第一六四編 「また明日」

 俺のバイトシフトでは月曜日が休みになることが多い。激務の土日業務を越えた後の、ささやかなお楽しみタイムである。

 放課後、俺が鼻歌まじりに今晩はなにをしようかと考えていると、しかしすぐ隣から無神経な横槍が入った。


「どうせ貴方、大した趣味なんてないじゃない」

「うるさいよ」


 下校時刻において最速を誇る七海ななみに雑に言い返しつつ、まだ他の生徒がほとんどいない正門までの道を歩く。前方へ目を向けると、俺より一歩半ほど前を行くお嬢様の横顔がオレンジ色の陽光に照らされていた。


「(――相変わらず、綺麗キレーな顔……)」


 どうせ大した手入れもしてないだろうに、男の俺でも羨んでしまうほどの美しさに思わず見惚みとれてしまう。本当に、性格面さえアレじゃなきゃ男なんかいくらでも手玉にとれそうだ。性格面さえアレじゃなきゃ。


「……今何か失礼なことを考えていないかしら」

「!? か、考えてない……アル」

「どっちなのよ」


 そこは「中国人みたいな語尾やめろ」的なツッコミが欲しかったのだが、流石に金山かねやまのようにはいかない。まあ実際の中国人が本当にアルアル言うのかは俺も知らんけど。


「……お前って、彼氏欲しいとか思わないわけ?」

「…………」

「うおっ!? な、なんだよ、急に止まるなよ」


 突然ピタリ、と七海が立ち止まったので、文句を言いつつ俺も足を止める。

 正門に着くまでの雑談程度に振った話だったのだが、彼女はちらりと目線をこちらへ向けてから再度歩き出した。


「……思わないわ。…………どうしてそんなことを聞くのよ」

「い、いや、深い意味はないけど……昼休みの話があったからさ」

美紗みさのこと?」

「ああ。妹はあんな恋愛脳なのに、姉は真逆なんだなって」

「……そうね。あの子は私と違って強いから」

「強い……?」


 少しだけ声のトーンを落とした七海に、俺は疑問符を浮かべる。


「……あの子は自分に与えられた〝特別〟を個性として――自分の武器として考えられる子なの」


〝特別〟――それは常人と比べて遥かに優れた知能や容姿、そしてお嬢様としての家柄などを指しているのだろうか。


「でも、私はそんなにポジティブにはなれないわ。……〝普通〟になれたらどんなに楽かと、今でもよく思うもの」

「……贅沢な悩みだなあ。俺はお前みたいに金持ちだったら店長にこき使われなくて済むのになーとかつくづく思うけどな」

「隣の芝生しばふは青い、というやつかしらね」


 俺の茶化しに静かに微笑んだ七海は、赤み始めた遠くの空を見上げる。

 どうしようもなく美しいその姿はどこか幻想的で――そして儚げで。その一瞬、俺は彼女がどこか遠くの世界の住人のように感じられた。

 いや、それは事実なのだろう。昼休みに〝釣り合い〟の話が出たとき七海はああ言ったが……同時に俺の考えが間違っていたとも思えなかった。

 きっと〝普通〟の俺と〝特別〟な彼女では、あの夕焼けの見え方も違うのだ。俺が一日の終わりを感じるあの赤色に、彼女は別のなにかを感じ取っているのかもしれない。


『――すべての本には、筆者の価値観が詰め込まれている』


 かつて本を読む理由を聞いた時、彼女がそう答えたことを思い出す。

 俺には彼女の〝特別〟が羨ましく見えるのと同じように、彼女は俺のような〝普通〟に対するコンプレックスがあるのだろうか。たとえば七海は家からアルバイトを禁止されていると言っていたが、それは俺が今日感じている解放感すら彼女は味わったことがないということでもある。やはり俺はそんな七海を羨ましく思うわけだが……。


「――でも、さ」

「?」


 今度は俺が立ち止まり、数瞬遅れて七海が振り返る。


「俺は…………七海が〝特別〟で良かったと思うけどな」

「……どうして?」


 逆光に映し出されたお嬢様のシルエットに若干言いよどみ、俺は照れ隠し代わりに大股で彼女を追い抜いてから言った。


「――もしお前が〝特別〟じゃなかったら、俺はきっとお前と〝友だち〟になんてなれなかったから」

「!」


 彼女がラブレターを読みもせずに捨てたりしていなければ。

 恋愛感情を「くだらない」と軽んじる彼女でなければ。

 あの日、俺はきっと彼女に声をかけたりはしなかったから。

 俺とはまったく違う〝価値観〟を持つ七海未来みくだったからこそ――俺たちは〝友だち〟になれたんだから。


「……ふふっ――そうね」


 数歩後ろから聞こえてきた、今までになくハッキリとした笑い声に、しかし俺は赤くなっているであろう顔を向けることができなかった。

 彼女は今、どんな顔で笑ったのだろう。俺の台詞じみた言葉を馬鹿にしたような顔だろうか。それとも――。


 そんな風に考えながら正門前に着くと、そこにはもはや見慣れた高級車が停められていた。隣に立つのは、これまた高そうなスーツに身を包んだ長身の女性。


「――お疲れ様でした、お嬢様」

「……そういうのは要らないと、いつも言っているでしょう」


 うやうやしく頭を下げたボディーガードの本郷ほんごうさんに、主人の七海が面倒くさそうに告げる。……このやり取りを見るのも久し振りだな。


「小野様も、本日も一日お疲れ様でした」

「あっ、はい。ありがとうございます、本郷さん」


 最初はかなり苦手意識のあった彼女に、俺はペコリと会釈する。

 そんな俺を眺めてニコニコと笑顔を浮かべていた本郷さんは、しかし不意にぶわっ、と大量の涙を流し始めた。ぎょっとして俺の肩が跳ねる。


「も、申しばけありまぜん……ッ! おびぐるじいどごろをお見ぜじまじた……ッ!」

「……とりあえず落ち着きなさい、本郷。現在進行形で見苦しいから」

「……すみません、お二人が以前までの関係に戻られたのだと再実感できて……。…………ひぐうっ……!?」

「(顔、怖っ!?)」


 必死に涙を堪えているのだろうが、その形相はもはや阿修羅あしゅらのそれだった。いっそ不細工な顔で号泣してくれた方がいくらか親しみが持てそうである。


「わだじば……ッ! わだじばおのざまだっだらぎっどおじょうざばをがえでぐだざるとじんじでおりまじだ……ッ!」

「(感無量のところ申し訳ないんですけど、何言ってんのか全然分かりません)」


 いつぞやの焼き直しのように、俺の手を両手で固く握りながらぶんぶんと振ってくる本郷さん。手の甲にボロボロと垂れ流される生温かい涙が正直ちょっと気持ち悪い。かといって俺たちのことで心労をかけたであろう彼女を無下にできるはずもないというのがタチの悪いところだ。

 ちなみに一昨日、久し振りに七海と〝甘色あまいろ〟で過ごした後も彼女はこんな感じで号泣していた。いつまで感動してんだよ。


「……本郷。いい加減にしなさい。いつまでそうしているつもりかしら」

「――ハッ! 申し訳ございません、お嬢様!」

「(変わり身早っ!?)」


 これまたいつぞやの記憶と同じように、一瞬のうちに顔面洪水状態から復帰する本郷さん。


「……ううっ……うぇぐっ……!」

「(あ、でもちょっと漏れ出してる……)」


 我慢しきれなかったのか、本郷さんの目尻から流れ出す一筋の涙。……さっきの阿修羅フェイスも怖かったが、真顔で静かに涙を流す大人の女性というのもこれはこれで超怖い。


「小野ざま、よろじげれば途中までお送りいだじまじょうか?」

「い、いえ、大丈夫です」

「ぞうですか……?」


 少しだけ残念そうな本郷さんに、「俺の家は反対方向ですから」と付け足しておく。……本音を言えば、この状態の本郷さんをあんまり長く見ていたくなかった。なんだろう、むしろ苦手意識が強まってしまった気さえするなぁ……前までとは別の意味で。

 苦笑を顔に張り付けながら遠い目をする俺に、本郷さんが開いてくれたドアから後部座席へ乗り込んだ七海が顔を向ける。


「……それじゃあ小野くん、また明日」

「えっ……ああ。……またな」


 何気ない別れ際の挨拶だ。他の友人、たとえば久世くせ桃華ももか相手なら半ば自動的に繰り出されるような。

 けれど――あの不登校気味のお嬢様が「また明日」と言ったことに、俺は腹の底がふつふつと沸くような喜びを感じていた。


「……ッ! うぇぐ……ひうっ……ッ!」


 ……そしてそれは、どうやら運転席に乗り込んだ本郷さんも同じだったらしい。

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