第4話 私は病気なのでしょうか?(四)

 明るい部屋で一人になると、舞はとても落ち込んだ。

 平敦盛は「人間五十年。下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり」と言ったらしい。だが、舞はまだ二十年しか生きていない。


 部屋の扉が開いて、白衣を着て長い髭を生やした白人の老人が入ってきた。舞は老人の顔を見て驚き、次いで安心し、最後に涙が出てきた。


 老人は医師であり、物理学者、名をアイザック・ガーファンクルと言う。ガーファンクルは舞の祖父の友人で、舞の家によく出入りしていた。


「ガーファンクルおじさん」

 ガーファンクルは舞に優しく微笑んだ。


「久しぶりだね、舞。高校の時以来だから、約二年ぶりかな」

 ガーファンクルはポケットからハンカチを出すと、舞に渡した。


 舞は涙を拭いながら、尋ねた。

「私、死ぬの? 正直に教えて」


 ガーファンクルは舞の横に腰を下ろした。

「舞は急性型のⅠ型ではないから、すぐに死ぬことはないよ」


 不安な心を打ち明け、ガーファンクルに縋るように尋ねた。

「私、あと、どれくらい生きられるの」


 ガーファンクルは寂しげな表情で答えた。

「正直なところ、わからない」


 ガーファンクルがわからないと言えば、本当にわからないのだろう。

「それで、どういう症状」


 ガーファンクルは真剣な面持ちで説明した。

「舞が罹っている病気は、ゼロ質量素粒子による確率現実症という症状だよ」


 アプス水は原子プログラム技術により、ゼロ質素粒子を加えて作られていた。水分子奇病には、アプス水に含まれるゼロ質量素粒子の数と配置が大きく関係している。


「具体的に言うと、舞の症状は確率的に極僅かだが起きてしまう確率があるのなら、周囲にゼロ質量素量子が反応して物事が起きてしまう病気だ」


 舞はガーファンクルのもっともらしい説明を一度は受け入れた。虎との対峙、襲撃による恐怖、死の病に罹っているという考えに囚われ、舞の心と頭は弱っていた。


 今の舞は、身内の死後に病院の紹介でやってきた葬儀屋に、高額な葬儀の契約を勧められ、判を押す親族の心境に近かった。


 でも、若い舞の判断力は完全に失われていなかったのですぐに、疑問が湧いた。

「うん? ちょっと、待って」


 舞はガーファンクルの説明を頭の中で反芻する。

「それって、病気? 確率的に起こり得る事象が起きるのなら、普通のこと、だよね?」


 ガーファンクルは曖昧に笑った。

「舞は、賢い子だね」


 舞は激しく食ってかかった。もし、今の状況が誕生日の余興で何かの冗談だとしても、もう笑って済ませられる状況ではない。


「ちょっと、誤魔化さないで、ガーファンクルおじさん。私が病気ってのは嘘だったの」

 ガーファンクルは、マイペースに話を進めた。

「舞、WHO(世界保健機構)の健康の定義って知っているかな」

「定義とか、そういうのは、どうでもいいの。私は健康なのね。病気は嘘だったのね」

 ガーファンクルは流暢な英語で、ゆっくりと発音した。


「Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.」


(訳)健康とは全くもって、身体、精神、社会的に良い状態であり、単に病気ではない、虚弱ではない、という状態ではない。


「いや、だったら、私は健康でしょ」

「定義では、社会的に良い状態、とある」


「社会的にも問題ないわよ。ここに入れられた状況が問題よ」

 ガーファンクルは舞を宥めながら、話をした。


「では、こうしよう。舞の家の隣に、旧式の低濃縮ウラン燃料を使用する加圧型原子炉があったと仮定しよう」


 舞は驚いた。

「私が周囲にいると、事故が起きるのと言いたいの」


「そうは言えない。また、舞の病気は舞一人しか罹ってないから、統計も取りようがない」


 立ち直った舞は、もう簡単には騙されなかった。

 舞は敏腕弁護士の如く異議を唱えた。


「待って、ガーファンクルおじさん。私が初めの一人なら、なんで病名が付いているの。まるで、SFで宇宙船の乗員Aが『星図にない○○星を発見しました』って言うのと同じじゃないの。星図にないなら、名前はないでしょ。私が最初の一人なら、病名が既にあるのは、おかしいでしょ」


 ガーファンクルは事もなげに発言した。

「あーあ、それか。病名は私が五分くらい前に考えた。もっとも、最初の発見者である私自身の名を取って、ガーファンクル病にしても良かったんだが。もう、名声を追い求める年でもないから、適当に付けたよ」


 舞はガーファンクルの説明に、いよいよ納得がいかなかった。

 ガーファンクルが家に遊びに来たとき、昔はよくゲームをした。ガーファンクルは頭が良いだけでなく、老獪で、スキを見せるとズルをするのだ。


 舞はガーファンクルに騙されるものかと、改めて自分自身に言い聞かせてから、さらに追及する。


「いいわ、わかった、わかったわ。病名の件は百歩譲って、いいとするわ。じゃあ、未知の奇病に罹った最初の一人なら、症状はどうなるか、わからないはずよね。なのに、ガーファンクルおじさんは症状を具体的に述べた。これは、どういうこと?」


 ガーファンクルは舞の指摘に対し、優秀な小学生を褒める祖父のような笑顔で返答した。


「舞は本当に賢い子だね。大抵、奇病を告知された患者は、突然のことで頭が感情の飽和状態になり、思考が停止する。患者は最初の内は、医者の誘導に素直に従うんだが」


 舞は声に精一杯の皮肉を込めた。

「いい患者じゃなくて、悪うございましたね」


 ガーファンクルは何か素晴らしい提案でも思いついたかのように、舞に語り掛けた。

「よし、わかった。舞を信用して、特別に世界的機密情報を教えよう」


 舞は絶対に騙されないよう、限りなく黒に近い灰色の容疑者を見る刑事のごとく、注意を払った。


「実は舞が確率現実症に罹った初めの一人というのは、嘘だ」

 ガーファンクルの言葉に面食らった。


「な、いきなり、嘘って――」

 ガーファンクルは舞の言葉を遮って、話続けた。


「いいから聞きなさい。舞の罹っている病気は、実は二人目なんだ。最初の一人は、若水守。そうだ。舞の祖父だ。私の友人サハロフが、守の病気を研究していた」


 祖父の名が出たのは、意外だった。

「え? でも、お祖父ちゃんは事故死したって、お父さんが――」


「守は、正確には事故死ではない。確率現実症に罹ったために、世界から抹殺されたんだ」


 話の流れから判断すれば、胡散臭いことこの上ない。ただ、ガーファンクルの放つ雰囲気は、先ほどとは違い、どこか真実が含まれている気がした。


 ガーファンクルは、静かに言葉を続けた。

「残念だが、今は、これ以上は教えられない。もちろん、私は舞の味方だ。とはいえ、二人目の確率現実症が現れたという情報が広がれば、舞に危険が及ぶ」


「確率現実症って、そんなに危険なの」

 ガーファンクルは髭を撫でながら、あやふやな学説を検証するように、話し続けた。


「一つ、面白い話をしよう。各種分子が化学反応を起して人間のようなDNA配列を持つ生物を創った、という仮説だが、確率から計算すると、どうも、四十億年くらいでは、人類の発生は起きそうもないんだよ。だが、ゼロ質量素粒子による確率変化で考えると、説明がつく」


 舞には確率的に正しいかどうかわからない。だが、確かに地球上に人間が存在するのは不思議な事実だと指摘されれば、共感できないこともない。


 ガーファンクルの心の中はわからない。


 舞はガーファンクルが半分くらい誇張していると思った。とはいえ、全く嘘を言っているとも思えなかった。


 舞は疑いを隠さすに、ガーファンクルの言葉を真偽も見極めようと問いかけた。

「つまり、確率現象症は、この世界に何か大きな変化をもたらす?」


「変化は、必ずしもプラスになるとは限らない。今、世界は危ういバランスの上にある。ちょっとした弾みが、世界を滅ぼす事態になりかねないんだよ」


 果たして、確率現象症は本当に存在するのだろうか? 世界を滅ぼすかもしれないと言われても、全く実感が湧かないし、信じられない。


 おそらく、奇病に感染しているのは間違いないだろうし、すぐに死が訪れる状況にもなりそうもない。だが、問題ないとは言い切れない。


 ガーファンクルは舞の悩みを察したのか、優しく声を掛けてくれた。

「まあ、時間はある。ゆっくり考えたらいい」


 舞は揺れ動く気持ちを素直に表明した。

「ガーファンクルおじさん。治療は、しなきゃだめ?」


「病気の治療は権利だよ。だから、舞は拒否してもいいんだよ」

 舞はガーファンクルの瞳に、病気の子供を見守る老医者のような優しさを感じた。 舞は少し気分が楽になった。

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