第一五八編 The day after Valentine㉔
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「――あら、本当に来たのね」
「テメェが呼びつけたせいだろうが」
先に席に着いていた少女――七海未来が手にしている本からチラリと視線を上げると同時に、スタッフルームから出てきたばかりの少年――
「……というより、貴方まだ仕事中じゃないの? 予定の時間より随分早いけれど」
「なんか知らんが、店長が『今日は早上がりでいい』ってうるさいから甘えてきた」
未来の問いに答えながら、店長――
一色が最近ずっと自分のことを心配していたことを知らない悠真の目には、妙にニヤニヤニマニマと笑いながら早退させようとしてきた上司の姿は不気味に映っていた。
今日は土曜だからそんなに暇じゃないはずなんだけどな、と呟きつつ、中で貰ってきたらしいコーヒーに口をつける悠真に、未来はさして興味なさげに「そう」とだけ呟き、本をパタンと閉じる。
「……まあいいわ。……それで、彼女はいいの?」
「あ? ああ、桃華のことか? アイツは元々朝夕シフトだから、ちょっと前に上がったぞ」
「そんなことを聞いているんじゃないわ。彼女、
「俺は野次馬か」
コーヒーが少し苦かったのか、テーブル上に備えてある角砂糖を一つカップの中に落としつつ、悠真はツッコミを入れる。
「見物もなにも、俺は今日
「? じゃあどうして
昨夜、つまりバレンタインデー当日の夜、久方ぶりに未来の携帯に悠真から電話が入った。
内容は「久世に嫌いな果物があるかどうか調べてほしい」というよく分からないものだったが、その際に彼は「バレンタインチョコに使うらしい」と言っていたはずだ。
「いや、俺も悪魔――じゃなくて
「……意外ね。貴方なら無理やりにでも聞き出そうとすると思ったのだけれど」
「あの悪魔女に喧嘩売る度胸なんかねえよ。それにどのみちお前に『調べる代わりに明日の予定を空けとけ』って言われてたから、聞き出してたとしても行けなかっただろ」
「……そうね」
それこそ昨夜、未来が悠真に提示した条件だった。
既にテーブルの上にいくつも並んでいるケーキの載った皿からシフォンケーキを取り分ける未来をなんとなく眺めつつ、悠真は続けて口を開いた。
「というか『意外』はこっちの台詞だよ」
「……なにがかしら?」
「いや……だってお前、昨日学校の屋上で言っただろ。俺との〝契約〟をお仕舞いにする、その考えは変わらない、って。それなのに、昨夜はなんだかんだで協力してくれたからさ」
「……それについては、昨日ちゃんと話したはずだけれど」
言ってから、未来はシフォンケーキを一口含む。相変わらず、一々綺麗な所作である――食べている量は上品とはほど遠いが。特に今日は、今まで見たこともない枚数の皿が机の端に積み上げられている。
それを見て悠真は「回転寿司か」と内心でツッコみ、そしてふと考える。
そういえば、彼女が〝甘色〟に来るのはそれこそ数週間ぶりなのだ。少なくとも悠真がここで働き始めるより前から常連だったくらいだし、未来にとってこの店はそれなりにお気に入りだったはず。
そんな〝甘色〟に来なくなるほど、彼女は真剣に悠真との〝契約〟を断ち切ろうとしていた。
話を聞いた今ではそれが悠真のためであったと理解できているが、だからこそ昨夜、悠真の頼みに応じてくれたことが意外だったのである。
「……もう一度言っておくけれど、私はもう無条件で貴方の頼みを聞いたりはしない。貴方が貴方自身を傷付けるようなやり方で彼女の恋を応援しようとするなら、私は貴方に協力しない。当然でしょう、私たちはもう〝契約〟関係にはないのだから。手を貸すかどうかは、私が自分で決めるわ」
「……」
「だから勘違いしないで頂戴。今回手を貸したからといって、今後もそうだとは限らないのだから」
「……ああ、分かってる」
それは確かに昨日の放課後、未来が悠真に告げた内容だった。
「悠真の傷付く姿を見たくない」と心情を吐露した未来に出来る最大の譲歩。
本当は、彼女はもう悠真に手を貸すこと自体が嫌だっただろう。悠真自身が認めていた通り、もしも桃華の恋が叶った時、きっと悠真は傷付くことになるから。
それでも未来がこうして譲歩したのは、彼に変わらぬ固い意志があったからこそ。
『今
たとえ未来が協力せずとも、彼は桃華の恋を応援し続けただろう。
決して能力が高いわけではない彼は、それでも〝不可能〟でない限り、手を尽くそうとするのだろう。それが自身を省みない無茶な方法だったとしても。
だから未来は〝協力の条件〟を付けたのだ。これまでのように〝契約〟だからと無条件に協力することはしない、協力するなら
そして悠真もそれを飲んだからこそ――二人はまたこうして、テーブルを挟んで座っている。
端から見ればこれまでと変わらぬように映るであろう彼らは、しかし決定的に変わった。
最早彼らは、〝単なる契約関係〟を脱したのだ。
「――にしても、なんで今日は呼び出したりしたんだよ? こんな条件、付ける必要あったか?」
「放っておいたら貴方は馬鹿な真似をしかねないでしょう。だから私の目につくところに置いておこうと思って」
「いや、どうやったらバレンタインにそんな事態になるんだよ」
「分からないでしょう。貴方のことだから、桐山さんが川に落としたチョコレートを泳いで取りに行こうとするかもしれないわ」
「一度川に落としたチョコレートをそれでも桃華に渡させて久世に食わせようとするとかド畜生の発想じゃねえか」
「あら、一度川に落としたクリスマスプレゼントを考えなしに拾おうとした人に言われたくはないのだけれど?」
「う、うるさいな……必死だったんだよ、あの時は」
「ええ、知っているわ。貴方は彼女のこととなるとすぐに周りが見えなくなる」
自身の胸の痛みさえ、忘れてしまうほどに。
「――だから、私がこうして見張っているのよ」
「……へいへい、そりゃどうもー」
拗ねたように顔を逸らして頬杖をつく悠真を見て、未来はわずかに頬を緩める。
まるで、出来の悪い弟でも持ったような気分だった。聞き分けのない、姉の心配を
けれど――
「……つーか今思ったけど、あのイケメン野郎はどうせアホみたいにチョコ貰ったんじゃねえのか? だとしたら桃華のチョコ、霞まねえ?」
「……さあ、どうかしら。興味がないから知らないわ」
「
「あら、嫉妬?」
「はんっ、誰が! バレンタインは数じゃねぇ、質だ質! 本命をいくつ貰えるかが大事なんだろうが!」
「……その理屈だと、久世くんは質も量も兼ね備えていることになると思うのだけれど」
「…………」
「……ごめんなさい」
「謝んなや! 余計泣けてくるわ!」
どうやら質も量も
「……質が第一だというのなら、
「悲惨言うな。い、いいんだよ、俺は。そもそもそんなにチョコ好きでもねえし……」
「負け犬の遠吠えね」
「やかましいわ。もういい、こうなったら
「ついでにお金も無いのね」
〝甘色〟のお高いメニュー表を見てその気が失せたらしい彼を暫く無言で見つめた後、未来は彼の前にそっと皿を滑らせる。
「……? なんだよ?」
「食べなさい」
「は?」
お嬢様にそう言われ、悠真は視線を皿に落とす。
皿の上に載せられていたのは――美しい飾りつけが施されたチョコレートケーキ。
バレンタインデー当日に〝甘色〟で販売されていた限定チョコレートケーキの売れ残りだろう。〝甘色〟のケーキセットが量に対して安いのは、こういった余り物もまとめられているためだ。……もっとも、それでも悠真のような一般的な高校生が易々と手を出せる値段ではないのだが。
悠真はしばらくそのケーキを見つめた後――未来の顔を真っ直ぐに見る。
「……俺、どうせ貰うならそっちのチーズケーキの方がいい――」
「そう、要らないのね」
「ウソウソウソウソ! ごめんなさい有り難く、ありがたーくいただきますどうもありがとう!」
即座に皿を引こうとする未来の腕にすがり付き、半分奪取するような形でチョコレートケーキを確保する。
特別な日に販売しているだけのことはあり、随所に店長のこだわりが感じられるケーキに雑にフォークを突き刺して頬張る悠真を見て、未来はもう一度、そして今度は明確に瞳を細める。
『――分かった。お前との〝契約〟は、もう諦める』
放課後の屋上で、彼がそう言ったことを思い出す。
それを聞いた未来は、自分から言い出したにも関わらず胸の奥に小さな痛みを覚え――しかしいつもの無関心な声で「そう」と答え、その場を去ろうとした。
だが直後に、彼は続けた。
『――でも、俺はこれからもお前の力を貸してほしい。あの〝契約〟がお前の望むものじゃないんなら、別の形でもなんでもいい。お前が納得する方法でいいから、俺に力を貸してくれ』
往生際が悪い――とは、未来は思わなかった。
なぜならそれは、とても彼らしい言葉だったから。目的のためにはどんな馬鹿な真似でも
『――〝別の形〟って、例えば何?』
『な、何? え、えーっと、だからその……』
振り返り、未来がそう問い掛けると、彼はしばらくうんうんと唸った後、とても言いづらそうに、しかしハッキリ聞き取れる声量で言った。
『と――〝友だち〟、とか……』
『……。…………。…………フフッ――』
『あ、ああッ!? て、テメェ
彼なりの真剣な言葉を侮辱されたと思ったのだろう。顔を赤くしながらも吠えかかってくる悠真に、未来はしばらく顔を背けて肩を震わせてから答えた。
『……
――馬鹿にしたのではなく、嬉しかったから。
他人を避け続け、いつしか皆が遠巻きに眺めるばかりになった孤独な
彼女を色眼鏡で見ることなく、常に対等な関係で居続けた彼にそうだと認められたことが。
「……な、なにニヤニヤしてんだよ、気持ち悪いな……」
「……私にそんな口を聞いたのは貴方が初めてよ。……気付いていないみたいだけれど、あそこに
「うぇっ!? うわホントだ!? つーかなにしてんのあの人!? すげぇイイ笑顔で号泣しながらガラスに張り付いてるんですけど!? 大丈夫かあの人!?」
主人が少年と和解できたことがよほど嬉しいのか、店舗の大窓に張り付き、嬉し泣きをしながらサムズアップしているボディーガードの姿がそこにはあった。
その存在に気付いた悠真がドン引きする中、未来は誰にも聞こえないような声色で呟く。
「――ええ、もう大丈夫よ……心配を掛けたわね」
それは果たして悠真へ向けた言葉か、それともずっと孤独な主人を心配していた護衛官へ向けた言葉か。
あるいは――記憶の中に住まう、かつて太陽のように笑っていた幼い
明るく、誰からも好かれた彼女はもう居ない。あの頃の彼女に戻るには、未来は
けれど――少なくとも今、
馬鹿で、無礼で、騒がしく、そして愚かなこの少年と〝友だち〟になれたから。
ようやく、本当に対等な関係になれたから。
バレンタインの翌日に差し出された売れ残りのチョコレートケーキは、しかし少女にとっては何よりも特別で、何よりも甘かった。
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