第二二九編 最後の役者


「お嬢様ーーーッ!! 大変申し訳ございませんッ! 交通事故の影響で道路が渋滞しており、到着が遅くなってしまいましたッ! この本郷琥珀ほんごうこはく一生の不覚にございますッ!」

「……いえ、貴女に一生の不覚があるとすれば大声を上げて私を衆目に晒させている今この瞬間だと思うけれど」


 大きな傘を片手に怒濤どとうの勢いで駆け付けてきた従者の女に、未来みくは短く嘆息していた。長身スーツの女が膝をついている構図に帰路についている周囲の生徒たちが何事かと目を向け、そして自然とすぐ隣に立っている未来にまで視線が行き、「あっ、あの一年生のお嬢様だ」と言わんばかりの表情をされる。……不躾に見られることが嫌いな少女は今、とても不愉快な気分だった。

 そんな主人の機微きびを察したのだろう、切腹の命を待つ忠臣がごとき姿勢を見せていた本郷は慌てて身体を起こし、そして自らの背と手にしていた漆黒の和傘で未来の身体を周囲の目から守ろうとして――ふと気付く。


「おや? お、お嬢様、そちらの傘はいったい……? 今朝、左様な傘はお持ちになっておられませんでしたよね?」

「……なんでもいいでしょう」

「いえしかし、私の記憶が正しければそちらの傘は以前小野おの様が差しておられたものでは……?」

「どうしてそんなどうでもいいことまでおぼえているのよ」


 相変わらず未来じぶんが関与する問題以外では無駄にハイスペックな従者に若干引く。そして未来は従者の差し出す傘の半径には入らず、少年から預かった安物のビニール傘を手にしたまま言った。


「……本郷。悪いけれど、帰るのはもう少し後にしてもいいかしら」

「? はい、お嬢様さえよろしいのであれば私の意思など問うていただくまでもありませんが……なにかご予定でも?」

「……ええ、少しだけ」

「……かしこまりました、お嬢様」


 そう答えて微笑むと、本郷は静かに頭を下げた。

 普段の本郷ならば「お体にさわります、せめてお車の中で」などと言ってくる場面だろう。しかし彼女はなにも言わない。なにも言わず、深くも問わず、ただ主人の意向に従ってくれていた。


「……本郷、一つ聞かせて頂戴」

「はい、なんなりと」


 即答した本郷に、未来はが走り去った校舎の方を見つめたまま問い掛ける。


「――貴女は、誰かに恋をしたことがあるかしら」

「……。……はっ!?」


 まさかこの主人がそんなことを聞いてくるだなんて予想だにしていなかったのか、基本的に冷静沈着な従者は珍しく動揺を表に出した。


「わ、私の聞き間違いでしょうか? い、今お嬢様に『恋をしたことがあるか』と問われたような気がするのですが……」

「ええ、そう聞いたわ」

「聞き間違いじゃなかったんですね!? ど、どうしましょう、すぐに病院へ……いえ、かかりつけのお医者様に連絡をッ!?」

「どうしてそうなるのよ。やめなさい」


 わたわたと携帯電話を取り出そうとする本郷を制し、そして今度は真剣な瞳で彼女を見つめながら問う。


「本郷。貴女は恋をしたことがあるの?」

「い、いえ、私は学生時分から訓練漬けの日々を送って参りましたのでそのような経験はありませんが……」

「……そう」

「ど、どうしてそのようなことを? もしや、昨晩の美紗みさお嬢様のことでなにかお悩みに……?」

「……そうね。あの子のこともそうだけれど……」


 そこで言葉を区切った未来は今朝の真太郎しんたろうの様子、そしてつい先ほどの出来事を思い返していた。


「(……やっぱり理解わからない)」


 恋愛レンアイそれそのものも、他人への想いに身を焦がす周囲に人々の思考回路も。他人ひとを好きになったことがないのだから当たり前かもしれないが……この先それを理解できる日が来るのかどうか、はなはだ疑問である。果たしてそれは、読書よりも有意義な時間をもたらしてくれるものなのだろうか? 現に妹や真太郎、そしてが抱いてきた気持ちはどれも無意味なまま終わりを迎えたではないか。

 感情論に理屈を求めるのが不毛なことだというのは理解している。だが無意味なことに時間を使うなんて――


「(いえ……『無意味』というなら今の私だってそう、なのでしょうね)」


 走っていってしまったあの少年のことを、意味もなくここで待っているのだから。

 預かった傘を返すため……なんて馬鹿みたいな言い訳が通るわけもない。そんな理由で今ここに居るわけではないことくらい、自分が一番よく分かっていた。


 どうして先ほど彼の背中を押すような真似をしたのだろう、と自問する。冷静に考えれば、彼を桐山桃華きりやまももかのところへ向かわせたところで誰にも、なんの利得もないだろうに。

 それに直後、未来が胸の奥に感じた微細な疼痛とうつう。今はすっかり消え失せてしまったが、あれはいったいなんだったのか。


「(……理解わからない)」


 それが知りたくて、未来は今ここに立っているのかもしれない。

 が戻ってきたら、彼らの恋愛劇に決着がついたら――


 そんな風に考えていた未来の耳に、不意にかすかなエンジンの音が聞こえてきた。目を向ければ正門外の道路脇に停めてある本郷の車の後ろにもう一台、よく似た高級車が停車されている。


「――お、お嬢様、本当によろしいのですか?」

「いいって言ってるでしょ……あなたはここで待ってなさい」


 次いで聞き慣れた声が聞こえてきたことで確信した。あの車は七海ななみ家のもう一人の令嬢、すなわち未来じぶんの妹が乗りつけてきたものだと。


「……美紗」

「! ……お姉ちゃん」


 視線の先に立っていた妹――七海美紗は、酷いくまが出来ている上に泣き腫らしたような赤い瞳で、静かにこちらを見た。

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