第二四一編 ぜんぶ

 ――苦しそうに見えた。僕の服を震える手で掴む彼の方が、今の僕よりもずっと、ずっと。どうしてかは分からない。理屈じゃなく、直感でそう思った。

 いつもよりずっと余裕がなくて、いつもよりも必死な彼の姿は苦しそうで、悲しそうで。その瞳の奥には、誰よりも大きな傷痕が浮かんでいるような気がして。

 だから、だろうか。余裕のない彼が続けて口にした言葉を聞いても僕の頭は至って冷静なままで……驚くことさえ出来なかったのは――



「――俺はずっと、桃華ももかのことが好きだった」



 悠真ゆうまの口から発せられた言葉に対し、真太郎しんたろうは自覚通りに冷静なままだった。その事実を知っていたわけではない。普通に考えれば驚愕すべき場面だろう。けれど、冷静だった。驚くフリすら出来ぬほどには。


「そう……なんだね」


 それは友人の想いを聞いた者のリアクションとしては〇点だっただろう。もっと驚くなり、せめて興味や関心の色を示すのが普通だ。これでは昨日、真太郎じぶん未来みくへの想いを打ち明けた際に悠真が魅せた薄いリアクションに文句も言えない。


 しかし真太郎が示せる素直な反応はこれしかなかった。かといって驚嘆に値しないとか、彼の桃華に対する恋慕に興味も関心もないというわけではなく。

 ただ悠真が――とても苦しそうだったから。誰かへの好意を口にするには、あまりにもつらそうな顔をしていたから。

 だから悟った。彼が今――唐突と表現しても差し支えないタイミングで想いを打ち明けてきたのは、真太郎がそれを知らぬままでは伝えられないがあるからだろうと。


 ほんの数分前まであれほど追い詰められ、回らなくなっていたはずの頭が冷静クリアに保たれていた。そして予想した通り、悠真はぽつりと呟くように続ける。


「……俺は、ガキの頃からずっと桃華のことが好きだった。けど告白どころか、想いを伝えようと考えたこともなくて……ただ好きなだけだった」

「! 昨日までの僕と……同じ」

「違う。七海ななみのために努力して変わろうとしたお前や、お前の気持ちを変えようとした七海妹とはぜんぜん違う。言ったろ、好きなだったって」


 悠真の手が一度緩み――そしてすぐに引き締められる。


「俺は桃華に好かれる努力をしなかった。『好かれたい』とは思っても『好かれるような自分に成ろう』とは思わなかった。本当にただ好きなだけで……今思えば馬鹿げてる。そんな奴、失恋して当然だってハナシだ」

「……」


 自嘲するような言い方でも、悠真の顔に笑顔はない。つまり、これは彼の本心なのだろう。本心から過去の己を恥じ、そして悔いている。それは桃華の告白を見た直後だからか、それとも――か。


「だから……俺は〝失恋〟したんだ」


 まるで懺悔ざんげのように、それでいて他人事のように彼は言った。


「だから、俺は久世真太郎おまえに負けたんだよ」

「……」


 ――そういえば、美紗が口癖のように言っていた。

「恋愛において勝者は常に一人」だと。「たった一人の勝者以外はすべて敗者」だと。


「今日の朝、お前は俺に言ったよな。『おれと出会ってからずっと、おれに勝てた試しがない』って」

「……うん」

「でも……俺に言わせりゃ、俺はお前にとっくに負けてた――〝甘色あまいろ〟お前と初めて話すより前から、俺はお前に負けてたんだよ」


 悠真の手が再び緩み――そして今度は引き締め直されることはなかった。


「最初は、久世真太郎おまえのことが本当に気に食わなかった」

「……」

「だって、そうだろ。なにが悲しくて惚れた女の好きな男と仲良くしなきゃならねえんだ。しかも桃華がお前に惚れてるって知ってすぐくらいのことだったし……お前ホント、最初から最後までずっとタイミング悪いよな」

「……ごめん」

「謝んなよ」


 余計にむなしくなるだろ、などと冗談のように言って悠真は真太郎を解放した。そして……やはりそこに笑顔はなくて。


「……お前のことさ、最初は本当に嫌いだったんだよ」

「……うん。なんとなくだけど、そんな気はしてたよ」

「だろうな……いや、今思っても本当に嫌いだった。『なんでよりによってコイツなんだ』って思ってた……それに関しちゃ、今も思ってるけどさ」


 だいぶ意味は変わったけど、と独り言のように呟きながら悠真は真太郎から顔を背け、屋上の隅に寄せてある古いベンチへと歩み寄る。しかし特に腰掛けるでもなく、さりとてこちらを振り返りもせず。ただ真太郎に背中を向けたまま、話を続けた。


「でもさ……やっぱり桃華が惚れただけのことはあるっつーか……お前、イイヤツだったからさ……桃華がどんだけ本気でお前のことを好きかってことも、お前がイイヤツだってことも……知っちまったからさ……!」


 ――声が震えているのはきっと……いや、絶対に気のせいだろう。気のせいに決まっている。だって、こちらからは彼の顔が見えないのだから。


「俺は自分のためになにも出来なかった――から……〝失恋〟した時、すげー苦しかったんだ」


 ――それは、本当に過去形でいいのだろうか。


「だから、せめて桃華には後悔の残る〝失恋〟だけはしてほしくなくて……でもアイツ、弱気なとこあるからさ……幼馴染みだからって、そんなとこまで似なくてもいいのにな」


 ――冗談ジョークのつもりなら、笑いながら言ってくれよ。


「告白しないまま終わる〝痛み〟も、なにもせずに〝失恋〟した後悔も、俺は知ってた。っといたらきっと桃華アイツも同じ思いをすると思った……苦しくて痛くて、泣いちまうだろうと思った」

「……」

「思っちまったら……もう見て見ぬフリなんか出来なかった」


 悠真はやはり真太郎の方を振り返らず、代わりに雪の空をゆっくりと見上げる。……寒さのせいか、鼻をすする音が聞こえた。


「たとえ失恋したとしても、俺はあの子に笑っていてほしい……こんなに痛いのは、俺一人だけでもう十分なんだよ」


 彼の言葉を聞き、真太郎の目に先ほどの桃華の表情かおが浮かぶ。


「好きな女の子の泣き顔なんか、見たいわけがないだろ」

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