第一八六編 過去、現在、未来③

 暗い夜空の下、ゆっくりと回る大車輪。

 たくさんのゴンドラが揺れるその内の一つの中に、彼らは居た。

 眼下には煌めく夜の遊園地。残念ながらガラス張りの天蓋てんがいから見える空は曇りがちだが、それでも時折綺麗な月が覗く。

 限りなく狭く、そしてどこまでも広いロマンティックな空間に、若い男女が二人きり――恋する誰もが一度は憧れる状況シチュエーション

 そんな夢のような状況シチュエーションに突如として放り込まれた彼ら、久世真太郎くせしんたろう桐山桃華きりやまももかの二人は――。


「け、結局二人で乗っちゃったね、あはは……」

「そ、そうだね、はは……」


 ――果てしなく気まずい空気の中、から笑いを交わしていた。

 こうなるのも無理はない。なぜなら彼らは世の恋人カップルたちがそうするように、望んで二人きりでこの観覧車に乗ったわけではないのだから。


「や、夜景、綺麗だね、あはは……」

「そ、そうだね、はは……」


 似たような会話を繰り返し、そして途切れる。

 この桃華のぎこちない感じは出会ったばかりの頃を思い出して懐かしい気持ちを覚えもするが……今、真太郎の心はそれ以上に動揺で満たされていた。

 突然場を離れた悠真ゆうまと、それを追っていった未来みく。今二人がどうしているのかと思うだけで、妙な焦燥感が全身を襲う。とはいえ、どんなに焦ったところでこの観覧車はあと一〇分近くは地上に戻らないのだが。


「……残念だったね。悠真と、七海さんのこと」

「……えっ?」


 まるで心中を読んだかのようなその言葉にギクリ、と真太郎が身体を強張らせる。


「一緒に観覧車乗れないの、残念だなって。せっかくだから、最後はみんな一緒にこの景色を見たかったよ」

「あ、ああ……そういう……」


 心から残念そうに、そして彼らの代わりとばかりに夜の世界を眺めながらそう言う彼女に、真太郎は内心でホッと胸を撫で下ろす。


「でも私、ちょっとホッとしたよ。今日一日で悠真と七海さん、本当にちゃんと仲直りできたんだって分かったから」

「……そうだね。僕もそう思うよ」


 それは嘘と本音が入りじった肯定。

 自分でも答えを出せない半濁の言葉に、しかし目の前の少女はどこか気遣わしげな声音で言った。


「……本当?」

「……え?」


 その透明な疑問符が、濁った真太郎の心に突き刺さる。


「ど、どういう意味だい?」

「う、ううん。ただなんとなく、なんだけど……」


 バタバタと胸の前で両手を振る桃華は、「ただ」と言葉をつむいだ。


「さっきのフードコート……久世くん、微妙な顔で二人のことを見てたから……」

「うぐっ……!」


 見られていたのか、そして気付かれていたのか、という二つの動揺に、真太郎は思わず呻き声を上げる。

 あの時は余裕がなかったというのもあるが、こうして面と向かって聞いてくるということはよほど分かりやすい顔をしていたのだろう。


「……小野おのくんと未来が仲直りできたのは、本当に嬉しいんだ。というより、未来と小野くんが仲良くなれたこと自体が、かな」


 わずかな逡巡の末、真太郎は誤魔化すことをせずにぽつりと話し始めた。


「未来は……今でこそ人を寄せ付けなくなってしまったけれど、昔は本当に明るい子だったんだ。明るくて、元気で、優しくて……みんなに好かれていた」


 ――真太郎じぶんを含めた、みんなに。


「でもいつからか彼女は笑わなくなって、人をね付けるようになって……それまで友だちだった人たちもみんな離れていってしまった。そしてそれは――僕だって例外じゃない。僕は独りになった彼女に、何もしてあげられなかったんだから」


 ――未来が孤独それを望むなら。

 ――努力を重ね、いつか並び立てる日が来るまでは。

 その裏にどんな気持ちが、感情があったとしても、それは他ならぬ事実だ。

 未来は長い間孤独に身を置き、そして真太郎はなにも出来なかった。


「……彼女を孤独そこから救ったのは小野くんだ。未来が誰よりも信頼しているのも彼で……僕じゃない。きっと今日、遊園地に誘ったのが小野くんじゃなくて僕だったら、未来はそれをあっさり断っていただろう」

「……」


 桃華は否定しなかった。ただ静かに聞いている。それは一見残酷なようだが、今の真太郎には有り難かった。

 下手な慰めほど苦しいものはない。ちょうど今日、悠真も似たような事を言っていただろうか。


「――僕は、小野くんには敵わない」


 杯からあふれだしたその一滴ひとことが皮切りだった。


「彼は、僕が何年経っても変えられなかったものを変えたんだ。対等に話して、時には喧嘩して――〝普通〟の友だちとして未来と接した。僕がどうしても踏み出せずにいた彼女の側に、彼は普通に立っている」


 自分の中の不明瞭な感情が――どうしようもない敗北感のその正体が、堰を切ったようにドロドロと口からこぼれていく。

 こんなのは醜いだけだ。そうだと分かっているのに――止まらない。

 汚らしい本心が、自分でも目を背けずにはいられなかった感情が。


「僕は……僕は自分が情けなくて仕方がない……僕はいつだって自分のことばかり考えている……〝誰かのため〟と思い込んで、肯定して……でも最後は結局、ただ自分が傷付きたくないだけ……!」


 嫉妬でもなければ失恋でもなく。

 それは、積もりに積もった〝自己嫌悪〟の塊。

 未来に手を伸ばさなかったのは、その手を払いのけられたくなかったから。

 努力を重ねてきたのは、なにも出来ないままの自分が怖かったから。


「いつか未来みくの隣に並び立つために努力する」。綺麗な言葉だ。未来さきを見据えた、非常に口当たりの良い言葉だ。

 だがそれは同時に、現在いま未来みくを見捨てることと同義。教室の隅で一人本を読んでいる孤独な彼女を〝いつか〟救おうとしていただけ。

 そんな格好ばかりの正義感は――目の前で彼女が救われた現在いま、等しく無意味でしかなかったと思い知らされた。


「僕は……意気地いくじなしの、ただの臆病者だったんだ」


 最後に口からこぼれたその言葉は、暗い夜の空ににじんでいく。

 ――いつの間にか、月は雲に飲み込まれて消えていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る