三)
舞は初めて潜水艦の中に足を踏み入れた。艦橋セイルの中は空洞で、下に向かって梯子が伸びていた。
潜水艦の中は獣の巣穴のように狭いかと思った。が、一人で歩く分には狭くなかった。
確かに、大の男がすれ違うのは窮屈かもしれない。でも、ベッキーと舞なら、問題なく擦れ違えるスペースがあった。
「潜水艦の中って明るいんだ」
「通常時は、明るいよ。もっともミッション中は、状況によっては明かりを落す事態もあるけど、真っ暗にはならないから」
艦内の空気は外と違い、磯臭くなく、清浄で心地が良い。湿度も温度も快適だった。
舞は潜水艦の内部に、もっと古びた地下ボイラー室のように空気が淀んで暗いイメージを持っていた。だから、正直かなり驚いた。
「潜水艦って、意外と清潔なのね」
ベッキーは快活に答た。
「ははは、正直だね、舞ちゃん。ブリタニア号の空調は最新式だからね。もっとも、第二次世界大戦の艦は、熱と湿気が篭って、かなり不快だったらしいよ。機械の臭いも、ひどかったって海兵の手記にあった。まあ、そんな中に、百人近くの男連中が乗るってんだから、地獄だよね」
「潜水艦って、動かすのに結構な人が必要なんだ」
ベッキーの話と違い、艦には全く人気がなかった。
「昔はね。魚雷だって手動で装填したし、レーダーやソナーにも絶えず人が張り付いていなけりゃならない。三交代制だから、常時、動かすには、人も三倍必要だったわけ。まあ、ブリタニア号なら、移動だけを考えれば、無人でも可能。魚雷だって停まっている目標になら素人でも当てられるよ」
情報技術の進化によってもたらされた無人化は、時代の流れでもあった。無人化は戦艦や兵器についても例外ではなく、陸、海、空と、軍の大半に及んでいた。
「ああ、聞いたことある。全自動AI艦ってやつでしょ。ブリタニア号もそうなの」
「うーん、ちょっと違う。ブリタニア号は最新艦なのに、完全AI制御時じゃないんだ。なぜだか、わからないけど」
ベッキーは扉を開けて、舞を歩いてすぐの場所にある発令室に招き入れた。
発令室はクリーム色を基調とした壁に、大きな半円形の机が七個。机には会社の重役が座るような背の高い椅子が備え付けられていた。
部屋の奥には、一段高い場所に大きな半円形の机があった。おそらく艦長の椅子だろう。
「へー、意外とシンプルなんだ」
「こんなにシンプルになったのは、ここ最近かな。昔は各個人が狭い椅子に座って、壁にある多くのモニターを眺めながら、いくつものスイッチを操作していた」
舞に背を向けている椅子の一つが、ゆっくり回転した。
椅子には、髪も肌も真っ白な髪をツインテールに結んだ、中学生くらいの少女が座っていた。
少女の肌は異常に白く、正にアルピノという言葉がピッタリだった。
(おそらく、奇病で肌の色素が抜けてしまったのね)
少女は「どうも」と軽く会釈をした。少女は見知らぬ人にクラスメートに挨拶でもするかのように、それだけで押し黙ったので、舞から挨拶をした。
「若水舞です。今日からここで一緒に働くことになりました。よろしくお願いします」
少女の代わりにベッキーが少女の椅子の肩の部分を掴んで紹介した。
「この、ちょっと変わった。小さいのが
神流毘栖と呼ばれた少女は舞の時とは違い、すぐにベッキーに視線を向けて声を上げた。
「小さい言うな、三十路変態」
ベッキーが明るくカンナビスに抗議する。
「ああ、新人の前で変態とか言うなー」
カンマビスはプイと横を向き、ぶっきらぼうに言い放つ。
「だって、そうじゃん」
「それに私は、まだ二十八だ。三十路じゃない」
「でも、人生は、私の二倍近く生きているじゃん」
あくまで明るく怒るベッキーと、ちょっと拗ねた子供のような神流毘栖のやりとりに、舞は和んだ。
(神流毘栖って、きっと人見知りなのね)
舞は、さりげなく話題を振った。
「神流毘栖って、変った名前ね、出身はどこなの」
舞の問いかけにベッキーが変わって口を開いた。ベッキーの表情は柔らかいものの言葉にどこか悲しみと優しさが望んでいた。
「神流毘栖は舞ちゃんと同じ、日本人だよ。変わった名前なのは、神流毘栖が自ら役所に申請して改名したせい」
(子供で改名? おそらく何らかの事情があるのね。何か辛い事件があったのかしら)
いや、奇病を発症した時点で、すでに辛い目に遭っているのだ。もしかしたら、病気で両親に捨てられたのかもしれない。
舞の目の前に、立体ディスプレィが現れて《神流毘栖 麻》と表示された。立体ディスプレィの向こう側から神流毘栖の声が聞こえた。
「新人。字は、そう書く。これからは神流毘栖と呼べ、舞」
神流毘栖の言い方には少し横柄なトーンが滲んでいた。が、舞は気にしない。
(相手は年下だけど、向こうが先輩だからいいか)
「はい、よろしくお願いします。神流毘栖」
立体ディスプレィが消えて、神流毘栖が鷹揚に頷いた。
舞は神流毘栖の交流を深めようと、会話を掘り下げた。
「一つ質問、いいですか」
神流毘栖が職場の冷たい先輩が後輩を疎ましく思うような顔で、素っ気なく答えた。
「なんだ。新人、言ってみろ」
「神流毘栖の由来は、なんですか」
神流毘栖は冷たく突き放すよう言葉を投げ掛けた。
「すぐに答えを求めるな、まずは自分で調べろ」
舞は、脳内のマイクロ・マシンを利用して、『カンナビス』で辞書を引く。即座に大麻がヒットする。
(え、た、大麻?)
舞は驚き、他の意味はないか漢字で検索すると神流川と神流湖が出てきた。
(でも、地名って感じじゃないけど)
もう一度、検索エンジンを変えて再検索するが、やはり、神流湖幽霊スポットと、大麻関係の言葉が多くヒットする。
舞が答えられずにいると、神流毘栖が尋ねた。
「どうだ、わかったか」
「はい、わかりました。貴女の名前の由来は幽霊スポットか大麻ですね」とは初対面の相手には流石に言えなかった。
舞が答えられないと、神流毘栖は告げた。
「なんだ、まだわからないのか。カンナビスとは大麻だ。大麻の学名はCannabis sativa 有効成分はカンナビノールだ」
神流毘栖は自分の名前の由来を大麻だと認めた。
「え、でも、なんで名前に」
神流毘栖は当然だと言うように答えた。
「好きだからだ。悪いか。人の嗜好を否定するな」
「でも、大麻の服用って、いけないことじゃ――」
舞の言葉を遮り、神流毘栖を擁護するようにベッキーが口を挟んだ。
「あ、舞ちゃん。神流毘栖は、法的に医療用カンナビノールの使用を認められているんだよ。だから使用自体は違法じゃないんだ」
「そうだぞ、今もやっているぞ」
神流毘栖が服の胸の部分を下げると、黒い薬剤パッチが貼ってあるのが見えた。
(ちゃんとした薬剤パッチだ。ということは、痛み止め?)
ベッキーが口早に話題を変えるように、神流毘栖に尋ねた。
「神流毘栖、艦長は」
「艦長室じゃないか」
「そうか、じゃあ、舞ちゃん。艦長に会いに行こう」
ベッキーは神流毘栖から逃げるように、そそくさと歩き出す。舞はベッキーの後を追った。
ベッキーは少しの間黙って歩いていた。声が発令室に届かない場所まで来ると、立ち止まって口を開いた。
ベッキーは悩みと辛さが混じったような表情を浮かべ、舞に弱い声で尋ねた。
「舞ちゃん、神流毘栖に驚いた?」
正直なところ、舞は神流毘栖に驚き、かなり戸惑っていた。
(麻薬を医療用に処方されている理由は、奇病が神経を冒して、絶えず痛みに襲われているのかしら? だとすると、神流毘栖は、もう末期症状が出ていて長くない)
神流毘栖が末期なら、他人事ではない。いつか舞の身にも降り掛かる事態だ。
舞は声を小さくして、思わず聞いてしまった。
「ひょっとして、もう、長くないの?」
ベッキーは振り返ると、幼子にわかりきった嘘を吐かれた母親のような、困った表情を浮かべていた。
「いや、神流毘栖は肉体的な苦痛は、ないと言っているよ」
舞は意外な事実を知り、ベッキーに抗議した。
「え、それじゃあ、なんで。神流毘栖は、まだ子供でしょ。もし、興味半分にやっているなら、止めないと」
ベッキーは強い意志の篭った口調で、舞に釘を刺した。
「舞ちゃん。神流毘栖は、確かに子供だ。けどね、奇病を発症した時点で、未来があるとは限らないんだよ」
ベッキーは少しだけ辛そうに話した。
「正直に言って、神流毘栖は、私と同じ年齢までは生きられないと思う。神流毘栖も覚悟を決めているのか、いつ死んでもいいって、よく言っている」
「だからって、痛みもないのに、麻薬って」
ベッキーは初めて悲しい顔をした。
「痛みなら、あるよ。苦しいよ、舞ちゃん」
舞はベッキーの言葉を聞いて、ベッキーの明るさが、実は辛さの裏返しではないかと感じた。
ベッキーは乾いた悲しみを浮かべて、言葉を続ける。
「神流毘栖も私も、いつ死ぬか一切わからない。けど、終末は、そんなに先じゃないよ」
なんと言っていいかわからない。が、沈黙は耐えられない。
舞の口からは当たり障りのない励ましの言葉が出た。
「でも、諦めたら、お仕舞いよ」
ベッキーは軽く首を振った。
「諦めたら、じゃない。認めたら、だよ」
ベッキーは言葉を一度、重々しく切ってから、臨終間際の病人が息を吐くように口を開いた。
「私は、もう認めているよ」
認めていると宣言するベッキーの態度から舞は目を背けたかった。
目の前にいるベッキーの姿は、来るべき日の舞の姿を映しているように思えた。
ベッキーの様子が先ほどの明るい様子から一転した。先ほどのベッキーが昼の市場なら、今のベッキーは夜の荒城だ。
青いベッキーの目に宿った光が、瀕死の虫けらのように揺れた。
「一緒にいる人間が急遽病院に搬送され死んでいくのを、見続ける。そう、まるで、もう死神が運命を認めるように、何度も何度も、しつこく迫ってくるんだ」
ベッキーは薬物の禁断症状が出たように震え、目が異世界を見ているように強張った。
「ふ、振り払っても。ふ、振り払っても、従いて来るんだよ」
「しっかりして、ベッキー」
ベッキーは見えない何かを振り切ように手を振り払い、叫んだ。
「しっかりしろだって、もう無理だよ!」
舞はベッキーの変貌ぶりに驚き、戸惑い、怖れた。舞にはベッキーをどう励ましていいのかわからない。
わからないから、恐ろしかった。正直なところ、今この場から逃げたいと思った。
だが、逃げたくても行き場はない。舞は、どうにか自らを自制しようとした。しかし、頭が書き乱された。
舞が混乱の沼に嵌りそうになっていると、どこからか甘いカモミールのような香りを感じた。
数秒後に、少年の声がした。
「お取り込み中のところ、申し訳ないが、ちょっといいかね、ベッキー」
ベッキーが少年の声に驚き、振り返った。
いつの間にか、ベッキーの背後に子供らしき人物が来ていた。ベッキーが「艦長」と小さな声を出した。
ベッキーと、艦長と呼ばれた人物が向かい合う。向かい合った二人は何も言わない。沈黙が艦内に流れた。
沈黙はおそらく二十秒に満たなかったが、舞には長く感じられた。
先に口を開いたのは、艦長だった。
「もういいかな、ベッキー」
「あ、はい」
ベッキーが道を空けたので、艦長の姿が、はっきりと見えた。
艦長は、中学生に上がりたてくらいの少年に見えた。顔は丸顔。肌は東南アジア系の褐色で、黒い瞳をしていた。
奇病感染の影響か、細い眉と髪は真っ白だった。
艦長は子供だが、舞は艦長に年齢以上の落ち着きというか、貫禄のようなものを感じた。
艦長は舞を見ると、挨拶した。
「こんにちは、舞君。私が、ブリタニア号の艦長兼双子鰐島WWO奇病対策四課の課長。名前はアマルティ・ガンジー。皆は、ただ艦長と呼んでいるがね」
どうやら、艦長とはニックネームではなく、きちんとした役職名らしい。
(奇病対策四課は逆年功序列なのかな。それとも、艦長は病気で若返ったとか)
どちらにしろ確実なのは、艦長は上司だという事実だ。
舞は挨拶を返した。
「今日からお世話になります。若水舞といいます。よろしくお願いします」
「いい返事だ。君の評価や奇病の詳細についてもガーファンクルから詳しく聞いている。耐圧検査、副鼻腔X線検査、奇病特性に問題はない、働きに期待する」
艦長は体を横にすると、舞とすれ違い、発令室に向かって歩いていった。
ベッキーが先ほどの取り乱しなど一切なかったように話し出した。
「今のが、艦長。年齢は神流毘栖より一つ若いけど、ブリタニア号の責任者だよ。私たちの上司。ちょっと気難しそうな所があるけど、いい人だよ」
舞はベッキーがさっきの異常な精神状態に戻るのが怖くて、口早に何気ない質問をぶつけた。
「ね、ねえ、耐圧検査って、何?」
「潜水艦は、シュノーケルって言って、空気を取り込む行動があるんだよ。空気の取入れ口には弁がついていて、潮を被ると急に閉じる。すると、艦内で急減圧現象が起こって、鼓膜が破れたり、体に変調を来したりするんだ。だから、気圧に対する適性を見るのに、タンクに人を入れて減圧を行うのが、耐圧検査」
「副鼻腔X線検査は?」
ベッキーはもう、会った時の明るいベッキーに戻り、スラスラと会話を続けた。
「人間の鼻の中には鼻中隔と呼ばれる部分があって、多少、湾曲しているんだ。大多数は無症状。でも中には、湾曲の度合いが強いと、鼻の通りが悪い人もいる。鼻の通りが悪いと、耳抜きがうまくできなくて、気圧の変化に適応できないんだ。まあ、もっとも昔はともかく、今は気圧の変化も、ある程度まで機械が緩和してくれる。だけど、完全ってわけじゃない。だから一応、潜水艦乗りは鼻のX線写真を撮って検査するんだよ」
舞は気が付いた。
(やっぱり、ブリタニア号に乗せられるのは、仕組まれていたんだ)
両方の検査を受けた記憶がない。なのに、結果が出ている。つまり、検査は舞が寝ている間にガーファンクルが行ったのだ。
(夢で棺桶に入っていた姿を見たのは、案外耐圧検査タンクに入っていたのが原因かもしれないわね)
ベッキーと話していて、ベッキーがすっかり元の調子に戻ったので安心した。
舞は平常心を取り戻した。すると、ベッキーの豹変ぶりについても受け入れられた。
確かに、ベッキーの変わりように少し驚いた。が、大きな問題ではない。
(私と同じく、皆、問題を抱えているのよ)
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