第一四五編 The day after Valentine⑪
「こ、こんなところで何をしているのかしら、二人ともっ!?」
「い、いえ、それは完全にこちらの台詞ですが……」
突然現れた主人の妹――
まるで遠くから走ってきたかのように息を切らし、この真冬に汗を流している彼女は、「あえっ!? なにがっ!?」と明らかに酸欠で頭が回っていなさそうな顔でグリンッ、と本郷に顔を向ける。
「な、なにがと言われましても……そ、そもそも美紗お嬢様、どうして従者もつけずにお一人で外に……」
「ひ、一人じゃないわよ!? 途中まで
「えっ……?」
ちなみに周囲にそのような車の影はない。あるのは本郷が運転してきた七海邸の車一台だけだ。
「で、ではその服部さんはどこに? どこかで待機させておられるのですか?」
「い、いいえ、ちょっとした渋滞に捕まってるだけよ。すぐに追い付いてくるわ」
「……? あ、あの、美紗お嬢様の置かれている状況がよく分からないのですが……?」
「うっ、うっさいわね! そんなの私だってあんまり分かってないわよ!」
「ええ!? どうしてですか!?」
自分で自分の置かれている状況が分からないというのはかなり問題だと思うのだが、主人の妹
「えっと……お姉ちゃん、少し頼みたいことがあるんだけど、いいかな?」
「……なにかしら」
いきなり登場したかと思えば頼み事があるという美紗に、流石の未来も少し
そんな姉に向かって、妹は真剣な
「――
「……は?」
思わず疑問符を浮かべたのは、未来ではなく本郷だ。
美紗が現れた瞬間から訳が分からないことばかりだが、人嫌いの未来に対してこんな頼み事をするなんて、姉の性格を熟知している彼女らしくないにも程がある。
しかしそこで本郷は初めて、美紗の手に小さな紙袋が握られていることに気付いた。この場にわざわざ持ってきたということは、あれが何か関係しているのだろうか。
「……」
未来は、真っ直ぐに美紗のことを見据えた。気を悪くしたような素振りは一切ないものの、妹の真意を見抜くかのような
「……一つ聞くわ」
未来が静かに口を開く。
「――
その問いに、本郷はわずかに首を傾げる。
客観的に見れば意味が分からない質問だろう。真太郎を呼んできてほしいと頼んできた美紗が、真太郎の居場所を知るはずがないのだから。
案の定美紗は目をぱちぱちと
だが――
「……そう。分かったわ」
それだけ呟いて、主人は本郷と美紗に背中を向けて歩き出す。向かう先は正門、もとい
「お、お嬢様?」
「貴女はそこで美紗についていなさい、本郷」
「か、かしこまりました……」
「あ……ありがとね、お姉ちゃん」
校門の向こうへ消えていった未来を二人で見送った後、本郷はパタパタと両手で顔を扇いでいる美紗の汗だくの顔を取り出したハンカチで拭う。主人に似て化粧など蛇足にしかならない顔立ちをしているお陰で、汗をかいてもそれを拭き取るだけで済んだ。
彼女は「ありがと、本郷」とだけ言うと、停めてある車のドアを自分で引き開けて後部座席へ乗り込む。そして「はあ」と大きめの息をついた。
「……良かったわ、間に合って……流石に駄目かと思ったもん」
「ま、間に合った……ですか?」
「うん」
開きっぱなしのドアから車の中を覗くと、美紗は手にしていた紙袋を横に置き、走ったせいで乱れた前髪を
……そういえば、あの紙袋はなんなのだろうか。
「……ん? これ? 決まってるじゃない。今日はなんの日だと思ってるのよ」
「今日……? あっ……」
言われてようやく思い出す。そうだ、今日は世間的にはバレンタインデーだった。本郷はその手のイベント事に疎い――主に未来がまったく関心を示さないことに由来する――ため、すっかり忘れていた。
「で、では久世様を呼んできてほしいと未来お嬢様にお願いしたのは、それをお渡しするためですか?」
「……それは半分正解、ってとこかなぁ」
「……?」
本郷の疑問にそう答えると、髪を整え終えたらしい美紗は車窓越しに初春学園の方を見る。
「間に合った」というのは、真太郎が帰る前にここに着いたのでバレンタインチョコを無事に渡せる……という意味なのだろうか。その黒い瞳が今、なにを見通しているのかは分からない。
「――真太郎さんが何をしようとしてるのか、どうしてあんなことを頼んできたのかは大体分かるけど……私は、そこに真太郎さんは居ない方がいいって思うんだよね」
「居ない方が……? す、すみません、美紗お嬢様。それはいったいどういう意味でしょうか……?」
「……さあ、どういう意味だろうね」
何を言っているのかさっぱり
どうして彼女は真太郎を呼ぶように頼んだのか、「半分正解」とは、「そこに居ない方がいい」とはどういう意味か、真太郎は何をしようとしているのか、もしや先ほどの手紙と何か関係しているのか……分からないことだらけで、何一つ判然としない。
美紗の言動が時折突飛なのは今に始まったことではないのだが、ここまで本郷の理解が及ばないことは珍しかった。
「(……未来お嬢様は、すべて理解されたご様子でしたが……)」
本郷は軍人として、そして七海家に仕える身としてそれなりに教養を積んだ女だ。だがそれはあくまで知識・学識の話。この姉妹のように生まれつき卓越した頭脳を持ち合わせているわけではない。
だからこそあの短時間で自らの主人が「分かった」と言ったことが信じがたく――その一方で、自らの主人はそういう人物なのだと納得してしまう自分もいた。
「……美紗お嬢様」
「ん? なに?」
「未来お嬢様は……今、何を考えておられるのでしょうか」
「んー、そうだねぇ……」
本郷の抽象的な質問に、美紗は数秒悩むような仕草をしてから、やがてふわりとした優しげな笑みを浮かべる。
「――もしかしたら、ちょっと怖がってるのかもしれないね」
……その言葉の真意は、やはり本郷には計り知ることが出来なかった。
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