第一四三編 The day after Valentine⑨
★
二月一四日、バレンタインデー。
その美しい少女――
何日かぶりに授業へ出た彼女は、誰よりも早く帰路に着く。今までとなにも変わらない。
いや、正確には〝彼と出会う以前と〟、だろうか。
校舎内の階段を静かに降りる。
彼女の所属する一年一組は他のクラスと比較してホームルームの時間が短いので、周囲に他の生徒の影は見えない。
彼女にとっては好都合だ。人が多い場所はストレスが溜まる。
もう一年近くも通っているはずなのに、容姿に優れる彼女に対して不躾な視線を送ってくる輩は一向に減らない。むしろ最近、以前よりずっと多くの生徒から見られているくらいだ。
「……」
下駄箱へ続く廊下を進みながら未来はわずかに――他人が見てもまったく分からない程度ではあるが――表情を曇らせる。
思い出してしまうのは数週間前、とある少年に対して彼女が言い放った一言。
『――貴方の存在は、私にとってなんの
「……」
静かに悔やむ。
彼を――
きっとあの心ない一言で、彼は傷付いたことだろう。いつも交わしていた軽口とは訳が違う。そう思うと、後悔の念が押し寄せてくる。
彼女ならもっと別の言い方が――言い訳が思い付いたはずなのに。なのにあの時は、どうしてあんな言い方しか出来なかったのか。
彼の存在が未来にとって、なんの
例の〝契約〟以降、彼女に声を掛けてくる生徒の数は激減していた。それ以前までは昼休みになれば昼食の誘いや告白の呼び出しなど、同性・異性を問わず声を掛けられたものだった。無論、
それらがなくなったのは当然、悠真を側に置いたからこそだ。別の意味で〝見られる〟ことは増えたが……代わりに鬱陶しい連中から話し掛けられることはなくなった。
毎日のように下駄箱に入っていた
もしかしたら〝彼でなければならない理由〟はないと言われるかもしれない。誰でもいいから側におけば、同じ結果が望めたのではないか、と。
だが未来はそうは考えない。いや、厳密に言うなら〝小野悠真でなければならない理由〟はなかったかもしれないが……少なくとも未来が知る限りにおいて、彼以外に適格と言える者は一人として居なかったのだ。
何故なら彼は、
その異常なまでの想いがあったからこそ、未来にとって悠真は特別だった。
だって彼は、未来のことを特別視しないから。
これまで出会ってきたすべての人間の中で彼だけは、未来を真の意味で対等に扱ってくれたから。
彼だけは、未来の
もっとも――彼がそんな人間だったからこそ、未来は彼のことを突き放すしかなくなってしまったのかもしれないが。
「……」
あれから何度も繰り返した思考を止め、未来は誰もいない下駄箱へ向かう。
あと数分もすれば、帰宅する生徒や運動部に向かう生徒たちであっという間に人混みと化すだろう。そうならないうちにさっさとここから出てしまいたい。
そう考えて下駄箱の中にあるほとんどすり減っていない革靴へ手を伸ばしたその時、彼女はふと気付く。
揃えられた革靴の上に、一枚の手紙が置かれていることに。
「……」
またか、と小さく息をついてしまう。
ただただ鬱陶しい。未来が
しかもこういったものはいつも封筒に入れられているのに、今日の手紙については剥き出しである。どうやらこれを送ってきたのは、最低限の礼儀も心得ていない人間のようだ。といっても、どちらにしても未来にはわざわざこれに目を通す気など微塵もないのだが。
彼女はいつも通りそれを近くのゴミ箱に放り捨てようとして――
『――受け取ってやってください。お願いします』
――脳裏に、かつての彼の言葉が
思えば未来と悠真が出会った切っ掛けは、こんな風に下駄箱に入れられていた、差出人の名前にさえ目を通さぬまま廃棄したラブレターだった。
その一部始終を見ていたらしい彼がいきなり噛みついてきて、かと思えば見ず知らずの差出人のために、自分に向かって深く頭を下げてきたりして。
未来はあの時初めて、小野悠真という男に興味を抱いたのだ。
自分とはまったく異なる〝価値観〟を持つ彼に。
「……」
未来は静かに、手の中にある紙を開いた。深い意味はない。言ってしまえばただの
しかし手紙の文面に目を通した彼女はわずかに瞳を見開いた後、それを放り捨てることはせず、元通りに折り畳む。
彼女が下駄箱に入れられていた手紙を捨てなかったのは、これが初めてのことであり……そしてそれ以上でもそれ以下でもない。
未来はそのまま上履きから革靴へ履き替えると、いつもと同じように下駄箱を出た。
「……」
手の中にある手紙の差出人の名は――〝小野悠真〟となっていた。
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