第二三〇編 アルトリズム

「……なにをしに来たのかしら、美紗みさ


 現れた妹に、未来みくは静かに問い掛けた。

 周囲をく生徒たちも対峙する美しい姉妹に目を奪われては、しかし彼女らの纏うただならぬ空気に気圧けおされるかのようにそそくさと足早に場を離れていく。

 そんな有象無象には目もくれず、目を真っ赤に腫らした中学生の少女は短く言った。


「……話をしに来たんだよ」


 かすれた声だった。姉同様に綺麗な声をしている彼女が発したものとは思えないほどに。昨夜、一晩中泣いて、泣いて、泣き尽くした末にれてしまったのだということは想像にかたくない。

 無論それは、幼少から続いた恋に破れた失意によるものだろう。みくも初めて見る――ここまで憔悴しょうすいしきった美紗いもうとは。


「……誰と?」

「誰だっていいじゃん……お姉ちゃんには関係ないでしょ、ほっといてよ……」

「……」


 やつれた妹からの冷たい返答に未来はガーン、とショックを受けた。表情こそ真顔のままだが、隠しきれないダメージが瞳の奥に覗いている。隣に控える本郷ほんごうが「お、お嬢様、大丈夫ですか……?」と囁いてくる程度には。


「……ここは高校よ。中学生の貴女が立ち入っては――」

「私推薦合格者だから、今日は校内の下見ってことで申請出して許可も貰ってる。急だったけど『是非どうぞ』だって」

「……」


 言われてみれば美紗は中学校の制服を着用している。こんな状態でも正規の認可を受けてから行動するあたり、如才ないというか抜け目がないというか……。いっそ自棄やけになった行動をとってくれていれば制止も容易だったろうに、これではいくら未来でも止める手立てがない。


「だからお姉ちゃんに邪魔される筋合いないから……もういいでしょ」

「……待ちなさい」

「なに……!?」


 歩きだそうとしたところを止められていよいよ苛立った声を上げる妹に対し、論理的な対抗手段を失った未来はそれでも言った。


「……貴女の言う〝話〟というのは、昨夜ゆうべ久世くせくんとのことね?」

「! ……なんだ、知ってたんだ……いや、気付くよね、お姉ちゃんだし……」


 美紗は赤い目をわずかに、まるで自嘲するように細める。そして再び顔を引き締めると、未来の瞳を見据えて続ける。


「そこまで分かってるなら止めないでよ。別にお姉ちゃんに迷惑かけるわけでもないじゃん。お姉ちゃんには関係ない……っていうか興味ないんでしょ、の恋になんて」

「……」

「お姉ちゃんさ……今日真太郎しんたろうさんになにか言われたんじゃない?」

「!」


 わずかに瞠目した未来に、妹は「やっぱりね……」と静かに顔を俯けた。


「……なんて言われたの?」

「……。……交際してほしいと言われたわ」

「! く、久世様が、お嬢様に……!?」


 隣の従者が思わず主人に顔を向ける中、それに構うことなく美紗が「……それで?」と先を促してくる。


「断ったんじゃないの、お姉ちゃん。真太郎さんからの、告白を……」

「……ええ」

「……だよね……うん、分かってた……昨日真太郎さんが突然あんなこと言い出した理由……『ケジメ』だって……『前に進む』って言ってたから……他の理由なんて、なにも思い浮かばなかったから……!」


 ぎゅうっ、と美紗がその小さな拳を握りこんだ。そこにあるのは怒りの感情だろう。しかしその矛先は未来ではなく、そして真太郎でもないように思えた。


「やっぱりのせいだ……! 遊園地のあの日、が真太郎さんに……!」

「み、美紗お嬢様……?」

「……」


 事情を把握しきれていない本郷が困惑の声を上げる。いや、それは未来も同じだ。美紗の言葉の真意が読み取れない。

 けれど文法から推量するに、美紗が〝話〟をしに来た相手はどうやら真太郎ではなく他の誰かのようだ。そして妹と交流のある、それも彼女の恋と関係のある人間など、未来が知る限り二人しかいない。小野悠真おのゆうまか、あるいは――


「――桐山きりやまさん、かしら?」

「! ……そうだよ」


 言い当てられ、美紗が小さく頷く。


「私がフラれたのも……真太郎さんが突然お姉ちゃんに気持ちを伝えようとしたのも……全部あの人のせい……! だから話をしに行くんだ……!」

「……」


 妹の話は要領を得なかった。フラれたのが未来じぶんのせいだと言うのなら――それもただの責任転嫁だとは思うが――まだ理解も出来よう。しかし美紗が想い破れたことと桐山桃華ももかになんの因果関係があるというのか。

 未来はまた妹の悪癖――思い込みの激しい部分が出たか、と考えながらも、今この場でそれを指摘することを躊躇する。自分の考えが正しいと信じ切っている人間は純粋だ。そして純粋ゆえに、そう簡単に説得には応じない。伊達に一五年近くも姉をやっていないのだ。彼女の性格は良く理解している。


「もういいでしょ、退いてよお姉ちゃん……私、あの人を探さなきゃいけないんだから」

「……」


 妹の目は真剣そのものだった。おそらく昨晩から一睡もせぬままここに来たのだろう。目の下に浮かぶクマがそれを証明している。どれだけ真剣に悩んだのか――どれほど苦しんだのかがハッキリと伝わってくる程度には。


 しかしだからこそ――未来は三度みたび、妹の歩みを止めた。


「……貴女の言う通りよ、美紗」


 妹がなにか口にするよりも早く、静かな声で告げる。


「私は貴女たちの恋になんて一片の興味もありはしないわ。貴女が恋破れたことも、久世くんに交際を申し込まれたことも――そしてが恋に破れることも、すべてどうだっていいわ」

「……!」


 美紗の瞳に怒りが浮かぶ。今度は明確に、未来に向けられた怒りだ。無理もない。いくら姉の性格を誰よりもよく知る彼女とはいえ、こんな言い方をされれば不愉快にもなるだろう。


「……だったら退いてよ。興味ないんでしょ? いいよ別に、お姉ちゃんにはどうせ分からないんだから……」

「……ええ、そうね」


 瞑目し、頷く。……失望されただろうか、軽蔑されただろうか。〝姉バカ〟が、誰よりも愛する妹に。

 これまでも彼女の恋を応援したことなど一度もなかったが、かといってその想いを否定したこともなかった。不干渉を貫き、夕食の際に長い惚気のろけ話をされても適当に相槌を打つだけ。いや、たとえ相手が妹でなくても不干渉は変わらなかっただろう。

 未来には〝恋愛レンアイ〟なんて理解わからない。理解らないから、干渉もしない。その恋が示す矢印の先に自身がいない限りにおいて、彼女はある意味誰よりも平等だった。関わったところで、未来自身にはなんのメリットもないのだから。

〝利己〟こそが――七海ななみ未来の本懐なのだから。


 ゆえにこの行動は、普段の未来ではあり得ないものだった。

 こんなことをしても彼女にはなんのメリットもない。むしろ妹からの信頼を失いかねない行為。明日、いや数時間後には自身の行いを後悔しているかもしれない。


「(けれど――)」


 妹の目に、目の下に浮かぶ隈に――の顔が重なった。

 決して当事者ではないくせに、自分にとって不都合の方がよほど多いくせに、それでも目元に色濃い疲労を浮かべていた彼の顔が。

 きっと彼もまた一睡もせずに悩んだのだ。一晩中苦しんでいたのだ。

 そして苦悩の果て、桐山桃華の迎える最後を見届けずに去ろうとした彼の背中を、未来じぶんは押したのだ。


 他人の恋などどうでもいい。妹の恋も、幼馴染みの恋も、桐山桃華の恋だってどうでもいい。

 けれど彼が――だけは、邪魔立てされるわけにはいかない。たとえ相手が愛する妹でも、たとえ利己を捨てようとも。


「……ここを通すわけにはいかないわ」


 ――少なくとも彼が、最後の言葉を伝えるまでは。

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