第二四八編 不信

「(ああ……入りたくねえ……)」


 俺はバイト先の喫茶店――〝甘色あまいろ〟の裏口の扉の前に立ちながら、心の中でうめいていた。

 かれこれもう二、三分ほどはこうしているような気がする。コートのポケットに突っ込んだ右手を引き抜いたり戻したりを繰り返しながら、店の事務所に繋がる裏口の扉とにらめっこ。

 理由は語るまでもないだろう。仕事が嫌だから……ではなく。上司が嫌だから……でもなく。

 この扉を開いた先で、今まさに真太郎しんたろう桃華ももかが話しているかもしれないから。


「(あの二人、もう来てるんだよな……?)」


 時計を見れば夕方シフトの始業時刻まで残り五分を切ったところだった。普段から時間スレスレに出勤することが多い俺だが、今日は重い気分を引きずっているせいか、いつも以上にギリギリである。早く入って着替えないと、店長に何を言われるか分かったものじゃない。


「(……くそっ、俺が悩んでどうする! 言われただろ、『貴方おれが信じたことを信じろ』って!)」


 学校を出る前に友人のお嬢様から言われた言葉を己への喝とし、俺は塗装がげかけている扉のノブに手を伸ばし、そして勢いよく扉を押し開けた。


「おはようござ――」

「へぶぁっ!?」

「――いま……す?」


 中で真太郎と桃華が修羅場を演じている可能性を考慮し、せめてとびきり元気よく挨拶をすることで場の清涼剤になろうという俺の試みは、押し開けたドアの向こう側から聞こえてきたゴヂンッ! という景気のいい快音によって阻まれる。

 隙間から覗いて見れば、なにやらドアの向こうで当店店長の一色いっしき小春こはるが鼻を押さえながら「んごおおおおおぉッ……!?」と一昔前のJKのごとき鳴き声、もとい泣き声を上げていらっしゃった。……どうやら俺が勢いよく開けたドアにその高い鼻をぶつけてしまわれたらしい。


「お、小野おのっぢぃッ……! 裏口の扉は内開きなんだからもっと気を付けなさい……!」

「す、すんません……」


 涙目でキッと睨んでくる店長に対し、普段は彼女と言葉のプロレスを繰り広げている流石の俺もペコリと頭を下げる。

 するといつもならこの一件ネタで二時間は煽ってくるはずの店長が今日に限って「あっ、そうだ、それどころじゃないんだよよ小野っち!」と随分焦った様子ですぐさま話を切り替えた。


久世くせちゃんの様子がおかしいんだ! 小野っち、なにがあったか知らないかい!?」

「え……お、おかしいって、どんなふうに……?」

「見れば分かるから!」


 店長にぐぐいと背中を押され、俺は事務所まで強制連行される。そして物陰から中の様子を見てみると――


「……はあ……」


 ――やたら暗い表情のまま、事務机の上で頭を抱えてため息をついている真太郎の姿がそこにはあった。


「し……真太郎……?」

「ッ! ……悠真ゆうま……」


 声を掛けると真太郎は勢いよく顔を上げ――そして静かに俺の名を呟く。

 どうやら事務所内にいるのは彼だけのようだ。見回してみても彼女の――桃華の姿は見当たらない。

 すると俺の仕草からなにを考えているのかを察したのだろう、真太郎はわずかに震えた声で言った。


「桃華が……今日は休みだって」

「!」


 思わず俺の側にいる店長に目を向けると、彼女は「う、うん」と小さく頷いてみせる。


「昼頃に桃っち本人から連絡があって、どうしても体調が優れないから休ませてほしいと言ってきたんだ」

「……!」

「今日は天気も良くないし、お客さんも多くないだろうから大丈夫だよって休んでもらったんだけど、それを聞いたとたん久世ちゃんはああなっちゃって……そういえば、二人は桃っちからなにか聞いてなかったのかい?」

「え、えっと……」


 どう答えればいいものかと悩みながらチラリと真太郎の横顔を窺う。

 彼の横顔は一目見て分かるほどに苦しそうに歪んでいて――それを見てしまった俺はやはりどうしようもない自責の念にとらわれる。


「(七海ななみはああ言ってくれたけど……)」


 やはり俺は、ただ二人の関係を悪化させてしまっただけなのではないか……?

 俺が正しいと信じたことは本当は正しくなんかなかったのではないだろうか……?

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