第2話 私は病気なのでしょうか?(二)

 長身の人物が銃を降ろして、舞に近付いてきて、声を掛けた。

 長身の人物の声も、明らかに若い女性のものだった。


「大丈夫ですか。怪我はありませんか。水分子奇病に罹ったホワイト・タイガーを、この先の大学に輸送中に、輸送車両が事故を起こしてしまいまして」


 舞が通う大学には環境学部の中に獣医学科がある。毎日のように水分子奇病に罹った、犬、猫、牛、豚、鶏が運ばれているのは知っていた。


 おそらく、死んだ虎も、どこかの動物園から大学に運ばれる途中だったのだろう。

 長身の人物は、職務的に舞の身を案じているように、言葉を続けた。


「対象である虎に触ったり、唾液の飛沫とか浴びたりしませんでしたか」

 助かったと思った。倒れている虎との距離が急に伸びて、安全なように思えた。


 舞は肩から力が抜けたが、へたり込む姿を見せないだけの虚勢は、まだあった。

 虎には、噛まれもしなければ、息を吹き掛けられてもいない。だとしたら、感染の問題もない。事情聴取に付き合うより、早く家に帰りたかった。


「大丈夫です。接触とか何もないですから。雨に当ると良くないので、じゃあ私は、これで失礼します。ありがとうございました」


 厄介ごとになる前に、一礼して場を去ろうとした。舞が一礼したとき、長身の女性の防護服の目の部分から、相手の青い髪が見えた気がした。


(青い髪? 見間違いかしら)


 帰宅途中に雨は更に激しさを増した。業務用皿洗い機の中でも、ここまで激しくはない、と思えるほど激しさで雨が降っていた。


 道路のどこかしこでも、激しく落下する水滴が道路で砕ける。まるで、道路に小さな穴があり、水が噴出しているかのようだった。


 日本の緯度は、地理的には中央アジアのゴビ砂漠より南、北アフリカと同じくらいに位置する。が、日本は日本海からの湿った空気とモンスーンにより年間を通して雨が降る。


 元々、雨に恵まれた日本だが《セカンド・ノア》以降、大気中に残存するアプス水の影響で、激しく雨が降る日が増えた。


 世界が環境制御用アプス水を投入し、《セカンド・ノア》終結宣言を出してから二十年が経っても、世界に残った傷跡として激しい降雨は健在だった。


 雨の中をたっぷり十五分ほど歩き、舞は自宅のアパートに帰った。静脈認証の扉を開けると、フローリングの床がずぶ濡れなのに構わず、舞はリビングに大股で歩いていった。


 水分で重さが倍になったバッグを舞は床に落とした。

「大学からの帰り道で、虎にばったり出くわすなんて、最悪の誕生日になったわ」


 雨に打たれ続けたせいで、体がとても冷たいことに、舞は初めて気が付いた。

 舞は風呂に入ろうと思った。直後、留守中に誰かが家に侵入したような違和感を持った。


 リビングのガラスが割れる音がした。

 振り向くと、リビングにある大きな窓ガラスが割れ、何か黒い物体が飛び込んできた。


 次の瞬間、耳を覆いたくなるような大きな破裂音と同時に、強烈な閃光が黒い物体から放たれた。舞は耳を両手で塞ぎ、目を閉じた。


 部屋の中にいくつもの何かが、投げ込まれる気配がした。

 耳を塞いだまま、舞はすぐに外に出ようとした。


 ところが、たった今、入ってきたばかりのドアが開かない。

 ドアはオート・ロックなので、家に入った段階で自動的に施錠される。鍵は内側から簡単に開くはずだ。誰かが細工したのでなければ。


 安心から一転、舞は恐怖に襲われた。が、恐怖はすぐに強制退去となった。

 意識と体が切り離されたように、舞の体は動かなくなった。体が動かなくなると、舞の意識は、夕日が地平線に落ちるように、ゆっくりと沈んで行った。


 玄関の扉が開いた。黒いベールと帽子で顔を隠した喪服姿の人間が次々に入ってきた。


 喪服の男は舞の瞼を無理やり開かせると、ペンを舞の瞳に翳した。買い物をしてレジでバーコードを読み取るような小さな音がし、白い光が目に飛び込んできた。


 ペンから発せられる眩しい明かりに、舞は目を閉じたかった。が、舞はもう瞼にすら、力が入らなかった。


 喪服の男から声がした。

「対象をⅢ型感染者、若水舞と確認」


 感染? Ⅲ型? 喪服の人物が何を言っているのかが皆目わからない。ただ、相手の喪章に、WWOという白い文字のみ確認できた。


 視界が暗くなって行き、自分の意識がどこかに去ろうとしているのを、舞は感じた。


 喪服の男が何かを喋っているが、もうよく聞こえない。ただ「今日で二十歳」という言葉から、喪服の男は舞のことを話していると思えた。


 舞は最後に喪服の男から「助からない」という言葉を、はっきり聞いた気がした。

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