第一六八編 そう考えるとチーターって凄い

 ――俺はガキの頃から、とにかく臆病な人間だった。

 親に叱られるのも、先生に叱られるのも、友だちと喧嘩するのだって怖かった。だから俺は良い子でこそなかったものの、ワガママも好き嫌いもせず、学級規則もそれなりに遵守じゅんしゅし、数は多くなくても友だちになった連中とは上手く付き合える人間にはなれた。

 もし仮に天上天下てんじょうてんげ唯我独尊ゆいがどくそんを地で行くような自己中心的ジコチュー野郎だったなら、俺はおそらく孤独になっていただろう。そういうのは能力の高い人間だからこそ許される態度だからだ。ロースペックのくせに態度だけでかい人間なんて、ただ嫌われて当然である。


 そういう意味では〝臆病〟とは一概に欠点とは限らない。九死に一生を得られるかどうか、という戦いに臨む者を〝勇者〟と呼ぶか〝蛮勇〟と呼ぶかが人によって分かれるように、〝臆病〟とは裏を返せば〝慎重〟や〝思慮深い〟とも言えるからだ。

 ありとあらゆる可能性を考慮し、予防線を張り巡らせ、危険に備えられる者。それこそが俺、小野悠真おのゆうまの本質なのである――


「……長々と語っているところ悪いのだけれど、それは要するに『怖いからこのジェットコースターに乗りたくない』という意味で捉えて間違っていないかしら」

「…………」


 ついこの前、テレビ画面の向こう側にいる芸能人が嫌そうなリアクションで笑いをとっていたジェットコースターの乗降口手前まで来てしまった俺の持論改め〝言い分〟を聞いたお嬢様の呆れ声に、俺は黙って顔を逸らした。


「……なあ、なんでよりによって一番こわいやつからなんだ? 普通もうちょっとマイルドなやつからにするべきだよな? 順序おかしくない?」

桐山きりやまさんが『人気のアトラクションは待ち時間がすごくなるから朝イチで乗ろう』と言ったからでしょう。ちなみに貴方はそれに真っ先に賛成していたわ」

「…………」


 三〇分前、桃華ももかにいいところを見せたいという無意味な男気を発揮してしまった自分を殴りたい。そして当の桃華はと言えば、心なしか顔色の悪い久世くせの隣で自分達の番はまだかと顔を輝かせている。


「……フッ……あの笑顔のためなら、一肌脱いでやろうという気にもなってしまうな……」

「格好つけるのは自由だけれど、そんなに足を震わせながら言われても説得力がないわよ」

「……お前は平気そうだな。怖くねえの、今からアレに乗るんだぞ……?」


 言いながら指差したのは、遠くの空を縦横無尽に駆け回るジェットコースターだった。見上げた首が折れてしまうのではないかというくらいの高さから高速で降下していくマシンから聞こえてくる轟音とそれをかき消すほどの絶叫が、広いパーク内全体に響き渡っている。

 俺とてこの手のアトラクションは初めてではないが……かといって遊園地なんて中学二年の修学旅行以来だ。そして学校で行くレベルの遊園地にあるジェットコースターなんてたかが知れている……俺はそれでも十分すぎるほど怖かったわけだが。

 そんな俺からしてみれば桃華はもちろん、この状況下でしれっとしている七海ななみも信じ難い強心臓の持ち主に思えてならなかった。


「……私、遊園地に来たのなんてこれが初めてだわ」


 いよいよ次に迫った順番待ちに胃を痛めつつある俺が七海の言葉に「えっ、まじで?」と返すと、彼女はコク、と小さく頷く。


「お祖母ばあ様が言うには私が物心つく前に一度だけ足を運んだそうだけれど……記憶にある中ではこれが最初」

「へえ……」


 ……だとしたら、なんとしても楽しんでほしいものだ。

 俺は柄にもないことを考えてから、ニヤリと悪どい笑みを浮かべる。


「やめとくなら今のうちだぜ? 後からピーピー泣いても知らねえからな?」

「あら、随分と安い挑発をするのね、小野くん。生憎あいにくだけれど、私はこの程度のことで怯えたりはしないわ」


 係員のお姉さんに呼ばれ、乗降口脇に設置されている簡易ロッカー手荷物を預けた俺たちは、予め決めておいた順番通り久世と桃華、俺と七海のペアで二列席になっているマシンへと乗り込んだ。

 うへぇ、足が床につかないやつだ……と俺が内心でビビり散らかしながら左隣を見ると、流石に乗り込む直前に完全武装を解いたお嬢様が、顔を伏せがちにしつつも余裕そうな表情で座っている。


「……おお、お前はホントに大丈夫そうだな……」


 見れば、よりによって先頭になってしまった久世がハイテンションな桃華に「久世くんっ、手上げるよね!?」と当然のように言われて笑顔のまま硬直しているのが見えた。……普段の俺なら桃華の隣の席で羨ましいなあ、久世を殴りたいなあと思うところだが、今はつくづく桃華アイツの隣にならなくて良かったと思える。


「……さっき、桐山さんが見ていたパンフレットがあったでしょう」

「あ、ああ。それが?」

「そこに書いてあった情報ではこのジェットコースターの最高時速は一三〇キロメートル。これはチーターの走る速度と同等か少し速い程度なのよ」

「えっ、そうなの? ……なんかそう聞くと大したことなさそうに感じるな」


 なるほど、だから七海はこんなに余裕綽々よゆうしゃくしゃくなのか。確かによく考えたら高速道路の車だって時速一〇〇キロ前後で走ることはあるわけで、つまりこのコースターはそれに色を付けたようなもの。


「……なんだよ、ビビって損したな」

「そうでしょう。こんなことで怯えるのは馬鹿らしいわ」

「だな。フッ、どうやらまた一つ、俺は強くなっちまったようだぜ」


 ハッハッハ、と笑っている間にマシンがガクンと大きく揺れて進み始めた。前の席で久世が「うぐっ……!」という噛み殺したような悲鳴を上げているのを見て「オイオイ久世、チーターの速度ごときでそんなに怯えるなよ」と言ってやりたくなってしまうが、レールの駆動音と後ろの客の沸き立つ声の大きさに断念する。

 いっそ風景でも楽しむかのような気持ちでマシンに揺られること――約二分弱。地上から七〇メートル近く離れた辺りで、俺はひきつった顔を隣へ向けた。


「……なあ七海? なんか思ったより怖いような気がしないかい?」

「…………奇遇ね。なんだか私もそんな気がしてきたわ……」


 七海が心なしか青くなった顔でぽつりと呟いた――その数秒後。俺たちを乗せたジェットコースターは高速道路の自動車では決して味わえない強さの空気抵抗を伴いながら空を舞った。

 恐怖のあまりギュッと瞳を閉じ、必死に安全バーにしがみついて耐える俺の左手が、不意になにか温かいものにぎゅうっと握り締められたような気がするが……それはたぶん気のせいだったのだろう。

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