第二一一編 ホワイトデーと宝物



 ――未来みく悠真ゆうまに電話を掛ける三〇分前、七海ななみ別邸の一室にて。


「うーん……真太郎しんたろうさん、今日は遅いなぁ……」


 部屋の中央に敷かれている円形のラグ・カーペットの外周に沿うように意味もなくぐるぐると周りながら、七海美紗みさは悶々とした時間を過ごしていた。

 三月一四日――ホワイトデー。この日は毎年、美紗にとってお楽しみの一日である。なぜなら彼女の想い人たる男子高校生・久世くせ真太郎がバレンタインのお返しを持ってきてくれる日、換言すれば彼の方から美紗に会いに来てくれる日だからだ。


 もう長い付き合いになる二人だが、真太郎が自発的に美紗に会いに来てくれることはそれほど多くはない。といっても理由の大半は彼から会いに来るよりも先に美紗が会いに行ってしまうせいである。

 しかし美紗とて年頃の乙女。意中の相手が自分を求めてやって来るという展開にはやはり心惹かれた。たとえ彼の律儀な性格を踏まえた〝バレンタインのお返し〟という名目の上であっても、自分を訪ねてくるその一瞬だけは、真太郎が自分のことだけを考えてくれているような気がするから。


 ゆえに、基本真太郎本位で物事を考える恋愛脳の彼女も、この日ばかりは自分から彼に会いに行くことは絶対にしない。今日の日中も足が勝手に彼の家に向いてしまいそうになるのを堪え、無理やり散歩にシフトチェンジしたくらいだ。……そのせいで会いたくもない男子高校生と遭遇してしまったが、それについては今は脇に置いておく。


 とにかく美紗はそれくらい今日を楽しみにしていたわけだが……今日は例年に比べ、彼がなかなか訪問してこない。普段の彼なら朝のうちに美紗の携帯まで連絡が来るのだが――とちょうどその時、綺麗にメイキングされたベッドの上に無造作に放ってあった携帯電話がやや古めの着メロを奏でた。


『真太郎さん:夜分遅くにごめんね。美紗、今から少しだけ時間いいかな? 大切な話があるんだ』


「真太郎さんのためなら何時間でも大丈夫ですッ!」


 聞こえもしないのに大声で返事をしつつ、返信メールを送信してすぐさま部屋を飛び出す。

 このためだけに、風呂上がりだというのにバッチリ化粧――といっても彼女は元が良いのでいつもナチュラルメイクだ――をして待機していたのだ。服も選び抜いた勝負服――なるべく清楚かつ大人っぽく見えるようワンピースをチョイスした――に着替えてある。……もっとも、上から羽織ったコートの裾を置き去りにするかのごとくやしきの中を全力疾走する姿に清楚さなどまるで感じられないのだが。


「……美紗、騒々しいわよ。もう少し静かに歩きなさい」

「あっ、お、お姉ちゃん!」


 そして案の定というべきか、階段を駆け下りた先で迷惑そうな視線を向けてくる姉に止められた美紗は、かかとから煙を噴き出しそうな勢いで急停止する。


「ご、ごめんなさい。私、ちょっと出掛けてくるね!」

「こんな時間に……?」


 首を傾げる姉を背景に、美紗は再度疾走――は流石に後が怖いので早歩きで玄関の方へと向かう。そんな妹の背中を見送った未来は、一人思い出したように呟いた。


「ああ……そういえば今日はホワイトデーだったかしら……」





 出掛けるといっても、こんな夜遅くに服部はっとりも連れずに外へ出るわけではない。より厳密に言えば外は外でも七海邸の敷地内、すなわち庭先の外門手前までだ。

 真太郎が自分のために家まで来てくれるのは嬉しいが、かといって家の者にその取り次ぎをされたくはない。ここが普通の家ならインターフォンが鳴った途端に美紗が受話器を取ることも出来ようが、この七海邸において来客対応はすべて使用人たちが行う。そのため真太郎が来ても、美紗が即座に出迎えに行くことは出来ない。短くとも一、二分のタイムラグが発生してしまうのだ。


 好きな人を待たせるなど、恋愛に生きる者として論外。だからこうして門の前で待機するのはある意味恒例のことだった。……そこまでするならもう自分から会いに行けばよさそうなものだが、それをしない理由は先に述べた通りだ。第一、いくら美紗でも「ホワイトデーの受け取りに来ました!」なんて恥知らずな真似はしたくなかった。


「(ああっ、真太郎さん早く来ないかな、今年はなにをプレゼントしてくれるのかしら……!)」


 言うまでもないことだが、一市民たる真太郎が美紗に贈れるものなどたかが知れている。例年通りならクッキーやキャンディだが、いずれにせよ美紗が父親か母親に向かって「一生のおねが~いっ!」とやればおそらくその製造会社ごと買収出来てしまうだろう。

 それでも美紗にとって、彼から贈られるすべては宝物だった。クッキーの缶でも、キャンディの包み紙でも、幼少期に近所の川で一緒に拾った石でも、なんでも。

 本体の価値などどうでもいい。いやむしろ、ことこそが肝要だった。

 美紗じぶんと真太郎だけの思い出。それはどんなにお金を持っていても、父親でも母親でも買うことの出来ないものだから。


「(早く来ないかなあ)」


 るんるんと高揚した気分のまま、美紗は意味もなく夜空を見上げる。

 厚い雲に覆われた空からは冷たい雪が降りしきっていたが――この時の彼女にはそれさえ神秘的で美しいもののように映った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る