第一五六編 The day after Valentine㉒



「おかえりお姉ちゃんどうだった!?」

「……なにがかしら」


 帰宅したお姉ちゃんがリビングに入ってくるなり、私は彼女に駆け寄ってまくし立てるように問い掛けた。

 対するお姉ちゃんは、あからさまに面倒くさそうな目で私のことを見下ろしている。


「〝なにが〟じゃないよ! お、小野おのさんと話してきたんでしょ!? ど、どうなったの!? 仲直りできた!?」

「……どうして貴女がそんなことを知っているのかしら。貴方は久世くせくんにチョコレートを渡しに行ったんじゃなかったの?」

「うえっ!? お、お姉ちゃんこそなんでそれを知って……じゃなくて!? ど、どうでもいいでしょそんなこと!?」


 あの後――つまり真太郎しんたろうさんにバレンタインのチョコレートを渡した後、私は彼の口から話を聞いた。お姉ちゃんと桐山きりやま先輩が対峙しているらしい屋上に実はこっそり小野さんが隠れていたことや、わざわざあんな遠回りなやり方をしていた理由などの話だ。

 流石に真太郎さんはお姉ちゃんと小野さんが仲違なかたがいしている理由までは知らない様子だったが、裏事情までキッチリ把握していた私からすればハラハラものである。直前までは「小野さんとお姉ちゃんに直接話をさせればいい」とか考えていたものの、いざ直接対峙したとなると「下手したら絶縁まで行くんじゃ……!?」みたいな不安が湧き出てきてしまったのだ。


 本当はお姉ちゃんが戻ってくるまで正門の前で待っていたかったのだが……結局それはしなかった。

 成り行きで手助けをしたとはいえ、私はお姉ちゃんと小野さんのことを知った上で一度は〝静観〟を選んだのだから。であればその結果を一番に知るべきなのは真太郎さんと桐山先輩、後は協力者だという二人の友人だけだろう。……まあこうして家に帰ってきた途端に問い詰めているのだから、そんなのは私の自己満足でしかないのだが。


「……そういえば美紗みさ。貴方二日前に本郷ほんごうを連れ回していたわね」

「うっ!?」

「二日前といえば……。……そう、そういうことね」

「な、なにが!? なにが『そういうこと』なのかなお姉ちゃん!?」

「いいえ。……ただ、彼の話を聞いただけでは不完全な部分があったから。それが今補完できて良かったわ」

「だからなにが!?」


 よく分からないが、うちのお姉ちゃんは既に色々とお見通しらしかった。……今の二言三言でいったいなにを補完し得るというのか。


「(……ほらね小野さん。あなたは私のこと『怖い』って言いましたけど、私なんか怖くないんです、普通なんです。本当に『怖い』のはこういう人のことを言うんですよ……)」


 などと脳内で小野さんに語りかけている私の側を通り過ぎ、ソファー前のテーブルに荷物を置いたお姉ちゃんはキッチンへ向かう。おそらくいつもの安物インスタントコーヒーを淹れに行ったのだろう。

 そんなお姉ちゃんの背中をぼんやりと眺めていた私に、彼女は静かな声で言った。


「……〝仲直り〟なんてしていないわ。彼との〝契約〟はもうお仕舞い――今さらそれを変えるつもりもないから」

「……!」


 目を見開いた私の心に失意の感情が浮かぶ。

 駄目だったのか。小野さんでも、お姉ちゃんを変えるには至らなかったのか、と。

 私は期待していたのだ。あの他人ひと嫌いのお姉ちゃんが側に置いているほどの人なら、彼女の冷えきった――凍りついた心を溶かしてくれるのではないかと。

 けれど……それは甘い考えだったらしい。気付かず、期待しすぎていたのかもしれない。


「(……ううん。小野さんのせいじゃないよね。お姉ちゃんを変えられなかったのは、私だって同じなんだから……でも……)」


 コーヒーの香りが漂ってくる。相変わらず、あまり美味しそうだとは思えない香りだ。澤村さわむらさんが淹れてくれるコーヒーの方がずっと美味しいだろう。

 お姉ちゃんの感性は独特だと思う。決して味音痴ではないのに、敢えてあんな安物のコーヒーを飲みたがるなんて。


 でも――もしかしたらそれは〝普通〟に対する渇望がゆえかもしれないと、最近私は思うようになった。

 頭脳も、美貌も、家柄も。なにもかもが〝普通〟じゃない彼女にとって、ああいった〝一般的ふつうのもの〟というものは羨ましく映るのかもしれないと。

 血の繋がったわたしでさえ、彼女の瞳に映る世界は分からない。私にとって大切なものはお姉ちゃんにとってはどうでもいいもので、私がとるに足らないと感じるものは彼女にとっては価値あるもので。


 だからこそ思っていた――小野さんという存在は、お姉ちゃんにとっては特別足り得ると。

 どこからどう見ても〝普通〟な彼は、お姉ちゃんの瞳には特別に映るのではないかと。

 しかし、そんなことはなかったらしい。少なくとも彼は、お姉ちゃんを変えることは出来なかった。

 それがどうしてか無性に悔しくて、私は一人ぎゅっ、と拳を握り締める。


「(……私は……小野さんなら、お姉ちゃんと――)」


 そんな時、携帯電話のバイブレーションの音がリビングに響いた。

 自分かと思ったが、どうやら鳴っているのはお姉ちゃんの携帯のようだ。


「(うるさいなぁ……誰よ、こんな時間に……)」


 八つ当たりとばかりにテーブル上でブーブー振動する液晶画面を見て……私はギョッとする。なぜならそこに表示されていた名前は――


 ――〝小野 悠真ゆうま〟。


「なんっ……!? えっ……!? だっ……!?」


 動揺のあまり上手く言葉が出てこない私の視界から、携帯電話が取り上げられる。顔を向けると湯気立つマグカップを片手に、お姉ちゃんが無表情に画面を見つめていた。


「……」

「(な、なんで小野さんが……!? というかこの状況、覚えがあるような気がするんだけど……!?)」


 そうだ、私がまだ小野さんの顔も知らない頃、同じようにお姉ちゃんの携帯が鳴ったことがあった。

 当時はお姉ちゃんの携帯に異性から連絡がきたというだけで驚愕していたが、その時確かお姉ちゃんは何度か着信を切っちゃって――


「――もしもし」

「(って切らないの!? 普通に出ちゃうの!? ……。……いや出るのが普通だよ! 普通だけどもさ!?)」


 かつての記憶との差違に心の中でツッコミを入れる私。

 そんな私に構わず、お姉ちゃんはソファーに腰掛け、電話口に向かって何やら話し始める。話すというより相槌を打っている、という方が正しいかもしれない。


「(……で、でも本当になんで……? だ、だってお姉ちゃんさっき、仲直りなんてしてないって……小野さんとの〝契約〟はお仕舞いにしたって……!?)」


 わけが分からなかった。もしかして、それでも諦めきれずに小野さんが電話を掛けてきたのか? いや、でもだとしたらそれこそお姉ちゃんは着信を切りそうだし……。

 与えられた情報と目の前の状況が一致せず、混乱する頭で考える私の耳に、お姉ちゃんの話し声が聞こえてくる。


「――そう……分かったわ。……ただし、一つだけ条件を飲んでもらうけれど」


 そこでお姉ちゃんはなぜかチラリと私の顔を見た。

 その黒い瞳の奥にある色は少しだけ、ほんの少しだけ――かつての、楽しそうに笑うお姉ちゃんのようだった。

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