第一五五編 The day after Valentine㉑

「――私には、恋愛なんて分からない」


 再び俺から視線を逸らし、七海が静かな声で言う。


「けれど……貴方がどれだけ彼女を――桐山きりやまさんのことを想ってきたのかは知っているわ。彼女のために、馬鹿な真似をする貴方をずっと見てきたから」

「……」

「最初は、それは貴方の自由だし、私が理解する必要はないことだと思っていた。貴方がどれだけ傷付こうと……どれだけ苦しもうと、それは貴方の自己責任でしかないと、そう思っていた」

「そりゃ……そうだろ。俺は自分でやると決めたから桃華ももかのことを応援してきたんだから」


 正直に言えば最初の頃は……というか今でもたまに、久世くせと楽しそうに話している桃華の姿に胸が痛むことはある。彼女に告白だけでもしておけば、という後悔をしたことがないとは言わない。

 だがそれら全てを覚悟した上で、俺は彼女の恋を助けたいと思った。彼女には俺のように、無意味な初恋で終わってほしくないと。


 当然そのことについて、俺以外の誰かに責任があると考えたことなど一度もない。

 俺の失恋は俺に〝勇気〟がなかったせいだし、桃華が久世に惚れたのだってある意味当然のことだ。そう思えるくらいには、あのイケメン野郎はイイヤツだったから。

 ましてや俺から協力を頼んだ七海になど、感謝こそすれど責任を感じてもらう必要性なんてこれっぽっちもないのだ。あるはずがない。

 しかしベンチに腰掛けた学園一美しい少女は「そうじゃないわ」静かに首を横に振る。


「――、貴方が傷付くところなんてもう見たくないのよ」


 気のせいだろうか。わずかに震える声で、七海は続ける。


「桐山さんのために、彼女の恋のために傷付く貴方の姿を見たくない。彼女のために無茶をする貴方を見たくない……見たくないのよ……」


 両足の上に置いた手を、七海はきゅっと握り締めた。

 いつも冷静沈着で大人びて見える彼女が――どうしてか、今ばかりは小さな子どものように見える。


「……どうしてそこまでするのよ……もしも仮に桐山さんの恋が叶ったとして、それは貴方にとって何の利点メリットもないじゃない。彼女はきっと、最後まで貴方の尽力に気付かない――その影で貴方がどれだけ傷付いているのかも知らずに笑っているのよ」

「……」

「たとえそれが貴方の望みだとしても……私はもう見ていられない。そうするくらいなら、貴方自身の恋に尽くした方が余程有意義じゃない。上手く言えないけれど……貴方が他人だれかのために苦しんでいる姿を見るのは、もう嫌なのよ」


 彼女の表情は変わらない。変わらず――能面のような無表情だ。

 けれど何故か俺の目には、彼女が泣いているように見えた。小さな子どもが、うずくまって泣いているかのように。


「……それが、〝契約〟をお仕舞いにした本当の理由か?」

「……ええ、そうよ」


 頷いて、七海が口を閉じる。

 一瞬の静寂が放課後の屋上を支配し――そして俺は静かに息をついた。


「――なんだよ、心配して損した」

「……。……は?」


 まさか真剣な話をそんな風にぶったぎられるとは思っていなかったのだろう。安堵の息をつく俺に対して七海がギロッとした――普段久世に向けているより凶悪さが五割ほど増した視線を向けてくるので、慌てて「い、いや、そうじゃなくてさ!?」と弁解を試みる。


「なんというか、すげえ深刻で真剣な理由で〝契約〟を終わらせたのかと思ってたからさ!? まさかそんな理由だとは思わなくてさ!?」

「…………十分深刻で真剣な理由だったつもりだけれど……?」

「い、いやそうかもしれないけどそうじゃなくてさ!? 俺はてっきり、俺がお前に頼りすぎたせいだとばっかり思ってたからさ!?」


 焦りのあまり「さ!?」を連発する俺に、無表情はそのままに〝怒り〟の感情だけを瞳の奥にたぎらせるお嬢様。……め、めちゃくちゃ怖い。初めて話し掛けた時より、クリスマスに叱られたときより何倍も。

 そしてそれは同時に、先程の彼女の話が真実だということの裏返しのようでもあって――それが俺は、妙に嬉しかった。

 ……ただ、このタイミングで笑みを浮かべたのは間違い以外の何物でもなかったらしい。お陰でうるわしきお嬢様は、更に怒りのボルテージを一段階お引き上げあそばされた。


「……なにを笑っているのかしら? 私の話がそんなに可笑おかしかった……?」

「ち、違う違う違う!? 本当に馬鹿にしたわけじゃなくて!? だ、だって思わないだろ!? 七海未来おまえがそんな、まるで〝人のいたみを理解できるヒト〟みたいなこと言い出すなんて!?」

「……これを言うのも数度目だけれど、貴方は私をなんだと思っているのかしら」


 はあ、と溜め息をついて、七海は瞳を閉じた。俺が彼女の感情を読み取れる材料は目だけなので、途端に烈火のごとき怒りから解放されたような気がする。気がするだけだろうが。


「……本当にごめん。でも本当に意外でさ……ほら、お前って平気な顔でラブレターとか捨てる奴だし、俺のことも〝多少使い道があるだけのゴミ〟みたいに思ってやがるのかとばかり……」

「思ってないわよ。真面目に謝るフリをして追加攻撃してこないで貰えるかしら」

「それがまさか『貴方が傷付くところを見たくない』とか言い出すなんて、そりゃ予想できないだろ? どちらかというと『貴方の顔なんて見たくない』とか言いそうだろ?」

「そうね、今の私はまさしくそういう心境よ」


 もしかしてを閉じてるのはそういう理由なのか……? などという場違いな考えをよぎらせつつ、俺は静かに、そして――心からの笑みを浮かべる。


「だからお前があんな風に――みたいに俺のことを考えてくれていたことが、なんか嬉しかったんだ」

「…………」


 スッ、と七海がまぶたを開く。

 その黒の瞳の奥に燃えていた怒りの炎は綺麗に消えている。


「……俺はさ」


 俺が話し始めると、七海はそっと顔をこちらへ向けた。


「……今でも確かに、桃華のことが好きだよ。その気持ちはきっとこれからも変わらないし、もしかしたら将来、桃華アイツの恋を応援したことを後悔する日が来るかもしれない。お前の言った通り、自分の恋のために動けば良かったって、思う日が来るのかもしれない」

「……」


 だったら、とでも言いたげに口を開きかけた七海は、しかし唇を結んで言葉の続きを待ってくれる。


「でも、今桃華アイツのために動かなかったら、俺はきっとそのことを一生悔いる」

「……!」

「桃華が一番好きなのは久世で――そんで俺は、久世じゃないから。桃華アイツが一番の幸せを掴みとる機会チャンスは、きっと今しかないから」


 我ながらクサい台詞だと思う。時代遅れな考え方だし、理想論でしかないし、そもそも七海が問題にしていることへの答えにもなっていない。

 けれど時代遅れでも、理想論でしかなくても、それが今の俺の本心だった。

 俺のことを真剣に考えてくれた七海に、嘘や誤魔化しの言葉を告げたくはなかったのだ。たとえ彼女が、それを理解してくれなかったとしても。


「…………相変わらず馬鹿なのね、貴方は……」


 諦めたように息をついてから、七海がそっと呟く。

 いつか言われたようなその言葉はどこか優しげで――そして、どこか温かかったような気がした。

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