第一五四編 The day after Valentine⑳



「――どうして、そんなところに居たのかしら」


 屋上の隅に身を潜めていた俺に気付いた七海ななみは、しばらく黙り込んだ後、ぽつりと問い掛けてきた。

 こうして話し掛けられるのはすごく久し振りな気がする。いや、俺と彼女はあの勉強会の日以来一言も会話していないので、実際に久し振りなのだが。


「……どっかの悪魔みたいなギャルに無理やり詰め込まれたんだよ」

「……以前貴方が話したと言っていた人のことね」

「ああ。……そのせいで『言う通りにしないと』って脅された」

「……そう」


 さして興味もなさそうに七海は未だ隅っこに座り込んだままの俺から目を逸らし、正面に向き直る。

 今言った通り、俺がこんな砂埃まみれのところにいるのはあの悪魔ギャル――金山かねやまやよいにそう命じられたからだ。

 なにやらあの女と桃華ももか、そして久世くせの三人はどこかで俺と七海の一件を聞きつけたらしく、要約すると「七海未来みくを呼び出して話し合え」的なことを言ってきた。

 大きなお世話もいいところだ。当然俺はそれを断ろうとした――そもそも呼び出したところで七海コイツが動くとは思えなかったというのもある――のだが……そこであの悪魔は耳元で囁いてきた。


『――ここで全部、バラしてやろうか?』


「……本物マジモンの悪魔だろ、アレ……」


 ぼそりと呟き、同時にあの氷点下の声を思い出して身震いする。もし俺がここに居なかったら、金山は本気で全部バラしていたかもしれない。

 俺が今までやってきたことを――いや、それだけではないか。恐らくは、俺が桃華を好きだということさえ。

 こんなことなら大晦日おおみそかの日に多少無理をしてでも誤魔化しておけば良かったと遅まきながら後悔した。


 だが、手段こそ〝ヤ〟のつく職業の人のそれだったが……あの三人が俺のために骨を折ってくれたということだけは分かる。

 今、この女が俺の目の前にいるのがその証拠だ。


「――私は」


 こちらを見ぬまま、相変わらず透き通るような綺麗な声で七海が言う。


「……嘘はいていないわ。貴方と〝契約〟を結んでからのこの数ヶ月間、私は散々貴方に迷惑をかけられてきたのだから」

「……ああ」


 勉強会の日の夜のことを言っているのだろう。七海は〝契約〟をお仕舞いにする理由として『貴方の存在は、私にとってなんの利点メリットもないから』だと言った。

 そして俺はその通りだと思ったからこそ、それ以上彼女に食い下がることは出来なかったのだ。


「――けれど、全てが真実というわけでもない」

「……え?」


 問い返すと、彼女はやはりこちらに目を向けず、ややうつむき気味に続ける。


「……本当になんの利点メリットもないなら、私は最初から貴方を選んだりしなかった。迷惑はかけられたけれど……別に、迷惑だとは思っていなかった」

「……」

「だから……あんな言い方をしてしまったのは、私に非があると言えなくもない……と思うわ」

「は、はあ……」


 これは一応謝罪……なのだろうか? 正直俺としては七海に迷惑をかけたという自覚も、その割に彼女に見返りリターンがなかったという自覚もあったので、謝られる意味が分からず曖昧な返事をしてしまった。

 ただこの数週間、彼女は彼女なりに俺のことを考えてくれていた……ということなのかもしれない。


「……その、俺は――」

「――けれど」


 なにか返そうとした俺の言葉を、七海の声が遮る。


「私は貴方とこれ以上〝契約〟を続けるつもりはない――この意思だけは変わらないわ」

「……!」


 ハッキリそう言われ、俺は喉を詰まらせた。


「……先刻さっきの話、聞いていたのでしょう」

「えっ……あ、ああ、まあ……」


 桃華との会話のことだろう。風や吹奏楽部の合奏音のせいでところどころ聞き取りづらい部分はあったものの、七海と桃華の声質が良いからなのか、この位置にいた俺も会話内容をほとんど聞き逃さずに済んでいた。


「――私が側に居る限り、貴方はきっとこれからも無茶をするわ」


 静かな声がわずかに揺れる。

 彼女の黒い瞳は、今何かを思い返しているのだろうか。その横顔から読み取ることは出来ない。


「それが〝契約〟だからと手を貸してきたけれど……私が居なければ、きっと貴方は馬鹿な真似をせずに済んだのよ」

「……クリスマスの時のこと、か……?」


〝馬鹿な真似〟と言われて真っ先に思い付くのはそれだ。真冬の川に飛び込んだ俺のことを、七海は初めて真剣な声で叱った。

 けれど彼女は「いいえ」と少しだけ首を振った。


「それだけじゃない。私が手を貸したりしなければ、貴方は桐山きりやまさんと久世くんのことを応援しようとは思わなかったでしょう。それにもしかしたら、貴方自身が桐山さんを諦めたりせずに――」

「ま、待て待て待て!? な、なんでそうなるんだよ!?」


 今度は俺が七海の声を遮る番である。

 桃華との会話を盗み聞いている時も、俺は七海の言っていることが今一つ理解できていなかった。彼女は「私と関わったせいで」だの「おわらせた」だの妙に自罰的な言葉を口にしていたが、それが俺にはよく分からなかったのだ。

 だが今の話を聞く限り、七海は〝俺が桃華の恋を応援していること〟自体になんらかの責任を感じているらしい。


「……あのな、俺はお前と会うより前にとっくに桃華のことは完全に諦めがついて……はなかったかもしれないけど、でも少なくとも桃華の恋を応援するって決めたのはそれより先なんだ。お前が責任感じることなんかまったく――」

「それはの話でしょう。もし――もしも私が力を貸さなければ、貴方は桐山さんと久世くんを結ばせるのは不可能だと知って、もう一度貴方自身の恋に邁進まいしんしていたしれない」

「ええ……?」


 彼女らしくもない発言に困惑する。まさかあの聡明な学年首位様が今さらそんなタラレバを言い出すとは。

 そりゃクリスマスなんかは七海が居なかったらどうしようもなかったかもしれないが……いや、そもそも久世の好みやらなんやらを聞き出せなかったわけだから、クリスマスデート自体に行き着けなかった可能性すらあるが……。


 しかしそれにしたって話が極端すぎる。そもそも桃華の恋を叶えられないと悟ったとして、俺が行動しない理由にはならない。

 俺が桃華の恋を応援している一番の理由は彼女の恋を叶えるためではない。彼女に俺のような、告白もせぬまま諦めるような最悪最低の〝失恋〟をしてほしくなかったからだ。つまり告白の成功・失敗は二の次なのである。そんなこと、七海には何度も言っているはずなのだが……。


 というか万が一そんな可能性があったとしても、今さら〝契約〟を断ち切ったところでなんの意味もないではないか。

 現実に桃華と久世はかなり仲良く――まだ友人の域を出ないとはいえ――なっているのだし、 ここまで来たらもう俺は桃華とどうこうなることなんて出来るはずが――


『他の人の存在を除外して考えるなら。あなたの気持ちだけを考えるなら、どうですか?』


「……!」


 脳裏によぎったの言葉に、俺は目を見開く。

 それは二日前の、金山の喫茶店での会話だった。


『……好きだよ。ずっと……たぶん、これからも』

『――お姉ちゃんは、を知っていますか?』

『……? ああ。七海アイツが覚えてるかは知らないけど、何回か話したことはあるよ』


 ……まさか、そういうことだったのか?

 あの時はどうして七海妹がそんなことを聞いたのか分からなかったが――まさか、まさか七海未来コイツは……。

 俺はゴクリと唾を飲み込み、ベンチに座る七海に問う。


「……もしかしてお前、俺のために――、〝契約〟を終わらせようとした……のか……?」

「…………」


 彼女はすぐには答えず、ゆっくりと俺の方を振り向く。

 いつも表情が読めない彼女の瞳の奥には、しかし見たこともないほど真剣な色が浮かんでいるように見えた。

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