第二一五編 最悪の朝


「――さみい……」


 三月一五日、午前七時四〇分。つまりは修了式の日の朝。

 俺はけたたましく鳴り散らかす目覚まし時計のアラームを乱暴に切り、ベッドから起き上がりながらぼそりと呟いた。

 ベッドから起き上がったといっても、昨夜は一睡もしていない。俺の部屋には鏡がないが、恐らくは目の下に酷いくまが出来ていることだろう。

 言うまでもなく、昨日色々ありすぎた結果だ。考えに考え、悩みに悩んでいるうちにあっという間に朝になってしまった。そのくせ、いざ登校時刻が迫ると眠気がしてくるのだから、人体というのは案外不便なものである。


 ふと窓の外を見ると、昨夜から引き続き雪が降り続いているようだった。はらはらと白い結晶が空から舞い落ちてくる程度の軽微な降雪具合だが、夜のうちに降り積もったのだろう、ベランダの手摺てすりやお向かいの車のボンネットには薄く雪が積もっている。


「……最悪の朝だな……」


 天気も、そしてそれ以外の意味でも。俺が基本的に学校嫌いで、かつ今日が面倒くさい修了式の日であることを差し引いても〝最悪の朝〟だと思う。

 なぜなら今日の俺は――の失恋を見届けなければならないかもしれないのだから。しかも結構な高確率で、だ。


 一晩中考えたことだが、ここで今日起こるであろうことをもう一度整理しておこう。


 まず学年一のイケメン野郎こと久世真太郎くせしんたろうが、学校一の美少女にしてお嬢様たる七海未来ななみみくに告白する決意を固めた。……これ一つでも、おそらく今後俺たちの代が卒業するまで語り継がれてもおかしくないほどの大事件である。

 なにせ恋人を作らないことで有名なイケメン野郎と、他人ひと嫌いで有名なお嬢様による恋の一幕だ。もしもおおやけになろうものなら、競馬場が開けそうなほど野次馬が集まってくるだろう。

 俺とて完全な第三者の立場だったなら「イケメン野郎がフラれる瞬間を目撃できるかも」などと面白がって見に行っていたかもしれない。……無論、現実の俺はそんなものを見せられても面白くもなんともないが。


 次に――俺の幼馴染みである桐山桃華きりやまももかが、そのイケメン野郎に告白するつもりらしい。

 この件については俺自身、理解が及んでいない部分が多々ある……というか俺の関与しないところで話が進んでいたようだ。


「(……情けない話だよな、本当……)」


 この半年間、彼女の――桃華の恋のために裏からコソコソと工作しておきながら、最後の最後でこのていたらく。情けないにもほどがある。どうやら彼女は俺なんかと違って、告白に臨むだけの〝勇気〟のある女だったようだ。

 もっとも、前述の通り真太郎には真太郎の想い人がいる。ゆえに彼女の恋は、おそらく実を結ばないだろう。それを彼女に伝えるべきか伝えぬべきか――散々悩んだものの、未だ答えは出ていない。


 そして最後――これは昨日起きたこと、しかも電話で伝え聞いたに過ぎない情報なのだが……七海未来の妹、七海美紗みさが真太郎にフラれたらしい。しかしこれは凄まじい急展開――のように見えて、よくよく考えればある意味順当な話であると気付く。


 というのも俺が昨日の夕方頃に真太郎とばったり会った際、彼は七海妹にホワイトデーのお返しを持っていくつもりだと言っていた――七海未来に告白を決意した彼が、だ。

 七海妹が真太郎にまっすぐな恋慕を抱いていたことは俺も、そして真太郎本人もよく知るところだった。だからこそ、あのくそ真面目なイケメン野郎は自身の告白の前にケジメとして、七海妹からの想いをキッパリと断ち切ったのだろう。なにせ真太郎が告白するのは、彼女の姉なのだから。


「(……いや、関係ないか)」


 たとえ相手が七海未来の妹でなくても、真太郎の性格上、誰かから向けられた好意を引きずったまま告白に臨もうとはしなかっただろう。そんな不誠実な真似、あのイケメン野郎がするはずもない。


 いずれにせよ、これらを昨日一度に聞かされた俺は堪ったものではなかった。なんなら俺は、真太郎が七海未来に想いを寄せていること自体、昨日初めて知ったようなものだったのだ。そこへポンポンとんでもない情報が飛び込んで来れば、そりゃあ寝不足にくらいなる。


 ああ、いっそ今さら瞼を襲ってくる眠気に身を預けてこのまま眠ってしまおうか。どうせ修了式なんてつまらない校長の話を聞いて終わるのだ。だったら今ここで寝たって構わないのではないか? そうすれば、起きた頃にはいるだろうし……。

 …………。


「……そんなわけには、いかないよな……」


 呟き、グッと拳を握り込む。手のひらに爪を食い込ませ、その痛みで瞼に掛かる重みを吹き飛ばす。

 もはや、俺に出来ることなどなにもないだろう。俺は彼らの恋愛の関係者でこそあれど、当事者ではないのだから。当事者たちが気持ちを固めた今、俺の存在理由はそこにはないのかもしれない。


 だが、それでも逃げるわけにはいかないのだ。

 覚悟を決めた彼らからも、そしてなにより――俺自身の〝失恋〟から、目を逸らすわけにはいかない。


 ――俺の一〇年に及ぶ片想いが本当の意味でも終わるのも、きっと今日のこの日なのだから。


「……行くか」


 自分自身に言い聞かせるように、俺は重い身体を動かして支度を始める。

 制服に包まれた心臓むねの奥には、やはり以前とは違う異質な痛みがズキズキと鈍くうずいていた。

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