第二一四編 姉の推理


 七海未来ななみみくという少女にとって大切なもの、それは一人で過ごす静謐せいひつな時間だ。

 小野悠真おのゆうまという友人が出来た今でも、それは一切変わらない。一人で読書をする以外の楽しみも知ったとはいえ、やはり彼女にとって一番居心地が良いのはこの静かな書斎で本のページをめくっている瞬間である。


 れてきたばかりのコーヒーが入ったマグカップを傾けつつ、大長編ミステリ小説の最後の一冊――ちなみに第一巻を読み始めたのは今朝方だった――を読み進める未来。物語の序盤から随所に散りばめられていた伏線が回収され、緻密ちみつに計算されたトリックの存在が徐々に明らかになっていく。

 ミステリ小説の醍醐味といえばやはり〝謎解き〟の快感があることだろう。サスペンス小説とはまた違い、読者には主人公の探偵と五分ごぶの条件が与えられるため、時に犯人を突き止め、時に真犯人に騙されながら、物語の中に入り込むことが出来るのだ。

 それは未来とて例外ではなく、彼女もまた今度も、あるいは今度こそ犯人を推理しきってやろうと集中して本の世界に――


「…………騒々しいわね……」


 苛立ちの呟きと共に、未来は無表情のまま本から顔を上げる。視線を向けた先は書斎のドア――の向こう側の廊下を全力疾走するかのごとき振動音だ。

 ここは仮にも書斎なのでそれなりの防音性は確保されているものの、元よりこの七海別邸は隠居した祖母が暮らすために用意されたやしきゆえ、そこまで大袈裟な遮音設備が整えられているわけでもない。部屋の前をドタバタ走ったりすれば流石に中まで音が届いてしまう。


「静かにしなさいと言ったのに……」


 祖母の執事や使用人たちがやかましくするはずもない。この邸内で騒ぐ者がいるとすれば、未来関連のことで発作ほっさを起こしている時の本郷ほんごうか、あるいは妹の美紗だけだ。


「(……そういえばあの子、出掛けると言っていなかったかしら?)」


 正確に言えば、毎年恒例となっている久世真太郎くせしんたろうからのホワイトデーのお返しを受け取りに行ったのではなかっただろうか。

 未来からすれば安物の菓子類を貰って何が嬉しいのかさっぱり分からないが、美紗はとても楽しみにしていたはずだ。ここ数日、夕食のたびに聞いてもいないホワイトデー関連のエピソードを聞かされて未来や祖母がうんざりする程度には。

 少なくともいつもだったら小一時間は真太郎を捕まえて喋り倒してくるのだが……先ほど階段前で美紗に注意してから、まだものの一〇分ほどしか経っていない。もしや、なにかあったのだろうか?


「…………」


 仕方なく本を閉じて立ち上がる。色恋沙汰には生涯無興味の彼女とはいえ、流石に可愛い妹になにかあったかもしれないという状況で読書を続けられはしない。いや、仮に読み進められたとしても、こんな雑念だらけの頭でミステリ小説のラストを消化するのは本意ではないのだ。


 書斎を出て、美紗の部屋の方へと足を向ける。祖母の知り合いがデザインしてくれた〝Misa〟と彫り込まれたドアプレートが掛けられている扉の前に立ち、コンコンコン、とノックを三つ。……しかし中から返事はない。


「……美紗。なにかあったの?」


 部屋にいないのかもしれない、などとは考えず、未来は静かに呼びかける。すると中からは嗚咽おえつと鼻をすするような音に続いて「……なんでもない」という美紗の声が聞こえてきた。


「……そう。だったらいいわ」


 それだけ言って、未来は妹の部屋を離れる。冷たい反応のように見えるが、彼女なりの配慮の結果だ。本人が話したくないと言うなら、聞かずにおいてやることもまた優しさである。

 なにより――。それさえ分かれば「なにかあった」ことは明白。詳細を聞き出す必要はもはやない。


「……仕事が早いのね、本郷」


 未来が呟くのと同時に、彼女の前に一人の女性が現れる。黒スーツのボディーガード――本郷琥珀こはくだ。

 彼女は主人の言葉に「とんでもございません」とうやうやしく一礼をして続ける。


「邸の敷地内で起こるすべてを把握しておくことは、我々の業務の一環にございますので」

「……そう。それで?」

「はい。門の前にこちらが……」


 白い手袋をはめた彼女の手が差し出してきたのは、形が崩れて水気を吸った紙袋だった。中に入ってるのは――綺麗に包装されたお菓子。

 それを見て未来は、静かに息を吐き出す。


「……決まりね」


 ……それは、ミステリ小説の主人公の決め台詞だっただろうか。

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