Strange Disease ~世界に降る雨~

金暮 銀

私は病気なのでしょうか?

第1話 私は病気なのでしょうか?(一)

 どんよりと曇る空の下、若水わかみずまいは、大学からの帰り道を、足早に歩いていた。


 図書館で、古い文献を調べていたので、帰りの時間は中途半端に遅くなった。日没までは、まだ少し猶予があった。


 大学から少し歩けば自然の豊かな森があり、構内に鹿や狐が出るような郊外にあった。


 大学から借りているアパートまで、徒歩で約三十分。いつも、使っている赤いストライプの折り畳み傘は、午前中に紛失したので、雨が降る前に帰り着きたかった。


 道は右手が原生林で、左手は閑静な一戸建て建売が並ぶ住宅街。

 辺りに二階建て以上の高い建物はなかった。スーパーや、小学校、病院の施設は離れた場所にあるので、道は普段から人通りはなかった。


 それでも、警察の無人警戒車が定期的に警備し、街灯が整備されているので、安全な道――のはずだった。


 いつも通るT字路を、足早に歩いていた。T字路の横から、白い大きな物体が、道の中央に移動してきた。


 舞は最初、宅配用の無人車両だと思った。数秒で相手が、生物だと知った。

 大きな真っ白な体躯に、鋭い眼光。目の前に現れたのは体重三百㎏はある、ホワイト・タイガーだった。


 すぐに足が止った。同時に、虎も動きを停めた。

 鋭い牙の間から吐き出される息が見えた。虎が作り物ではないのは明白だった。


 虎の眉間に皺が寄った。明らかに虎の気が立っているのがわかった。

 なぜ、虎が道路を歩いているのか。考える余裕はなかった。


 虎から目を離さなかった。緊張で喉が鳴った。体が強張った。下手に動かないよう、懸命に努力した。


 動物園で強化アクリル越しに見る虎とは全く違った。眼前の虎は、野生の物ではないだろう。それでも、充分に迫力があった。


 虎までの距離は十m弱。背後を見せたとする。きっと、十秒足らずで、あの世行きだ。今日の二十歳の誕生日が命日になると思った。


 虚勢でも、睨みつけなければ、死ぬ。

 車や人が通りがかることはなかった。虎も舞も、静止したままだった。


 パラパラと、雨が降り出した。舞の短めでボーィッシュな髪が濡れていった。

 虎と睨み合い、気が付いた。虎はどこか苦しそうに見えた。


 苦しそうだが、同情する気は一切ない。気の緩みは、命の綱を放すことになりかねない。


 雨が強くなってきた。雨垂れが目に入った。

 瞼に力を込め、少しでも目を閉じないようにした。いつまでも睨み合いが続きそうだったが、終焉は急にやっていた。


 虎の顔が悲しそうに緩んだ。灰色のアスファルトの上に、虎がゆっくりと倒れた。

 舞は緊張を緩めなかった。急に走り出したりもしない。


 横たわる虎をじっと見つめた。虎が突然死したのだと、直感的に思った。

 舞の耳に、背後から、人の走る足音が聞こえてきた。


 振り返ると、全身を紺色の防護服で全身を包んだ、二人組が舞に走り寄ってきた。

 二人の防護服の胸にはWWOの白い文字があった。


 WWO(World Water Organization=世界水機構)とは世界を襲った世界的な水不足と、その後で人類が起した大洪水セカンド・ノアの対処するために作られた水問題を解決するための国連の機関。今では小学校の社会科で習うほど一般的な組織だ。


 防護服を着た長身の人物は、油断なく倒れた虎に銃を向け、中学生のような小柄な人物が、虎に近付いた。小柄な人物は懐中電灯のような機械を虎の背中に押し当て、頭のほうへとなぞって行く。


 小柄な人物から、雨音に混じって女性の声が聞こえた。

「目標、既に死亡。発病から死亡まで三十分に満たない点から、Ⅰ型感染個体と思われます。死因は急性のアプス水中毒よるものと推定、回収班と防除班を回してください」


 舞は虎がなぜ急に倒れたのかは理解した。


 人類は急増する水需要に応えようと、降雨を人工的に操作できるアプス水という水を作ったが、アプス水は《セカンド・ノア》と呼ばれる大洪水をもたらしただけでなく、生体内に入り込み、水分子による奇病も生み出した。


 生物にはウィルスのような高分子に対する免疫があったが、水分子のような低分子に対する免疫は持っていない。


 水分子奇病は治療法がなく、確実に死ぬのが世界の常識。発病の先にあるのは死だけ。

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