第一四四編 The day after Valentine⑩
本来であればもう少し時間的余裕を持たせるべきなのかもしれないが、学校前に長く車を停めるべきではないという主人の考えを汲み、五分程度に留めている。
主人は「数分くらい待つからもう少しゆっくり来て構わない」と言ってくれたが、その気遣いは本郷自身が丁重に断った。主人が人目を嫌うことは誰よりも知っているし、だとすれば人通りの多い正門前で彼女を待たせるのは忍びない。
なによりセブンス・コーポレーションの令嬢を従者が待たせることなどあってはならないのだ。
「(お嬢様……今日は、
放課後のチャイムが風に乗って聞こえてくるのと同時に待機していた運転席から降りつつ、そんなことを考える。
主人自ら関係を断ち切った少年、小野
今日、数日振りに登校した主人と彼が言葉を交わすことが出来たかどうか……それだけが彼女の気掛かりだった。
本郷は、主人がどうして悠真との関係を断ったのかを知らない。主人はなにも語らなかったし、であれば本郷から無理に聞き出すことなど出来る筈もなかった。
だが、このままではまた主人は一人ぼっちになってしまう。
自分が彼女の従者となった時から昨年、あの少年と出会った日までと同じように。
もちろん主人がそれを望むというならばいい。しかし、本郷の目にはとてもそのようには見えなかった。むしろ……。
「(……
先日悠真と会ったのは、突然主人の妹である
聡明な彼女が教えなかった以上、なにか意図があってのことに違いないのだが……。
「――待たせたわね」
「! ……とんでもございません。お帰りなさいませ、
掛けられた声にハッとし、すぐに姿勢を正して深く一礼する。
相手は言うまでもなく彼女の主人――七海未来だ。
かつて軍人として広い世界を目にした本郷をしてこの世の何物よりも美しいと思わせられるその少女は、いつものように「仰々しい真似をしないで」と言いながら学生鞄を手渡してくる。
「なにか問題はございませんでしたか?」
「……ええ。いつも通りよ」
「そう、ですか……」
嘘でしょう、などと言えるはずもない。しかし、それは紛れもない嘘だった。
〝いつも通り〟なわけがないのだ。少なくとも今の未来と、悠真と出会ってからの数ヶ月間の未来とでは表情がまるで違う。
いや、彼女が人形のように相好を崩さない人物であることは承知しているが、付き合いの長い本郷であれば主人のポーカーフェイスを読み解くくらいのことは出来る。
今の未来の表情は暗かった。なにか思い悩んでいるような、悔いているような、そんな表情だ。そしてこんな表情をした主人など、本郷は彼女の従者となって以来見たことがない。
「(……やはりお嬢様は、小野様のことを……)」
「……本郷? どうかしたのかしら」
「! い、いえ、なんでもございません」
考え込むあまり主人を待たせてしまった。いくら心配だからといって、目の前の主人に無礼を働くわけにはいかない。
すぐに車のドアを開こうとする本郷に、未来は「……それと」と手を差し出してきた。
「これを処分しておいてくれるかしら」
「? これは……?」
手渡されたのは、一枚の
「……下駄箱に入れられていたわ。くだらない
「悪戯!? 許せません! どこの人間がお嬢様に無礼を……――!?」
いったいどこの愚か者の仕業だ。私を、いや
――七海へ。
今日の放課後、話したいことがある。
いつもの場所まで来てほしい。
小野悠真――
「お、小野様から……!? お嬢様、これはいったい……!?」
バッと顔を上げて主人の顔を見ると、彼女は小さくため息をつく。
「……読んで良いと言ったかしら?」
「! も、申し訳ございません! 失礼致しました! ……しかし、これは……」
先ほど放課後のチャイムが聞こえてきたということは、未来は間違いなく屋上まで足を運んでいないはずだ。それが分からない。
もう悠真と話すことなどない、とでも考えているのだろうか? ……そんなはずはない。話したいことなど、話さなければならないことなどいくらでもあるはずだ。
だが自分から関係を断った以上、今さら
であれば、この手紙は未来にとって最高の
「――それは小野くんから送られてきたものではないわ」
「……えっ……」
本郷の思考を斬り捨てるように、未来が言った。
「し、しかし差出人の名は……」
「それは彼の字じゃない。……前に散々見たから、間違いないわ」
前に、というのは勉強会の時のことだろうか。言われてみれば便箋の文字は少し丸っこく、男性というよりは女性が書いたような字のように見えなくもない。
もっとも本郷は悠真の書いた字などほとんど見たことがないので、彼女にはそれを判別することなど出来ないのだが。
「で、ではこれは誰から……? 小野様の関係者といえば、まず思い付くのは
「……その二人の字でもないから、別の人間でしょうね」
主人の答えに、本郷も同意する。そもそもあの二人は他人の名前を
「……本当の差出人が誰なのかはある程度察しがつくけれど」
未来は静かに呟き、そして続ける。
「どちらにしても行くつもりはないわ。時間の無駄よ」
「……!」
「車を出して頂戴、本郷」
「お嬢様……」
車の前に立った主人に、しかし本郷はいつものように即座にドアを開けることが出来なかった。
彼女をこのまま帰らせてはならないと勘が囁く。
未来は手紙の差出人が誰なのか察しがつく、と言った。それはつまり未来がその相手を知っている、ということ。
他人嫌いな主人が〝誰〟なのかを認識しているということは……おそらくは悠真と近しい人物である可能性が高い。
そんな人物がわざわざ悠真の名を使ってまで未来を呼び出したということはつまり――
「……本郷。聞こえなかったのかしら」
「……お、お嬢様……」
本郷は迷う。主人の命に従うか、それとも主人の命に背いてでも彼女を行かせるべきか、と。
普通に考えるなら圧倒的に前者が正しい。命令に背くことはもちろんだが、得体の知れない人物の待つ場所へ主人を行かせるなどあり得ない。
しかし同時に脳裏を
「――本郷」
三度目。名を呼ばれた本郷は、ビクリと肩を震わせた。
本郷がここまで明確に主人の命に従わなかったことなどこれまで一度もなかった。
だからこそ、怖い。
目の前の美しい少女の吸い込まれてしまいそうなほどに黒い瞳の奥を覗くことが怖くてたまらない。
「…………か、かしこまりま――」
とうとう本郷が折れ、深く頭を下げようとしたその時だった。
「あ、あっれーっ!? お、お姉ちゃんっ!?」
聞き覚えのある、それでいてなぜか妙にわざとらしい、主人によく似た声が聞こえてきたのは。
「み……美紗お嬢様……!?」
驚いて視線を向けた先には、どういうわけか汗だくになって息を切らしている、私服姿の七海美紗が立っていた。
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