第二二七編 「貴方の友人として」


 ――七海未来ななみみくという少女にとって、小野悠真おのゆうまという少年は今なお理解しがたい存在だった。

 あくまで利己的に生きる自分とは対極、己が傷付いてでも他人に尽くすその姿は愚かで、時には滑稽でさえあって。


「(……理解、しがたい)」


 修了式の日の放課後、自分の数歩後ろを歩く悠真を振り返った未来は、彼の表情を見て思う。これまで散々あの少女――桐山桃華きりやまももかのために陰ながら行動してきたくせに、そのを見届けようともしない彼のことが理解できない。


 未来は誰よりも近くで悠真のことを見てきた。彼がどんな思いで桃華と真太郎しんたろうのことを考えてきたか、誰よりも知っている自負がある。当たり前だ、彼とは一度仲違いをしてまで本音でぶつかりあってきたのだから。

 だから知っている。無理をしている時の彼の表情かおも、痛みを抱えている時の彼の表情かおも。


 ――自分の心を押し殺している時の彼の表情かおだって、知っている。


「本当に――貴方がすべきことはもうないの?」


 気付けば未来は、そんなことを口走っていた。自分自身の発言に困惑するが、それ以上に目の前の少年は驚いたようである。無理もない、まさか未来が彼の行動を促すようなことを言うとは思わなかったのだろう。


「な……ないよ。あるわけ、ないだろ?」


 悠真は一瞬目を泳がせた後、未来から顔を逸らして答えた。そんな彼の素振りを見て、未来は無表情のままもう一度問うた。


「本当にないかしら? 貴方にはまだ――があるのではないの?」

「は、はあ? いや……ないって、そんなの」

「……本当に?」

「ほ、本当に」

「…………本当の本当に?」

「しつこっ!? な、ないって言ってるだろ!? なんだよ、何が言いたいんだよ!?」


 珍しい絡み方をする未来に、訳が分からないとでも言いたげな顔を向けてくる悠真。しかし未来は、そんな彼の瞳の奥に確かな〝迷い〟があることを感じ取っていた。


「……小野おのくん」


 名を呼び、静かに彼のことをまっすぐに見据える。


「貴方は……私のことを〝友だち〟と呼ぶわ」

「は? あ、ああ……まあ、俺はそう思ってるけど……」


 戸惑いつつも肯定した彼に、未来は一歩前へと踏み出した。二人の距離が縮まり、傘を差していない少女の身体が悠真の傘の半径に収まる。

 突然のことであからさまに動揺した悠真が傘をふらつかせる中、未来は芯のある視線で彼の瞳を射抜く。


「私も、そう思っているわ。今の私にとって――貴方は大切な友人だと」

「……!」


 他人ひとを寄せ付けない彼女に詰め寄られ、あまつさえハッキリとそんなことを告げられる――悠真の瞳が大きく見開かれるのも必定ひつじょうだった。

 今までになく近しい距離の中で、美しい少女は言う。


「〝契約〟を終えた今の私には、貴方のすることに口を出す権利なんてありはしないわ。……いいえ、仮に〝契約〟が今も有効だったとしても、ね」

「……」


 未来は視線を一切逸らさず、身も引かぬままに続ける。


「だから今から私が言うことは、単なる私個人の考えと捉えてもらって構わない。貴方がそれに耳を傾ける意義も義務もない。ただ私が――、言わずにはいられないだけ」


 幼少期以来一人として居なかった〝友人〟との距離感を掴みかねて、前置きがやたらと長くなってしまった。それでも少女は不器用な言葉をつむぐ。


「……私には、恋愛なんて分からない。貴方が胸に閉じ込めてきた彼女への想いの丈も、抱え込んだ〝痛み〟の大きさも、きっと分かってあげられない。他人に尽くす貴方の気持ちが分からない。分からないわ……だって貴方は、私ではないから」

「……」

「だから私に言えることは……だけ」


 そこまで言って、未来は初めて悠真から視線を下ろした。ほんのわずかに雪が積もった地面を見つめて――告げる。


「――今の貴方は、とても苦しそうに見えるわ」

「……!」


 視界の隅で悠真が身体を揺らした。今、彼がどんな表情かおをしているのか……未来にはなんとなく分かるような気がした。


「伝えたい言葉が、まだあるのではないの? 彼女に言っていないことが、まだあるのではないの? が何なのかは私には分からないけれど……だけどは、とても大切な言葉なのではないの?」


 言いながら、未来は固く瞑目めいもくする。脳の冷静な部分が、己の言動をかえりみて警鐘けいしょうを鳴らしていた。

 何故だかは分からない。ただ、これを口にすることはだと直感していた。利己に生きる彼女の信条に反する行為だと。

 だがそれでも未来は顔を上げて言った――他人ゆうまのために。


「最後くらい、貴方は行動してもいいのではないの?」

「――!」


 未来のその一言に、悠真の瞳から迷いが消える。


「……自分の、ために……」


 彼の冷えた唇がかすかに動いた。


「……まだ伝えてない言葉……」


 ぎゅうっ、と傘のを握り締める悠真。そしてしばらく黙り込んだのち――彼は意を決した表情で未来のことを見下ろす。


「七海……傘、持ってて貰えるか?」

「……ええ」


 差し出された傘を受け取る。そして熱を帯びた拳が離れていくのと同時に、未来は彼を激励するかのように言った。



「――行ってきなさい、小野くん」



 曇天の下を、愚者の少年が駆けていく。その背中を見送りながら、美しい少女は身の丈に合わない安物の傘の柄をきゅっと握った。そこに残された彼の体温が、手のひらに伝わる。


「……まったく、世話が焼けるわ」


 一人言を呟き、未来が遠くなっていく悠真の背中から目を背けて歩き出そうとしたところで――


「ッ!」


 ――自分の心臓の奥がわずかな、本当にごくわずかな疼痛とうつうを訴えた。

 それは彼女にとって生まれて初めての現象。瞳を揺らした彼女は、もう一度走り去っていく悠真の背中に目を向ける。

 ……脳内に響く警鐘の音が、やけに現実的な質感を伴って聞こえてくるような気がした。

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