第一九七編 桃華と恋とあと一歩

桐山桃華きりやまももかさん。あなたは今後、もう二度と真太郎しんたろうさんに近寄らないでください」


 その言葉に込められた重みゆえか、桃華は思わず絶句した。

 記憶の中の美紗みさとの豹変ぶりもさることながら、こんなことを面と向かって言いに来るほど彼女は怒っているのだという実感が、現実的リアルな衝撃となって胸に鋭く突き刺さる。


「……私が言いたいことはそれだけです」


 そう告げると、美紗は桃華の返事を聞くこともせずにくるりと背中を向けた。

 いや、返事など聞くまでもないのかもしれない。おそらく彼女にとってこれは〝提案〟ではなく〝忠告〟なのだ。「これ以上真太郎に関わろうとするなら手段を選ぶつもりはない」という。

 七海未来ななみみくと同等、あのセブンス・コーポレーションの令嬢にかかれば、桃華一人を排斥することなどおそらく容易たやすい。それゆえの〝忠告〟。「こちらが強行手段に出る前に踏みとどまれ」という意思の表れ。

 有無を言わせぬ少女の背中からそれを感じ取った桃華は――静かな声で言った。


「――それは、出来ないよ」

「……なんですって?」


 運転手らしき女性が開いたドアから車に乗り込もうとしていた美紗が、その一言を受けてピタリと動きを止める。


「美紗ちゃんが私に怒っているのは分かったけど――それだけは出来ない」


 もう一度、はっきりと拒絶の意を示した桃華。その瞳には確固たる覚悟がにじんでいるかのようでもあり、それを目にした美紗は一瞬怯ひるんだように言葉を詰まらせた。


「……意外なことを言いますね。あなたなら……臆病者のあなたなら、他人ひとから言われればすぐに自分の恋くらい諦めるものと思っていましたけど」

「……うん、そうだね。前までの私なら、そうだったかもしれない」


 真太郎に声を掛けることすら出来なかった頃の桃華なら。

 美紗という強大な恋敵の出現に、恋を諦めかけた桃華なら。

〝真太郎を想うたくさんの女の子の一人〟でしかなかった桃華なら、苦悩しつつも頷いてしまっていたかもしれない。


「……でも、今の私はそうじゃない。私の恋を応援してくれる友だちが居て、私のことを〝大切な仲間〟だって言ってくれる人たちが居て……そして――」


 ふと思い出す。今日、遊園地でやよいに言われた一言を。


『アンタの恋は――もうアンタだけの恋じゃなくなってる』


 最初はそれがどういう意味なのかを図りかねていた。恋とは自分と想い人、つまり桃華じぶんと真太郎の二人で形作られるものではないかと思っていたから。

 けれど、すぐに思い改めた。そんなわけがないじゃないか、と。

 もしも桃華じぶん一人だったら、きっと今なお真太郎と正面から話すことさえ出来なかっただろうから。

 桃華じぶんの恋は、桃華じぶんの力だけで成り立っているものではないと分かったから。


 だから、裏切るわけにはいかないのだ。

 ずっと背中を押してくれたやよいのことも、一緒に喫茶店で働くうちにかけがえのない仲間となった悠真ゆうまと真太郎のことも、そして――


「――そしてなにより真太郎くんのことを好きになった私のことを、裏切るわけにはいかない。この気持ちに嘘を吐いたら、私は絶対に後悔すると思うから」


 友にも仲間にも、二度と顔向け出来なくなってしまうから。


「……だからごめんね。美紗ちゃんのそのお願いは聞けないや。私は私の恋を最後まで見届けなきゃいけない……ううん、そうじゃないね。そんななんて要らない」


 桃華は曇りのなくなった瞳で、真っ直ぐに恋敵の少女の目を見つめた。


「――私はただ、真太郎くんのことが大好きだから。だからこの恋を諦めるつもりはないよ」

「……!」


 とてもシンプルでストレートなその言葉は、しかしだからこそ強固な意思を感じさせた。後輩の少女に、これがあのなのかと思わせてしまう程度には。


「……な、なんなんですか、あなたは……」


 震える声で、俯いた美紗がこぼす。


「そ……そんな格好良いことをちゃんと言えるくせに、どうしてあんなこと……」

「え? い、今なんて?」

「なんでもないです! わ、私はあなたが嫌いだと言ったんです!」

「ええっ!? そ、そんなあ!?」


 顔を上げた後輩予定の少女にそう言われ、ガーン、と多大なショックを受ける桃華。

 一方の美紗はそんな桃華にずんずんと詰め寄ると、その胸元にビシッ、と人差し指を突き立てて「そもそもっ!」と声を上げる。


「なんなんですか、さっきから〝真太郎くん〟〝真太郎くん〟って!? いったいいつからそんな馴れ馴れしい呼び方になったんですか!?」

「い、いやその、さっき真太郎くんから『名前で呼んで欲しい』って言われて……」

「本人から!? う、嘘でしょう!?」

「う、嘘じゃないよ! わ、私だけじゃなくて悠真もだけど……」

「!? も、もしかしてまたあの人のせいですか!? ムッカつくぅ~!? あなたといい金山かねやまさんといい小野おのさんといい……! もう本当に大っ嫌いです! あなたたち幼馴染み三人ともッ!」

「な、なんでいきなりやよいちゃんと悠真の話になったの!?」

「はあ!? そんなのもちろん――……ああもうっ!? 別に隠してやる義理はないですけど、今日お姉ちゃんを楽しませてくれた代わりに黙っておいてあげます!」

「本当になんの話!? 美紗ちゃんが現れてから今まで、半分も言っている意味を理解出来てない気がするんだけど!?」

「うるさいですよ! あなたは最後までなにも知らずにのほほんとしてればいいんですよ、あの人もそれを望んでるみたいですし!」


 ぷいっ、と顔を背けた美紗は怒ったような歩調で車の前まで戻り、そして桃華に背中を向けたまま言った。


「……いいでしょう。先の発言は取り消します。近寄るなと言っても無駄みたいですし」

「えっ……あ、う、うん。ありがとう?」


 正直近寄るなと言われても学校やらアルバイトやらでいずれにせよ会わなきゃいけないんだけど……とは言わないでおく。


「ですが勘違いしないでください。私はあなたのしたことを許したわけではありませんし……なによりあなたが脅威だとも思っていません。どんなに強固な意思があろうとも、結局あなたはあなたの恋について、自分の力でなにかを成し得たことは一度もないという事実は揺るがないんですから」

「……!」


 わずかに顔を動かし、視線だけをこちらに寄越した美紗は続ける。


「強く想うだけで恋が叶うなら誰も苦労しません。どこかで自分の想いを言葉にしなければならないときが来るんです――〝告白〟という名前の言葉に」

「……」

「自分の力だけではなにも出来ないあなたに――〝意気地無し〟のあなたに、そんな〝勇気〟があるんですかね? ……少なくとも私が知る馬鹿なひとは、どんなに強く想っていてもそれが出来なかったみたいですけれど」


 それが誰のことなのかは桃華には分からなかったが……しかしそんな人も居るのだという事実は、彼女の胸に大きく響いた。

 そうだ、想うだけでは恋は実らない。成就するにせよ、失恋するにせよ――恋の進展のためには踏み出さなければならないのだ。


 ――〝告白〟という名の、を。


「……ま、告白したところで真太郎さんがあなたに振り向く未来みらいなんてありませんけど。彼の心を最後に射止めるのはこの私ですから」


 そう言って今度こそ車に乗り込んだ美紗は、そのまま静かなエンジン音と共に走り去っていった。

 一人残された桃華は胸の前でぎゅうっ、と両手を握り――誰にともなく呟く。


「……あと、一歩を……」

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