第一五二編 The day after Valentine⑱



『他でもない私が――彼を失恋させたおわらせたのよ。――私はもう、彼が傷付くところなんて見たくない』


 未来みくの言葉を、桃華ももかはどれくらい理解できただろう。或いは、まったく理解できていないのかもしれない。

 理解しようにも、彼女の話はあまりにも言葉足らずの説明不足だったから。「おわらせた」とはどういう意味か、どうして彼女と居るだけで悠真ゆうまが傷付くのか、どうして彼女は悠真から離れるという結論に至ったのか……分からないことだらけだ。


 だが同時に、分かったこともある。

 それは、未来は決して気まぐれや利己的な理由で悠真を突き放したのではなく、確固たる意思と深い思慮の果てに今こうしているのだということ。

 、彼を突き放したのだということだ。


「(……でも、だとしたら今の状況って……)」


 再開された吹奏楽の合奏が流れてくる夕方の屋上で、桃華は考える。

 この数週間、悠真は明らかに様子がおかしかった。いや、調子が狂っていた、という方が適切かもしれない。それは〝甘色あまいろ〟で一色いっしきが言っていた通りだ。

 その理由は今さら語るまでもなく、目の前の美しい少女とのことがあったからだろう。桃華の目には仲良さげに映っていた彼らは、あの勉強会の日以来一度も言葉を交わしていないのだから。


 そしてそれは、悠真が望んでそうなったわけではないのだ。現状が悠真の望んだものだとするなら、こうして桃華が未来に話を聞いているという状況はあり得なかった。

 本人は決して素直に認めようとはしないだろうが、彼が本当は未来との関係を元通りにしたいと願っているからこそ、桃華や真太郎しんたろうは動いたのだ。

 それは仲間のためであり、幼馴染みのためであり、あの勉強会の時、桃華じぶんの代わりに骨を折ってくれた彼へのお礼でもあり。

 そしてそれら全てを抜きにしようと、悠真のためなら桃華も真太郎も行動することをいとわなかっただろう。


〝大切な友だちのために〟――人間が行動を起こすのに、それ以上の理由なんて要らない。


 だがその一方で、桃華たちに一つの懸念があったことも事実だった。

 それは七海未来という少女の性格に由来すること。すなわち彼女という人間が、小野悠真という少年を最初からなんとも思っていなかったとしたら、という可能性の話だ。

 彼女の他人ひと嫌いは有名である。もしも悠真さえその例に漏れなかっただけだと言うのであれば、最早外野の桃華たちに成すすべはなかった。

 それが悠真のためだからといって、ただ一人で居たくなっただけの未来に対して外野から「これまで通り仲良くしろ」などと言えるはずもない。


 ゆえに桃華は最初に尋ねた。悠真のことをどう思っているのか、と。

 返答は「互いを利用していただけの関係」という無味乾燥なものであり、未来にとっての悠真は「その程度の存在」。

 直後の桃華は大切な友人を悪く言われたと受け取り、いかった。だが今なら、それは彼女の本心ではなかったのだと分かる。


『彼は私なんかよりもよっぽど、私から離れたかったはずなのよ』

『私が側に居なければ――力を貸したりしなければ、彼はもしかしたら今のようにはなっていなかったかもしれない』


 最初から、悠真のためだったのだろう。

「互いを利用する」「力を貸す」というのがどういう意味かは桃華には分からない。その裏にはきっと、なにか複雑な事情があったに違いないから。

 けれどそれでも、未来は悠真のことを想って動いていた。桃華が、悠真は未来のことを大切に想っていると言ったのと同じか、もしかしたらそれ以上に。


 しかし、だとしたら今の状況はあまりにもいびつだ。

 互いに互いのことを想っているはずなのに、現状の彼らはまるで絶縁状態のように噛み合わない。

 あるいは磁石のように、だろうか。同種の磁力は、むしろ反発を生み出してしまう。

 桃華の目には、どちらかが歩み寄るだけで解決できそうな問題に見える。なのに彼らは片や自ら解決に動こうとせず、片や本心を隠して突き放す。

 まったく、素直じゃないのだ――


「――ねえ、聞こえたよね」

「……?」


 脈絡のない桃華の呟きに、未来がわずかに怪訝けげんそうな顔を見せるが、構わず彼女は続けた。


「七海さんはちゃんと言ったよ。私にはなんのことか分かんなかったけど……きっと伝わったんだよね」

「……何を言って――」

「だからさ」


 未来の言葉を遮って、桃華は静かな微笑みとともに言う。


「――後はもう、自分の力で頑張れるよね?」





 それ以上なにも言わず、桃華は屋上から出ていった。取り残された未来は、訳が分からずに閉じられた屋上の鉄扉てっぴを見つめるばかりだ。


「……なんなのよ……」


 非常に珍しい一人言を溢し、ため息をつく。

 ……思えば、つい感情的に色々と口走ってしまった。余計なことは言っていないはずだが、もし今のやり取りの間に桃華が、悠真の陰の努力に気付いてしまったらどうしよう、という不安が心の中ににじむ。


 時間だけを見れば屋上に来てから五分ほどしか経っていないはずだが、そのわずか五分で彼のこれまでの苦労が水の泡になってしまったら申し訳が立たないどころの騒ぎではない。あの少女は真太郎と同レベルで察しが悪いようだし、心配するだけ無駄だろうが……。


 ――いや、そもそも〝契約〟を破棄した今となっては、もうそんなことを考える必要はないのかもしれない。


「……」


 なんとなくいつもの――といってもこの数週間はほとんど訪れていなかったが――屋上のベンチに歩み寄る。微妙に砂埃で汚れている座面を軽く手で払い、腰掛けた。

 ぼんやりと見上げた空は、夕焼けの赤に染まりつつある。この季節になれば少しずつ日暮れが遅くなっていくとはいえ、まだまだ暗くなるのは早い。

 門の前で待機している本郷ほんごうのこともあるのだし、こんなことをしていないでさっさと戻った方がいいだろう。

 頭ではそう分かっていながらもその気にはなれず、なんとはなしに見慣れた屋上の風景を見回し――


「……」

「……」

「…………」

「…………」

「………………」

「………………」

「……………………」

「……………………」


 ――気付いた。屋上に備えられた貯水タンクと落下防止用の鉄柵の、その隙間。

 幅一メートルもないであろうそのスペースにしゃがみこんでいる少年――小野おの悠真の存在に。


「…………何時いつから、そこに居たのかしら」


 絶妙に気まずそうな顔をしている彼は、ベンチに腰掛けたまま唖然とした表情をしている美しい少女にぼそりと答えた。


「その……お前が屋上ここに来る、ちょっと前から」

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